第18話 本当にあったこと
世界樹の根元に膝を突き、一人の乙女が祈りを捧げ続けていた。彼女の服は血に濡れ、きつく絡められた指は細かく震えている。
だが、その血の持ち主は彼女ではない。まるで誰かに守られたかのように乙女の体には傷一つなく、血を流した何者かに泣いて縋った結果なのだろうと察することができた。
「どうか、どうか、妖精王様。私のアーシェをお助けください――」
いくら祈りを捧げても、世界樹の妖精王は乙女に応えない。それでも乙女は石像のように固まって、奇跡が起きることを懇願し続ける。
どれだけの間、そうしていたのか。草を踏んで彼女の背後に歩み寄る人影がいた。
「乙女よ」
「っ……貴方は、魔術王!」
顔を上げて振り向いた乙女は、憎しみに満ちた目を魔術王に向ける。魔術王はそんな彼女の様子を痛ましそうに見た後、静かに提案をした。
「世界樹の妖精王が、私にお告げを下した。妖精王の代わりに、私にお前たちを助けるようにと」
予想外の言葉をかけられ、乙女は驚愕で目を丸くする。魔術王は威厳たっぷりに彼女に宣告した。
「あのユニコーンが負った傷を治してやろう。その代わり、お前は両親のもとへと戻り、人として生きるのだ」
「えっ……」
魔術王の出した条件に、乙女はほんの数秒の間逡巡した。だが、すぐに覚悟を決めた顔になると、力強い眼差しで魔術王を射貫いた。
「……分かりました。それでアーシェが助かるのなら、私は彼のもとから離れましょう」
――景色がぼやけ、次の瞬間、レティシアとアルフレッドの視界は別の場所へと移動していた。
薄暗い小屋の中。机の上には大量の金貨とご馳走が置かれており、一組の男女が上機嫌そうに酒を飲み交わしている。
「魔術王様には感謝してもしきれないな! この国の王から、神秘の森の魔物退治の褒美もこんなにたくさん貰えたしな!」
「だけど、あのユニコーンを逃したのは悔しいわ。なんとかして仕留められないかしら」
「ふむ、だったら我が娘クエリアを囮にするのはどうだ? 何しろ降り注ぐ矢の雨から命を投げ出して庇うほどに、ユニコーンはあの子に惚れ込んでいるんだ。きっと簡単に仕留められるさ!」
「いいわね! 角を折って、皮を剥いで、肉も食べてしまいましょう!」
「ははは! それがいい! まったくクエリアが帰ってきてくれて万々歳だ!」
ゲラゲラと下品に笑い合う男女の隣の部屋で、乙女は絶望で顔を青くして震えていた。
「私が生きていることで、アーシェが危険にさらされるなんて……そんなの許せない……!」
乙女は怒りに燃えたが、彼女にできる抵抗はほとんど存在しない。両親に逆らう力もなければ、魔術王との約束でも縛られているからだ。
彼女は絶望の淵に沈んでうなだれた後、床に無造作に置かれていたナイフを手に取った。
「アーシェ、貴方を守れるのならこの命惜しくはありません。……さようなら、愛しい方」
一切躊躇うことなく乙女は自分の胸にナイフを突き立てる。溢れ出る血が床に広がっていき、景色は再びぼやけていく。
次に目の前に広がったのは、森の中に滾々と湧き出る清らかな泉だった。透き通った水の中央には、仄かに光を放つ石が沈んでおり、その石の力によって泉は維持されているようだ。
泉の中には真っ白なユニコーンがぐったりと倒れているが、その腹はゆっくりと上下しており彼がまだ生きていることを示している。
そして、そのほとりには魔術王が立っており、手の指を組んで囁くように祈りを捧げていた。
「妖精王よ。彼女を守れず、あのユニコーンに嘘を吐く私をお許しください。嘘を信じたままあのユニコーンが生きていけるよう、どうか彼をお見守りください」
全てを聞いているレティシアたちがその言葉の意味を理解するより前に、魔術王は泉に沈むユニコーンへと声を張り上げた。
「聞こえるか、悪しきユニコーンよ。お前の愛した乙女は人の世へと戻り、お前など忘れてごく普通の幸せを掴んでいる。もし本当にあの乙女の幸せを思うのなら、彼女を追いかけるのは止めておくがいい。そんなことをすれば、彼女はお前を強く憎むことになるだろう」
そう言うと、魔術王は泉から立ち去っていった。それから時間は急速に過ぎ、季節をいくつか通り過ぎた後、ようやく傷の癒えたユニコーンは泉の底から体を起こした。
「ああ、私の愛しいクエリア。お前がどこかで幸せに生きているのなら、二度と会えずとも構わない。どうか、遠く離れた場所で幸せに……」
寂しそうにユニコーン――アーシェは呟く。
ぐるりと視界が回転し、レティシアとアルフレッドは世界樹の図書館へと戻ってきた。




