政略結婚の旦那様に「(執着の強い家系なので心が決まるまで)愛することはない」「(白い結婚の期間)お飾りの妻でも構わない」と言われてしまったんですが、優しすぎませんか?
今は、初夜の前。旦那様と向き合って座っている。
政略結婚した旦那様は、輝くような美貌の持ち主だ。
彫刻のように整った顔を彩るのは、白銀色の美しい髪。肩に付くほどの長めの髪は、無造作に見えてもよく手入れがされている。青い瞳はその聡明さで輝くよう。全てが驚くほど麗しい。
そんなお顔をこんなにもお近くでお目に掛かれるようになるなんて……思わなかった。
「我がリーデン侯爵家は、神獣の血を引くと言われているのは知っているかな」
「はい……」
「そのため、我が血族の者は、守ると決めたものを手放せなくなるほど……愛してしまう、そう言われている」
ああ、優しく響く知的なお声がこんなにも心に気持ちいいなんて。
「私たちの結婚は政略結婚だ。そこで、白い結婚の期間を設けようと思う。お互いの心が決まるまでは、通常の婚姻のように愛することはない。その間、お飾りの妻のように、何もしなくても構わない」
「……」
ここにきて、旦那様の台詞が頭に入ってきて、私はパチパチと目を瞬かせる。
改めて彼をじっくりと見ても、宝石のように美しい男性がいるだけ。真面目な表情をしていたけれど、中々返事をしない私に困ったように少しだけ眉根を下げた。え、可愛い。
「一年、共に過ごしながら考えて欲しい」
旦那様は契約書を私に見せた。白い結婚を一年続けた後、今後の生活や生家への便宜を図ったうえで、希望によっては円満に離縁に応じるというもの。
「……」
じっくりと、三度ほど契約書を読む。けれど何度読んでも同じ内容。
「あの……旦那様?」
「なんだ。どんなことでも聞いてくれ」
「白い結婚期間を設けたくない場合はどうしたらいいんですの?」
「……え?」
「私は、今夜旦那様に抱かれる期待をしてここに来たのに……」
旦那様はご存じない。
初夜の花嫁がどれだけ体調を整えて、侍女たちに着飾られて、この場に現れているのか。ずっと焦がれていた殿方が私に触れるのだと……そんな様子を脳内で想定することうん十回。心はもう張り裂けそうなほどに早鐘を打っていたのに。
あまりに悲しくて、思わず契約書を手に取ると、ビリビリ……音を立てながら破っていく。旦那様が目を瞠る。無言で、ただただ私の所業を見守っている。
「大好きです。エイダン様。どうか私が嫌というのでなければ正式な妻にしてください」
「…………」
その時、身を乗り出した私に、旦那様は間違いなく後退りしていた――
私アミリアと、エイダン・リーデン様との出会いは、二年前にさかのぼる。
夜会に気軽に行って、一人でテラスに出てしまったのがいけなかったのだ。社交デビューしたばかりで交流関係も広くない、上級貴族でもない私は、たぶん酔った子息たちの、絶好のターゲットだった。
腕を引かれて、テラスから強引に引きずり出され、さらに暗がりに連れて行かれそうになった。恐ろしくて、泣きながらやめてくださいと繰り返していた。
「俺たちと少し楽しむだけだから」
「そう!楽しいこと」
「ぷ、ははは!」
耐えられず暴れると、指先が子息の顔にあたり、彼はカッとなったように私の髪を鷲掴んだ。
「そんなに可愛がられたいのかよ」
「いや!」
体当たりをして腕から逃げると、庭園を走って逃げた。追いかけてくる。どうしよう、恐怖で怯えながら走っても、足がもつれて転んでしまう。
笑いながら子息たちが追いかけてくる。悲鳴を、上げなくては。
――その時だった、黒い影のようなものが視界を横切る。
その影は子息たちに何度もぶつかり、二人は逃げていき、一人は気を失うように倒れてしまった。
私は何が起きたのかも分からなくて、ただじっと見つめていた。
黒い影は、獣だった。
長いたてがみを持った、犬を大きくしたような獣。月光を背にして黒く見えていただけで、よく見ると銀色に輝いているように見える。綺麗だと、一瞬思ってしまった。
その瞳もまた、私をじっと見つめている気がした。
「……助け、て?くれた……の?」
泣きじゃくりながらそう言うと、ピクリと耳を動かしてその獣は走り去ってしまった。
残された私は、震える足でなんとか会場まで戻ろうとしたところで、エイダン様に保護されたのだ。
「大丈夫ですか?」
騎士服を着た、美麗な男性に声を掛けられた。
エイダン様のお姿は遠めに見たことはあった。いつも男性にも女性にも囲まれている、羨望のような眼差しが向けられていた方。雲の上のようなその人。
「王宮の夜会です。何かあったなら警備の担当です。心配いりません、何があってもあなたには危害は及びません」
心弱くなっている私の代わりに、なにからなにまで手配してくれて、帰りも屋敷まで送ってくださった。男性と同じ馬車は怖いだろうと、わざわざ別の馬車で付き添ってくれたのだ。両親にも事情を話してくれて、なにかあったら連絡をくれるように言い残してくれていた。
その時私は16歳になったばかり。エイダン様は5つほど年上の、大人で頼れる、間違いなく素敵な人柄の人。
心が男性への恐怖で膨れあがっていたのに、それを上書きするほどの、誠意ある大人の男性の包容力を見せてくれた。何があっても守ってくださると、そう思えてしまうほど。
惚れる、でしょう。
憧れるでしょう。焦がれるでしょう。私は初めての恋に落ちた。
だけど、雲の上のお方。きっともうお話出来ることもない。だけどあの立派なエイダン様がそこまでしてくれたんだって。一生の思い出にしようって。宝物の記憶にしようって。この先どんなに辛い政略結婚が結ばれることになっても、心の中の一番綺麗な部分にこの初恋を大事に抱えながら、生きて行こうって。
……思ってたのに、その一年後、王家からの紹介で縁談が組まれたのだ。
王命ではなくて、あくまで紹介。でもよっぽど事情がないと断りにくい類の。貧乏伯爵家の唯一の資産である鉱山からの資源。それを加工して利用しようとしているリーデン家との結びつきを深めてはどうかと打診された。
我が家にとっては渡りに船だったし、私がエイダン様を拒絶することなどありえない。それで、縁組はとんとん拍子に進んで結婚式は無事に済んだ。エイダン様はどう思われているのだろうと、そんな不安を残しながら。
それでも、出来るなら、少しでも好きになってもらえないだろうか、円満な夫婦関係を結べないかと、期待に胸を膨らませてやってきたのだ。
なにもなかった初夜の翌日、朝食の席でエイダン様に話しかけた。
「あのエイダン様」
「なんだ?」
「あの話はどうなるのでしょう?」
破り捨てた契約書の話である。
「……あなたにとって、悪い話ではないと思うのだが」
朝の明るい日差しの中で、また困り顔をさせてしまった。けれどいつも穏やかな表情をされている方がこんな顔をするのは、私の胸がきゅん死にしてしまう事になるのだけれど。
「エイダン様にとってはどうなのでしょうか……?」
この方が立派な方なのを知っているから、私は余計に自分のことをわきまえてしまう。
縁談なんて引く手あまたの男性からしたら自分のような小娘など妻に望む存在ではないだろう。分かってる……それでも、それをはっきりと知りたいと、言って欲しいと、そんなことも思ってしまう。
だって、このまま一年も一緒にいたら、諦めることが出来なくなってしまいそうなんだもの。
「……また夜に話そう」
「はい」
その日私は、侍女長や、執事、自分付の侍女たちと挨拶や話し合いをし、慌ただしく過ごした。
その後夜になり、まだ帰宅しないエイダン様をお待ちしている間、流行りの恋愛小説を読んでいた。
有名な女流作家さんなのだけど、三年くらい前からはずっと、一つのテーマで書いていた。
『獣人族』だ。
あるファンタジー世界の、獣にも人にもなれる、魅力的なヒーローたちと恋愛をする物語。私はこのシリーズは本当に大好きで、だからかもしれないけど……夜会で見たこともない獣に助けられたときに、とっさに、物語の中のヒーローはこんな姿をしているのではないかと、思ってしまったのだ。
今でも、あの獣は私を助けてくれたんだと思っている。
それを両親に話しても、夢見がちな子供だと思われただけだったし、それに間違いなく実際に恋に焦がれる夢見る少女だった。
扉が叩かれ、エイダン様がやってきた。呼び出されると思っていたのに、私室まで来てくださったようだ。
「遅くなってすまない」
「いいえ、お越しいただいて光栄ですわ」
ソファに腰を下ろしてもらい、私もその隣に座る。エイダン様は一瞬ぎょっとするよう私を見た。向かいに座ると思ったんだろう。
「どうぞ、お気持ちをお聞かせくださいませ。エイダン様」
「あ、ああ。その……。突然の話で、詳しく話さなかったのが悪かったのだと反省した。すまなかった。疑問に思ったことも、何でも聞いて欲しい」
「はい」
「神獣の血を引いていると言われている……と話したが、それははっきりと系譜が残されているわけではなのだ。ただ、その……上手く言えないのだが……」
歯切れ悪く口ごもるエイダン様可愛い。
「危険、なんだ」
「危険でございますか」
エイダン様は突然物騒な言葉を選らんでくる。
「歴史の中で、幾たびとなく、今回のような政略的な婚姻が結ばれたことがあるのだが……そのたびに、不幸な歴史を繰り返してしまったと言われている」
「不幸ですか……」
「血筋の者は、まるで獣が番を求めるように、婚姻関係を結んだたった一人の相手に、尋常ではない執着を見せる傾向があるのだ。例えば我が国は離婚が許されているだろう?けれど家系のものはそれを許すことはできない……生涯出ていくことを認められない……」
だんだんとエイダン様のおっしゃりたいことが分かってくる。
「それゆえ、我が家系のものは、基本的には恋愛結婚を推奨している。身分は関係なく、愛し合う伴侶を見つけるのだと。俺には恋人も心に決めた人もいなかったから、今回は例外になったのだが」
「よく分かりましたわ」
つまり、結婚相手を案じてくれてるってことよね。
素直過ぎる返事だったのだろう、エイダン様は真意をはかるように見下ろしてくる。その誠意ある瞳が好きだな、と思う。
「……神獣のことをお聞きしても?」
「ああ」
「どんなお姿をされていらっしゃったのでしょう」
「狼に似ていると言われている」
「毛並みの色は?」
「……個体によっていろいろな色がいたようだが」
「一体ではないのですね」
「ああ」
考え込む私の顔を、エイダン様が覗き込んできた。青い海のような瞳を目の前にして胸が跳ねる。
「あなたを守るために、契約書が必要だと思うのだ。どうか受け入れてくれないだろうか」
真摯なその瞳の奥に海のように広大な優しさを感じてしまう。
「私を送り返したいわけではないのですよね……?」
「そんなわけがない……あなたは、とても素敵な女性なのだから」
「ほかに想う方がいらっしゃるとか」
「……いるわけがない。一番に親しくしたいと思うのはあなただけです」
……本当なのだろうか。
エイダン様はまっすぐに私を見つめている。私しか映さない瞳。
貴族ならば妾がいたり、他に想う人がいても本来おかしくはない。家の為に婚姻を結ぶことなどよくあること。けれどそんな家系の方ならば、きっと当たり前の貴族としての生活も難しいということなのだろう。もしかしたら、浮気すらできないのかもしれない。
だから、生涯の伴侶になるのなら、お互いが覚悟がいるのだろう。
お互いのことを何も知らない政略結婚なのに……こんな私に、エイダン様は一番に親しくしたいと思ってくださっている。
嬉しいかもしれない。
まだ正式な妻になれないと言われてしまっているのに、その気持ちだけでとても嬉しい。
ならば、と、私は思いきりの笑顔を浮かべて言った。
「大好きです。エイダン様。夜会で助けてくださったあの日から、ずっと好きでした。私の気持ちは決まっています。エイダン様のお気持ちが決まるまで、待ちますわ。けれど契約書は必要ありません。一年も待ちたくはないのです」
互いに浮気もしない、想いあい愛し合う伴侶になる……そんな理想的なことはないではないか。
身を乗り出して言う私に、エイダン様は息を呑んでから、また後ろに下がっていく。
「おはようございます。好きですエイダン様」
「おかえりなさいませ。好きですエイダン様」
「おやすみなさいませ。好きですエイダン様」
朝から晩まで挨拶に同文を載せた。最近はエイダン様は私の姿を見つけるだけで、タジタジと後ろに後退していく。私たちの関係は、一向に変わらない。契約書がないだけで、白い結婚を続けようとする強い意志を感じていた。
あまり押しても引かれていくのも感じているので、どうしたものかと思いながら、着々と執事長や侍女たちと交流を深めていく。
そんなある日のことだった。
「あらメイダ様の小説ですね」
侍女が私の部屋の恋愛小説を見て言った。メイダリアン・ジョーカー様の小説ではあるのだけど、ファンはみんなジョーカー小説と呼ぶ。愛称の呼び方は違和感がある。
「……メイダ様はリーデン家のゆかりの方でございますか?」
そんな気はしていたのだけど、つてもなく確認の仕様がないかと思ってた。
「ええ、旦那様の従姉の方でございます。昔はよく遊びにきていらっしゃいました」
心の中で(繋がったーーーーーっ)と大はしゃぎしつつも顔には出さず微笑んだ。
「まぁ、お会いしてみたいものだわ」
「定期的に遊びにいらっしゃるので、旦那様なら来訪予定もご存じかもしれませんよ」
そんなわけで、エイダン様に夜になり時間を取ってもらい、また私の私室に来てもらった。
ソファの隣に私が座り込んでもエイダン様も慣れたのか以前のように驚かなくなった。
「あの旦那様こちらなのですが」
さっと、膝の上にジョーカー小説を載せると、エイダン様はぼんやりとそれを見つめて、一度考えるように視線を外してからまた小説を見返した。二度見だ。
「作者様がリーデン家にゆかりの方だとお伺いしましたの。子供のころから大好きな作家様で、特にこの小説の大ファンなのです。お会いすることはできますか?」
『白銀の狼と贄の乙女』という恋愛小説だ。
「…………え?」
旦那様が長い沈黙の末に声を出した。
「これを君が好きだった?」
「はい。三年前に出版されてから何度読んだか分かりません。このような方が私の憧れだったのです。とはいえ、少女の憧れでございます。エイダン様とお逢いしてからは、エイダン様が一番大好きです」
最近は、大好きです、で締める会話の癖が出来ていた。
「…………近々結婚祝いに来るといっていたが、紹介しよう。こちらこそ親交してくれるならお願いしたい」
「ありがとうございます。エイダン様」
満面の笑みで答えると、最近は眩しいものを見るように見つめられる気がしていた。
「やぁやぁ、メイダリアン・ジョーカーだ。お会い出来て嬉しいよ!ご結婚おめでとう、アミリア嬢」
ジョーカー様は背が高く、赤毛を頭上で巻いている、男性風のいでたちをした個性的な女性だった。
「お会い出来て光栄でございます。ずっとファンです。大好きです!」
私の言葉にジョーカー様はにんまりと笑って、私たちはテラスで心行くまで小説の内容について語り合った。
「白銀の狼が乙女を怯えさせないように、身を引いていくところがとても切なくて。でも陰ながら見守り続けている……その痕跡を比喩で描いてるのが素敵で……」
「ん?なんか聞いたことあるな。もしかして、ファンレターをくれてたリアさんはキミ?」
「……!!そうです私です」
「わぁ、そっか、いや、嬉しいよ!毎回熱い思いを受け取っていたよ」
作者様にも私の想いが届いていたなんて。感激で泣いてしまいそう……!
「そっかぁ、それで、かぁ……」
「?」
ジョーカー様はなぜだかとても優しい眼差しを私に向けた。
「聞いて良い?」
「はい?」
「この小説読む前だったら、獣人って怖いって思った?」
「……どうでしょう」
「ちょっと考えてみて」
私は夜会で助けてくれたあの時の獣に想いを馳せる。守ってくれて、私を襲ってくる気配はなかった。
「それは実際に会ってみないと分かりませんわ。だって、人間だってそうですけど、いい人も悪い人もいます。怖い人も」
そうだあの瞬間、恐ろしいのは人の方だったのだ。
「危害を加えない、分かり合える、そう言ったものを感じられるなら、きっと怖くはありませんわ」
瞬間、ジョーカー様が私を両腕で抱きしめた。
「ふわっ!?」
「いっやー!いい嫁もらった!エイダンでかした!」
わっはっは、とジョーカー様が豪快に笑う。
ひとしきり笑ってから、紅茶を一口飲み、少し思案するようにしてから、彼女は言った。
「……白銀の狼の裏話なんだけどさ」
「はい」
「乙女から身を引こうとしたのは訳があって。心の傷を抱えているんだ。幼いころに仲良くしていた一家を助けようとして……獣化を見られて、バケモノ、そう呼ばれたんだよ」
「……」
「獣人の一族だと知っていて、自分に好意を向けていた女の子までいたのに、だ。実際に見たときに感じる恐怖は計り知れないものなんだろう」
ジョーカー様はにぃっと笑う。
「だが私は、それを踏まえても、このヘタレめ!と思う」
「ヘタレ」
「だってそうだろう。そりゃ獣人の一族は特別なものかもしれないけれど、怖くて言えない、そんなの誰にだってあることだろう。それでも伝えたいものがあるなら、自分で乗り越えないといけない」
私はそう思うんだよ、そうジョーカー様は楽しそうに言った。
そんなある日、エイダン様が怪我をされたと連絡が入った。
王都で暴徒を取り押さえたときに、民を庇い怪我を負ったのだと。傷が深いので、しばらく王宮の医師が治療を受け持つ、と。
「……そんな!看護に行きたいわ」
「それが面会謝絶だと、私も会わせてもらえないのです」
執事長が申し訳なさそうに言い、慌ててやってきたジョーカー様も同じことを言った。すでに王宮に行って来た後なのだという。
「なんで私まで面会謝絶にするんだよ!」
「ジョーカー様……」
「しょうがないから、もうしばらくしたら一緒に行こう。大丈夫だから」
「はい……」
それでもエイダン様の面会謝絶は一月解けなくて、その後、王宮からの使いの人がやってきた。
エイダン様にお会いできるのだという。
慌てて支度をし、使いの人とともに馬車で向かうと、出迎えてくれたのはなんと、この国の第一王子マシェル様だった。
「快方に向かっているから安心してほしい」
「あぁ……ありがとうございます!」
ポロポロ涙があふれてくる。
「申し訳ありません……」
「いや、いいんだ」
マシェル様は少しだけ言い淀んだ。
「実はね……エイダンが面会を拒んでるんだ。医師や僕らがそうしていたのではなくて」
「え……」
エイダン様がお会いしたくないと……?
真っ青になる私を見て慌てるように言った。
「誰にも会いたくない、そういうことを言ってるんだが……あまりに治りが遅い。生きる気力が削げている、そんな風に見える。もしかしたらまた断られるかもしれないけれど、声を掛けてみてくれないだろうか」
「えぇ、えぇ、そんなことでよろしければ。お近くに行かせてもらえるなら、ありがたいです」
「……良かった」
そうして王宮の一室、エイダン様の治療をしているという部屋の前に案内される。
コンコン、とノックをするけれど、返事はない。
「エイダン様、私、アミリアです」
すると、衣擦れするような音が聞こえた気がした。
「ずっと心配しておりました。どうか私をおそばに行かせてもらえませんか?お世話させていただけませんか?お怪我はいかがですか……?何か教えて頂けませんか……?」
けれど返事はなにもなく、少し離れたところに立っているマシェル様と顔を見合わせてしまう。
だけど、私はすでに、エイダン様にはどこまでもしつこく食い下がる女だと知られている。
なので、ぐいぐい押して行きたい。
「民を助けたとお聞きしました。とても立派でございます。あの日……私も助けて頂きました。助けていただけなかったら……きっと私は今頃、人間も世界もおそろしくなって、こうして屋敷の外を歩いたりすることは出来なくなっていたと思うのです。私を救ってくれたのは、二つの存在でした」
16歳のあの日の奇跡のような体験を私は忘れないだろう。
「あの日……二つの白銀色に私は心を奪われたのです。とても美しく気高いその行いに、私は深い感謝を捧げ、そうして憧れと恋心を頂きました。今も……毎日大好きが増えていきます。だって、あなたが私に向けてくださるのは、とても優しいものばかりなのですから。エイダン様がお会いしたくないのでしたら、きっと私を想ってのことに違いありません。大丈夫です。エイダン様。私は、あなたが思っているよりも、ずっとずっと、あの日の――二つの白銀色に心奪われているのです」
チリン、とベルの音が聞こえた。
マシェル様がにこりと笑って「入っていいって合図だよ」と言った。
部屋の中は薄暗くて、月明かりにぼんやり照らされていた。
ベッドの上に……私の想像通り、大きな獣の影が浮かび上がる。黒い影に見えたのに、窓からの月明かりには美しい毛並みが輝いている。神獣と呼ばれるにふさわしい風格。
そっと近づくと獣は少しだけ後ろに下がろうとしたから、私は少しだけ笑みが浮かびそうになる。
ベッドの端に腰を下ろし、間近に向かい合うと、確かにそこにあるのは海のように深い青い瞳だった。体にはたくさんの包帯が巻かれていて、その体には毛布が掛けられている。
「エイダン様。お辛くないですか……?」
深い傷だったのだと聞く。辛い中、一人耐えられていたんだろう。
「お怪我をされると、元に戻れなくなるのでしょうか……?」
そうではないと、面会を謝絶することにまではならないだろうから。
「触れてもいいですか?」
そう請うと、ゆっくりと獣は首をたれた。その頭にそっと触れると、驚くほど柔らかく、温かい。
「ふふ、いつものエイダン様の御髪よりも先に触ってしまいましたね」
あの美しい白銀色の髪もこんなに気持ちがよいものなのかしら。ああ。いつか触りたい。
「……きっとお話しできないんですよね。大丈夫です。ゆっくり、良くなりましょうね」
そういってからそろりとベッドの上にのぼり、獣の顔を抱きしめるようにして横になる。
「大好きですエイダン様。今こうして触れさせていただけて、もっともっと好きになりました」
以前より心を開いてもらえたみたいな気持ちになれて、とても嬉しいのだ。
「私は知っています。こんなに隠されているのに……あの日、獣化してでも、助けに駆け付けて下さったんですよね。そう思うだけで泣いてしまいそうになるほど、私は嬉しいのです。いつか、エイダン様にも少しでも好きになってもらえたら……いいのになって思います」
そんなことを言っていたら、温かさにウトウトとしてきてしまう。ずっと緊張しつづけていたからほっとしたのかもしれない。
獣のふさふさのしっぽが私の体を巻き込んでいた。柔らくて温かくて幸せで、私はそのまま眠りについてしまった。
目を醒ましたら目の前にエイダン様がいらっしゃった。
もう一度言うと、目の前にエイダン様がいらっしゃった。人間の。
体には毛布が掛けられていて、すやすやとお眠りになっている。私はと言うと同じ毛布の中だ。とても恥ずかしい状況なのだけど、身動きしては起こしてしまうと思い、仕方なく、折角の機会なのでご尊顔をじっくり見つめさせていただいた。
凛々しくも、美しい顔立ち。その額に垂れ落ちているのは、朝日を浴びた白銀色の艶やかな髪。
神獣の血を引いているとのことだけど……獣人のように、獣化が出来てしまうということなのかしら。
気配を感じたのか、ゆっくりと開かれていく瞳が私を捉えた。
「アミリア……」
「おはようございます、エイダン様」
思わずうっとりと挨拶をしてしまう。
言ってからハッとする。これは勝手に布団に入ってきてる痴女になっているのではないだろうか……?
「失礼いたしましたわ!」
もぞもぞと出て行こうとすると、後ろから力強い腕で抱きしめられてしまう。
え、待って、エイダン様、裸では……!?。
「行くな、アミリア」
「は……っ?」
そのまま、体の向きを変えられて、ものすごく美しいお顔を至近距離で見てしまう。悶え死ぬ。
「聞いてくれ」
「あ、あの」
この姿勢は恥ずかしすぎる。
「すまなかった……ずっと言えなかった」
まっすぐに私を見つめてエイダン様は言った。きっとご自分が裸のことなんて気が付いてもいなくて。私は頭が沸騰しそうなのだけど。
「隠し通したまま婚姻関係を続けるわけにはいかないと分かっていたが、それでもどうしても……すまなかった。俺が弱かったのだ」
「あ、あの……それはいいのです。当然です。簡単に話せるようなことではありません。分かっておりますから、あの……」
もう何も考えられなくて、ただ逃げたいと暴れる。目のやり場に困る。刺激が強すぎて死ぬ。
「愛してる、アミリア」
「……」
「ずっと好きだった。少女が怯えることなくまっすぐに俺を見据えた瞳が綺麗だった」
私は固まるように動きを止めて、エイダン様の瞳を見つめた。
それはきっと、あの日のこと。
「俺の弱さが、あんな条件で君を縛ろうとした。傷つけた。すまなかった……君はずっと、変わらぬまっすぐな好意をぶつけて来てくれていたのに」
どうか、とエイダン様は続ける。
「許してくれるというなら……いや、許されなくとも、これから先許されるよう償っていきたい。生涯の伴侶になって欲しいと、心から望んでいる」
その深い海色の瞳は、包み込むように私だけを映していて。
「どんなに俺に好意を向けてくれていたように見えた人でも……みな獣の姿を見ると恐れた。それだけならまだいいが……心に深い傷を負っていた。隣人のように思えていた人間が、本当は恐ろしい怪物だと知ってしまったのだ。長く悪夢に苦しまれ、越えられるかも分からぬ心の傷を負ったものもいた。俺は、もう誰かを傷付けることが怖い」
そして……と視線を落として、エイダン様は言う。
「俺自身も、傷付けることで傷付くことが恐ろしかった。人間ではないのだと、愛されることもない存在なのだと突きつけられることに……向かい合えなかった」
エイダン様は、私をまっすぐに見つめて言う。
「君があまりに眩しかった。何も答えぬ俺に、好きだと言い続ける強さに、泣きたくなるほど焦がれた。これほど好きなのに、何も言えぬ自分を恥じた。俺では相応しくないのだと。白い結婚を続けた先に手放した方がいいのではないかと思い悩んだ」
結局……とエイダン様は続ける。
「俺は情けない。君の気持ちに甘えるように、ひっそり正体を明かしただけだ……」
「それでも、エイダン様は逃げなかったではないですか」
「……」
「受け入れて下さったではないですか。私のことを。心を開いてくださいました。それも……きっと勇気です。私に向き合ってくださいました。私はそれがとても嬉しい」
満面の笑顔を浮かべる。
どうかどうか、私の想いがこの臆病な人に伝わりますように。
「エイダン様。最初に私の心を救ってくださったのはあなたです。今あなたにまっすぐに好きだと言えるのは、過去に助けられたおかげです。私はちっとも傷付いてはおりません。私をおそばにおいてくださるのですか?」
「……望んでくれるというのなら、生涯だ。離してやることも出来なくなるだろう」
「嬉しいですエイダン様。ずっと大好きです。おそばにおいてください」
そう答えると、エイダン様は感極まるように私を抱きしめた。
マシェル王子は、最初の出会いの時から私を気にしていたエイダン様の気持ちを聞いていたから、消極的なエイダン様に代わり、どうにかもう一度私と会う機会だけでも作れないかと、色々手回ししたのだと言った。生家にもアミリアの意向を聞き、エイダン様に想いがあることも把握していたという。
「上手くいったようで良かったよ」
そんな風に笑っていらした。
「彼の秘密は、王家と生家と、彼の伴侶だけに語られる。なのにあいつはいつまでも話さない。僕も手助けしていたから、責任を感じていた。今後もあなたに何かあれば、いつでも力になろう」
ジョーカー様は家に帰って来たエイダン様の頭をポカポカ殴っていた。
「心配かけるんじゃないよ!!!」
病人にも容赦ない。
そうして帰るときにこっそりと私にだけ言った。
「うちのヘタレのために、獣人布教しようと思って書いてたんだけどさ、君にはきっとあってもなくても関係なかったね」
療養中は屋敷に戻ってきたエイダン様と色々な話をした。
エイダン様は、私のどんな話も聞きたがった。そうして同じだけエイダン様のお話を聞いていて……今まで、お互いのことも良く分からず、私は好きだ好きだと追いかけていたんだなって……ここに来てやっと気が付いた。
今日どうやって過ごしていたのかとか、好きな食べ物とか、話すことが尽きなくて、何を話していてもとても楽しい。考えていることを教えてもらえるのはこんなにも嬉しいのかと知っていく日々。
そうすると、もっともっと好きになっていくのを感じる。好きに際限はないのかと不思議だった。
あの日、獣化したエイダン様に触れさせてもらえてもっと好きになったときのように。今度は心に触れさせてもらえているみたいで。深い部分で大好きだって感じていく。
例えば、ジョーカー小説の好きな場面とかも聞いてくれたのだけど、あのシーンのあの、とか詳しく話しても付いて来てくれていた。
「全部読まされたからな……お前のために書いたんだから、と」
「まぁ……」
ご本人様公認だったのかと驚いた。
「正直な話、目をそらしたくなる作品たちばかりだったのだが……アミリアが喜んでくれているなら、良かったんだな」
「エイダン様の方が大好きですよ」
「……知っている」
今はもう、気持ちは通じているみたい。
「俺の方が好きだと知っているか?」
そう言ってエイダン様は私を度々抱きしめてくる。
「……こうして閉じ込めてしまいたくなるのが、悪い所なんだよな。気持ちを確認しながら、少しずつ進めなくてはいけないのに。なんというか……両極端なことをしようとしていた気がする。本当にすまなかった」
「いいえ、それは私もです」
「アミリアの心の広さを好いている」
「!」
「強い心で人に向き合おうとするところを尊敬している」
「!!」
「誰に対しても感謝を忘れないところが愛おしい」
「!!!」
「表情がとてもかわいい」
「……!!」
最近エイダン様の方が押せ押せになっているような気がしないでもない。
そうして、エイダン様の怪我の治った頃。
私たちは初夜のやり直しをすることになったのである。
「我が血族の者は、守ると決めたものを手放せなくなるほど……愛してしまう、そう言われている」
「はい」
「だがもうとっくにアミリアを愛してるんだ」
「私もです。どうか手放さないでくださいませ」
この方は愛することも愛されることも迷い続けていたけれど。
私は望んで……エイダン様の腕の中に、押せ押せで入り込んだのだった。好き。