第2話 神秘の森で楽しく暮らしましょう
数日後、レティシアは神秘の森に向かう馬車に揺られていた。馬車を操るのはイルソイール家の使用人である男性、ザルドだ。
人里からは遠く離れ、見渡す限りの草原にさしかかった頃、ザルドは肩を落としてぼやいた。
「お嬢様や旦那様の奇行には慣れきっていたと思いましたが、まさか神秘の森でしばらく隠居するだなんて思いませんでしたよ。本当に使用人をつけなくてもいいんですかい?」
「ええ、生活に必要なものは魔法工房に揃っているらしいもの。それに使用人の方々がいなければ、諫められることもなく研究に没頭できるわ。ふふふ……」
怪しい笑い声を上げるレティシアに、ザルドは重いため息を吐いた。
「今の発言は聞かなかったことにしますよ。倒れないようにほどほどにしてくださいね?」
「ふふ、善処するわ」
無茶はしないと約束はしないレティシアに、ザルドは本日幾度目かのため息を吐く。
「本当によろしくお願いしますよ? お嬢様に何かあったら、旦那様が悲しみのあまり死んでしまいます」
「それは困るわね。それなりには自分を大事にするわ」
「まったく……」
呆れた声を上げながらも、ザルドは強くレティシアに言い含めることはしなかった。なぜなら、イルソイール家で一番常識を持っているのはレティシアだったので。
やがて馬車は神秘の森の目前へとたどり着く。レティシアは、生活必需品を魔法で圧縮した小さなトランクを片手に、馬車から地面へと降り立った。
「それではほとぼりが冷めた頃にお迎えに上がりますので、どうぞスローライフ生活をお楽しみください」
「ええ、ありがとう。世紀の発見を持ち帰れるように頑張るわね!」
「目的はそれじゃないんですがね……」
ぶつぶつとぼやきながら、ザルドは馬車を緩やかにターンさせて去っていった。レティシアはその背中が小さくなるまでそれを見送った後、神秘の森へと向き直った。
「……よし! まずは森の入口を探すところからね!」
レティシアは父親に託された魔法工房の鍵を取り出す。宝石がはめ込まれた鍵には銀製のチェーンがつけられており、首からかけて持ち歩くこともできそうだ。
彼女はそのチェーンを持って、鍵を下へとぶら下げた。
「我は工房の主。その叡智の輝きで我を導け」
父親に教えられた通りの呪文を唱えると、重力に従ってぶら下がっていた鍵はゆらゆらと揺れ始め、僅かな輝きを放ちながら、とある方向へと引っ張られるように持ち上がる。
「ふむ、あちらみたいね」
レティシアは一人で納得すると、鍵に導かれるまま森の縁を沿うように歩いて行った。
神秘の森は、草原のただ中に突然出現する巨大な森だ。その規模は王国の四分の一を占めるほど巨大であり、神秘の森の向こう側にある国との国境は曖昧なものになっている。
互いに自分たちの領土だと認識してはいるが、そもそも立ち入り禁止の禁足地であるので、無理に境界を定めることは避けているというのが実情だ。
そんな森の外縁をレティシアは歩いて行ったが、とある地点にたどり着いた瞬間、工房の鍵は突然森の中を指し示した。
「ここから入れということね。わくわくしてきたわ!」
鼻歌を歌い出しそうな心持ちで、レティシアは神秘の森へと足を踏み入れる。その途端、彼女の周囲の空気は一気に性質を変えた。
背の高い木々から放たれる湿った香りが全身を包み、外側からは一切聞こえなかった小鳥の鳴く声が遙か頭上から聞こえてくる。
歩みを進めるごとに文明からは遠ざかり、植物の息吹が聞こえてきそうなほどの森の空気が満ちていく。ただ歩いているだけで見たこともない植物が視界に入り、レティシアは己の理性を総動員してそれを観察しそうになる衝動を堪えた。
「ダメダメ。まずは工房までたどり着かないと迷ってしまうわ」
自分に言い聞かせるように強く言うと、レティシアは早足で森の中を進んでいった。
森には危害を加えてくる動物もいるはずだが、不思議と彼女の目の前に現れることはなかった。遠巻きにこちらを伺っているような気もするが、ただの気のせいかもしれない。
風もないのに葉がざわめくのは、妖精が飛び立つ音だろうか。工房の生活で、少しでも彼らと交流できたらいいのだけど。
「ふふ、ふんふん~」
とうとう高揚感で鼻歌を口ずさみながら、レティシアは前に進み続ける。すると――同じような景色ばかりだった森は急に開け、レンガ造りの小さな工房が目の前に現れた。
「到着! さあ、忙しくなるわよ~!」
レティシアは跳ねるような歩調で工房へと近づくと、今まで自分を導いてくれた鍵を手に取り、ドアの鍵穴へと差し込んだ。
カチリ、と軽い音とともに工房の鍵は解除され、レティシアはそのドアをゆっくりと引き開ける。
「お邪魔しまーす……」
その中に広がっていたのは、研究者にとっては夢のような空間だった。
「わぁ……!」
こじんまりとした工房の中には至る所に棚があり、所狭しと大小様々な実験器具が並べられている。
それら一つ一つが、森の外では宝物庫に入れられるほどに希少かつ高価なものばかりで、中には研究バカであるレティシアにも使い方が分からないものもある。だが、興味を持ってそっと指先で触れてみると、実験器具の前に淡く光り輝く文字が浮かび上がった。
「これは……古い言語だけれど、器具の使い方かしら」
レティシアが持ち込んだものの中には、こういった骨董品が残されていることを考慮して、自動で翻訳してくれる魔法辞書もある。それを使えば、おそらくこの不可思議な器具を使いこなすことも可能だろう。
荷物も置かないまま一通り見て回ったが、工房のどこにも、不思議と埃一つ積もっている様子はない。まるでレティシアがここに来るのを歓迎しているかのように、全てが彼女の使いやすいように整えられていた。
「すごいっ! なんて素敵なの……!」
レティシアは感激で目を潤ませながら、好奇心のままに実験器具を作業台へと運び、その使い方をマスターしようと熱中し始める。
こうして集中モードに入ったレティシアを正気に戻すのは至難の業だ。屋敷の使用人たちは彼女が倒れてしまう前にその体を無理矢理抱え上げて、食事や休息を取らせたものだが、この場にはそれをしてくれる人間はいない。
そのままレティシアは、ザルドが懸念していた通りの事態になると思われたが――時刻が夕方に差し掛かった時、不意にレティシアの耳は誰かに引っ張られた。
「痛っ! もう、誰ですの?」
その痛みで正気に戻ったレティシアは、不満そうに振り向く。しかしそこには誰の姿もなく、窓から夕暮れの赤色の光が差し込むばかりだ。
レティシアは不思議そうに辺りを見回したが、誰かが隠れている様子もなく、それでは毒虫に刺されたのかと探し回ってみてもそれらしき影は見当たらない。
その代わりに、窓枠の近くにゆらゆらと薄く揺れる影があることに、レティシアは気がついた。
なるほど、どうやら妖精が気を遣ってくれたらしい。
妖精は人に見つかると怯えて逃げてしまう。だから親切な妖精に出会った時の作法は、気づかなかったふりをしながらお礼を渡すというものになっている。
レティシアは実験器具を片付けると、今気づいたというふりをして、わざとらしく声を張り上げた。
「あら、いけない。そろそろ食事と眠る準備をしないとね。少し多めに作って、誰かが食べに来てもいいようにしましょうか」
その言葉に喜んだのか、鈴がかすかに鳴るかのような羽音とともに、妖精は遠ざかっていったようだった。その気配が消えるのをしっかり確認した後に、レティシアは仕方なさそうに息を吐く。
「わたくしだけなら食事なんて簡単に済ませたところだけれど、相席の方がいるのならそうもいかないわよね。諦めてちゃんと食事を摂りましょうか」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、レティシアは持ち込んだ小さなトランクケースを手にして工房の外に出た。