第37話 土の匂いと本の匂い
工房の前までたどり着いたアルフレッドの目に飛び込んできたのは――なぜか全身がびしょ濡れになったレティシアとアルラウネの二人だった。
「あら、殿下。そんなに慌ててどうかなさったんですの?」
「え? いや、お前の悲鳴が聞こえたから……」
アルフレッドの言葉に、レティシアはきょとんと目を丸くした後に恥ずかしそうにはにかんだ。
「違うんです、あれはただ、アルラウネさんが土に汚れていたので、工房の裏にある泉で洗って差し上げようとしたら、どうやら水遊びだと勘違いされてしまったらしく……」
「お水ぱしゃぱしゃ! 王様、楽しかったね!」
無邪気にじゃれついてくるアルラウネの頭を、レティシアは仕方なさそうに苦笑しながら優しく撫でる。アルラウネが幼い少女の姿を取っていることも相まって、神々しい絵画のような光景に見える。
そんなやりとりをアルフレッドはぽかんと口を開けて眺めていたが、ふとあることに気づいて慌てて顔をそらした。
「レティシア、そのっ、見えてるからっ……!」
「え?」
何について言われているのか分からず、レティシアは戸惑いの表情になる。同時に撫でられている手が止まったことが不満だったのか、アルラウネは自分から頭をレティシアの手のひらにすり寄せた。
「殿下、どうしましたの? 何が見えているのですか?」
「そ、それはっ、ええっと……」
アルフレッドは顔を背けたままぎゅっと目をつぶって言葉に詰まる。彼の顔は熟れた果実のように赤く染まり、ろくに返事もできないでいる。
懐いてくるアルラウネを撫でる手を再開させながらレティシアが戸惑いの目をアルフレッドに向けていると、彼の後ろから小走りで追いかけてきたアーシェがようやく追いついてきた。
「おやおや、悲鳴の声色からしてあまり深刻な事態ではないとは思いましたが、随分と可愛らしいハプニングが起きたようですね」
「まあ、アーシェさん。おはようございます」
ほのぼのと挨拶をしてくるレティシアに、アーシェは丁寧に礼をしながら切り出した。
「おはようございます、もう昼近いですがね。それよりここは、年長者で余裕のある私が指摘すべきだと思うので言うのですが」
「はい、何でしょう?」
「胸元が透けてしまっておりますので、着替えをされるのをおすすめいたします」
「……え?」
レティシアは数秒間固まった後、改めて自分の服を見下ろす。そして、水に濡れたせいで白いシャツが肌に張り付き、胸元のラインがくっきりと透けて見えてしまっている自分の状態に気がつき、一気に頬を上気させた。
「すっ、すみませんっ! 今、着替えてきますっ!」
弾かれたような勢いでレティシアは工房の中へと駆け込んでいき、勢いよくドアが閉められる。アーシェは年長者の余裕を見せつけているつもりなのか、平然とした様子でアルフレッドに声をかけた。
「殿下、もうレティシア様は行きましたよ。顔を上げても大丈夫です」
「っ……、礼は言わないからな!」
「はははは、礼には及びませんよ。無様に顔を真っ赤にして何も出来なくなる、初心な殿下をこれからいくらでも揶揄えると思えばおつりがくるぐらいです」
「このっ……!」
弱みを握ったとでも言わんばかりにアーシェはにやにやと笑みながら、アルフレッドの醜態を茶化す。アルフレッドは今度は怒りで顔を真っ赤にして、アーシェに食ってかかろうとした。
しかしその寸前、アルフレッドに向かって笑顔のアルラウネが勢いよく飛びついてきた。
「王様ーっ!」
「は? うわっ!?」
少女の姿をしたアルラウネに飛びかかられ、バランスを崩したアルフレッドは、彼女もろとも地面へと倒れ込む。考えるよりも先に、腕の中の彼女が怪我をしないよう抱え込んで庇ったので、結果的にアルフレッドは受け身もできずに体を地面に打ち付けてしまった。
「い、っづぅ……!」
「あれ? 王様、大丈夫? 痛い?」
世界樹の中で似たような状況に散々遭っていたのでつい体が動いてしまった結果だったが、庇われたことを理解したアルラウネは、心配そうな顔でこちらの手を握ってきた。
「いたいのいたいの、どこかに飛んでけー」
彼女の握る手が仄かな光を放ち、同時にアルフレッドの背中にあった痛みは綺麗に消えてなくなる。
「治癒魔法……こんなに簡単に……」
「どう? 王様、痛いのなくなった?」
アルフレッドは体を起こし、呆然と自分の体に起きた変化を確認する。服越しに負ったはずの些細な擦り傷すら完璧に治癒され、心なしか今までより根本的に体調も良くなったように感じる。
困惑と驚きで固まるアルフレッドの視界を遮るように、アルラウネは彼の顔を覗き込んできた。
「王様? 大丈夫ー?」
「あ、ああ。治してくれたんだよな? 感謝する」
戸惑いながらも感謝の言葉を述べると、アルラウネは満開の花のように元気な笑顔になって、アルフレッドに頭を擦り付けた。
「王様、撫でて撫でて!」
「ええ……?」
「ほら早くー! 王様、撫でてー!」
良く懐いた犬猫のようにぐりぐりと頭を擦り付けてくるアルラウネに根負けし、アルフレッドは彼女の頭を恐る恐る撫で始める。それはぎこちない手つきではあったが、アルラウネは気持ちよさそうに目を細めた。
「えへへ、王様の手は本の匂いがするねー」
「え?」
「あっちの王様の手は土の匂いがしてね、こっちの王様の手は本の匂いがするの。どっちも大好き!」
一方的な会話に戸惑いつつも、アルフレッドは努めて優しくアルラウネの頭を撫で、聞こえるか聞こえないかの声量でぽつりと呟いた。
「……俺はそもそも王様じゃなくて、おまけみたいなものだと思うんだが」
だがその言葉をしっかりと聞き取ったアルラウネは、パッと顔を上げると、まるで当たり前のことを言うように笑顔で答えた。
「王様は王様だよ? アルラウネの大切な王様たち! 王様のためにアルラウネは世界樹になるの!」




