閑話 一方その頃、隠密の男は
ザルド・ジルフィードはイルソイール家お抱えの使用人だ。
少々粗野な印象を受ける男だが使用人としての力量は確かで、変わり者一家であるイルソイール家の奇行についていくことができる数少ない人間である。
そして、そんなザルドには裏の顔があった。
王城から少し離れた位置にある離宮。その庭に溶け込むように、ザルドは身を隠していた。
――お嬢様も厄介なことに巻き込まれたものだ。一方的に婚約破棄された上に、その相手の消息が分からなくなるだなんて。
ため息を密かに着きながら、ザルドは辺りに人影がないことを確認する。そして目撃者となりうる存在が誰もいないと確信すると、認識阻害魔法で自分の姿を誤魔化し、離宮の扉へと足音もなく駆け寄った。
音を立てないようゆっくりと扉を引き、薄く開いた隙間から、まるで猫のようなしなやかな動きで体を滑り込ませる。無事潜入に成功したザルドは、警戒を怠らないまま離宮の奥へと向かっていった。
ザルドはイルソイール家の使用人であり、代々イルソイール家に仕える隠密である。
イルソイールは研究者気質の者が多い一族だ。今の当主であるユリウスは、比較的政治的な立ち回りが上手いほうであるが、歴史を見ると政治の駆け引きに失敗して不利な条件を呑まされた当主も多い。
そんな一族の未来を守るべく、三代ほど前の当主が雇ったのがザルドの先祖であり、それ以来、彼の一家は献身的にイルソイール家に仕えてきた。
そして今。ザルドはイルソイール家に降りかかりそうな厄介ごとの情報を探るために、王家の離宮へと潜入しているのであった。
――王家に探りを入れるとか捕まったら打ち首だろうな……。見つからなければいい話だが。
実力に裏打ちされた慢心を抱きながら、ザルドは情報として聞いているアルフレッドの私室を目指して歩いていく。
認識阻害魔法がかかっていることもあって、彼からは足音どころか息遣いや衣擦れの音すら周囲には聞こえない。
見た目も『そこに誰かいる』ことは分かっても、それが誰なのかまでは理解できないようになっている。彼が身に纏っているのはそういう魔法だ。
やがて離宮の奥に存在するアルフレッドの部屋の前までたどり着いたザルドは、扉の近くの壁に張り付き、部屋の中に誰かいないか耳を澄ました。
「……問題はアルフレッドの件について、どこまで隠し通すかだな」
「はい、不用意に公表すれば政治が乱れかねませんが、不審に思い始めている貴族もいるようです」
部屋の中から聞こえてきたのは、第一王子であるカーチスとその側近の青年ユーリの声だった。
ちょうど目的である話題で会話している二人に、ザルドはにやりと口の端を持ち上げながら、さらに扉へと近づく。
どうやらちょうどいいタイミングで、潜入することができたらしい。このままことの真相まで話してくれればいいのだが。
しかし次にユーリの口から飛び出した話題に、ザルドは目を見開く。
「それから神秘の森の怪物の件ですが……」
「ああ、数十年の周期で現れては人を襲うあれだろう? 前回から十数年しか経っていないが兆候が出たのか?」
「はい、森のそばに住む者から報告が上がっています。もし本当に噂通りレティシア嬢が神秘の森にいるのなら、早急に手を打たなければ――」
神秘の森? 人を襲う怪物?
己の仕える一家の令嬢に危機が迫っていると察し、ザルドは一瞬頭が真っ白になる。
このまま潜入を続けるべきか? いや、まずは一刻も早く旦那様にこのことを伝えるべきでは――
焦りで硬直し隙を晒したザルドへと、部屋の中から足音が近づいてくる。ザルドはハッと気づいて身を翻そうとしたが、その直前に扉は開き、彼とカーチスははっきり目が合ってしまった。
「ん? お前は……」
「っ……!」
ザルドは顔面蒼白になると、転がるような勢いで走り出し、開いていた窓から庭へと飛び降りる。遅れて事態を把握したユーリは声を張り上げようとした。
「曲者っ! 衛兵を呼――」
「待ちなさい。彼は泳がせておこう」
カーチスに穏やかに制止され、ユーリは怪訝な顔を彼に向ける。
「何故ですか殿下。先ほどの賊は、認識阻害をかけていました。この場で捕らえなければ誰からの間者なのか分からなくなります」
「ははは、ユーリは間抜けだな。認識阻害は大きく魔力量が上回る人間には効き目が薄いんだ」
正論を言われた上に流れるように罵倒され、見るからに不機嫌な顔になりながら、ユーリはカーチスに問いかける。
「殿下は、あの間者の顔に心当たりが?」
「ああ。確かあれはイルソイール家の飼い犬だ。恐らくレティシア嬢と婚約破棄をしたアルフレッドがどうしているのかを探りに来たのだろう」
カーチスは優雅に歌うように言うと、唐突に悪人顔になって、にやりと意味深に笑った。
「……しかしふむ、これは利用できそうだな?」




