第14話 乙女の祈り
脳を揺らす勢いで二人の耳に届いたそれは、絶望を覆すための奇跡を求める少女の悲痛な祈りだった。同時に一瞬だけ見えたのは、血だまりに沈む角のある白馬と、それに縋って泣き叫ぶ少女の姿。
その光景の意味を知る前に、魔法石の輝きは収まっていき、二人の視界はゆっくりと現実へと戻ってくる。
目がくらんでいたレティシアが元通りの視界を取り戻すと、アルフレッドに肩を掴まれた姿勢で自分たちが固まっていたことに気がついた。数秒遅れてアルフレッドもすぐに婦女子の体に無遠慮に触れているという事実に気がつき、慌てて手を離す。
「す、すまない!」
「いえ、大丈夫ですわ。ふふ、それに殿下、昨日はわたくしの手をしっかり握っていたではありませんか」
「あれは冷静じゃなかっただけだ! もう少し慎みを持て!」
「まあ、そんなに気にしなくてもよろしいのに」
くすくすと悪戯っぽく笑うレティシアに、アルフレッドは苦々しい表情になる。しかしすぐに気を取り直すと、アルフレッドは深刻な顔を作った。
「それより、今の声は何だ? まさか、世界樹の中で聞いた声と同じものなのか?」
「恐らくは……。なぜわたくしの魔法石が輝いて聞こえたのかは分かりませんが、きっと世界樹に助けを求めている方がいるということでしょう」
「アーシェの言っていた世界樹の異変というやつか。それから一瞬だけ見えたあの光景……恐らく、今回の異変の舞台はユニコーン伝説の――」
アルフレッドはそこまで口にすると、気まずそうな目でレティシアをちらりと見た。レティシアも同様に心に重しが入ってしまったかのような感覚になりながら、なんとか事実を確認しようと口を開く。
「あの声の持ち主が、物語の中でアーシェさんが無理矢理連れ去ったという少女なんでしょうか」
「その割には奴に心を許しているようだったがな。歴史と物語にはいくらかの差があるということか。……もっとも、今回は俺たちが世界樹に足を運んで、異変に立ち向かう必要はないが」
「え?」
「一度王都に戻って、俺たちの置かれている状況を専門家に相談する。その上で専門家が、この世界樹の異変に対処する。俺たちのような未熟な人間が妖精王のふりをするよりも、ずっとマシな対応だろう。……どうかしたか?」
落ち着いた様子で言うアルフレッドに、レティシアはまるで別人を見るかのような目で彼を見る。
「いえ、初対面の印象よりも殿下が冷静な対応をされているので驚いてしまって」
「……お前は初対面の印象通り失礼な奴だな。他に頼る人間が少ないなら、俺だって平凡なりにしっかりした行動はできる」
拗ねた表情をしながらアルフレッドはぼそぼそと言い、それをごまかすようにレティシアに背を向けた。
「話は終わりだ。アーシェに妨害されることも考慮に入れて、早めに出発するぞ」
「……そうですね、心苦しいけれど専門家の手に委ねたほうが――あら?」
己の体に起きた異変に気づき、レティシアはぴたりと立ち止まる。
「なんだ。どうかしたのか、レティシア……、っ!?」
アルフレッドが振り向くと――そこには体がぼんやりとした半透明になり、困惑と絶望の顔をしているレティシアの姿があった。
「レティシア……!?」
慌ててアルフレッドが駆け寄ると、輪郭がぶれていた彼女の体は元通りの姿に戻った。アルフレッドはレティシアの手を取って、大慌てで彼女の全身を確認する。
「大丈夫か!? 一体何があったんだ!?」
「わ、分かりません、突然体が透き通ってわたくしも驚いてしまって……」
その時、突然の出来事で混乱している二人のもとに、軽やかな蹄の音が近づいてきた。そちらに目を向けると、ユニコーンのアーシェがやってくるのが二人の視界に入る。
「おや、早速異変の影響が出ているようですね。ヒヒン」
「……異変の影響? どういうことだ」
事情を知っているような言い方をするアーシェに、警戒を解かないままアルフレッドは問い詰める。アーシェはやれやれといった仕草をしながら答えた。
「言葉通りの意味ですよ。世界樹の異変とは歴史改変の危機のこと。歴史が改変されたら、『存在しないことになる』人間がいたとしてもおかしくはないでしょう?」
意地悪な色を含んだ声色で告げられ、アルフレッドは悔しそうに顔を歪めた。
「森の外に助けを求めるような悠長なことは言っていられないってことか」
「ええ、世界樹の異変はいつどんな形で起きるかは分かりませんからね。それに……仮に妖精王が森の外に出ようとしたら、この森そのものがそれを妨害すると思いますよ。ヒヒン」
平然とした顔で希望を潰され、アルフレッドはますます渋い顔になる。レティシアはアーシェの前に歩み出て問いかけた。
「アーシェさん、世界樹の異変――世界樹の妖精王への祈りを叶えれば、わたくしの消滅は止められるのですね?」
「正確には違いますね。異変を解決するということは、祈りを叶えることだとは限りません。今私たちがいる現在に続く正しい歴史になるように、つじつまを合わせることこそが世界樹の異変を解決するということなのです」
歌うように告げられたその言葉の意味を飲み込み、アルフレッドは愕然と言葉を紡ぐ。
「正しい歴史のせいで祈りが届かず犠牲になる者が出ても、それを見過ごせと?」
「そういうことです。それが歴史というものですから」
偉そうに肯定してくるアーシェに、レティシアとアルフレッドはつい先ほど見たものを口にすることができなかった。
今、自分たちに課されている異変こそが、アーシェの過去に直結しているものだなんて、軽々しく伝えられるわけがない。
彼は自分の過去を受け入れているようだが、もし目の前に自分の大切なものを取り戻す方法が転がっていると知れば、どんな行動をするか分からない。あの一瞬の光景のように相思相愛の末の悲劇なのだとしたら、それはなおさらだ。
「ま、私も詳しいことは知りませんがね。何しろ世界樹の中に入れるのは妖精王だけですので。ヒヒン。まず今は急いだほうがよろしいと思いますよ。何しろレティシア様は消滅の危機にあるのですから」
アーシェは他人事のように言う。アルフレッドは深く息を吐いて覚悟を決めると、彼をにらみつけながらぶっきらぼうに言い放った。
「言われなくてもそうする。それからその……昨日はすまなかった」
「え?」
「謝ったからな! 今後このことを蒸し返すなよ! 行くぞ、レティシア!」
謝罪されたという事実を飲み込めず、アーシェは呆然と立ち尽くす。
レティシアもまた迷いを飲み込んで覚悟を決めると、アーシェに宣言した。
「アーシェさん、わたくしたちは……簡単に諦めることはしないと思いますわ。わたくしはそう望んでいるし、殿下もきっと同じ気持ちですもの」
気恥ずかしくなるほど堂々と正面から告げられた言葉に、アーシェはあっけに取られた後、気まずそうに目をそらした。
「お好きになさったらよろしいでしょう。期待はしていませんが」
「ええ、好きにさせてもらいますわ」
レティシアは可憐な笑顔で答えると、アルフレッドの後を追いかけて世界樹へと向かっていく。アーシェはその後ろ姿を最後まで見送ると、深く息を吐いた。
「クエリア、我が愛しき乙女。君はなぜ――」




