それが出来れば苦労しないんだよ。
『それが出来れば苦労しないんだよ。』
と、思っても、私はそれを決して口に出さない。
「――――」
私は画家を目指していた。
目指していた、と言う事から分かる通り。
私は画家を挫折した。
挫折した理由は並べるとキリがないけど。
才能がなかったが、一番簡単簡潔に説明できる七文字だと思う。
コンテストで上位を取った記憶もないし、先生からも褒められた覚えがない。
言ってしまえば成功経験がなかった事だと思う。
前述の通り褒められた経験もないし、私の周りに絵を評価してくれる人は居なかった。
看護師の母も私の絵を見て、何も言ってはくれなかった。
ただ一言「自立しなさい」と無情な顔で告げるだけ。
今の私でも、それは挫折する。
ただ、やっぱり、最後に辞めるのを決めたのは私だった。
ネガティブな物語だと思われたかもしれないが。
この物語は、私の人生にとって大事な物語だ。
――――。
「佐藤アサミは天才だ」
その言葉は、今の世の中で当たり前の様に使われている言葉だった。
佐藤アサミ。
彼女は私の後輩だった。
そして彼女は、絵の天才と言われていた。
筆を取れば皆の心を射抜き、惚れさせ、魅了させ。
私ですらその天性の才能は一眼見るだけで理解できた。
褒めるところは探すまでもなく沢山存在し、だから私は、彼女を認めていた。
認めているから、思う所がある。
言ってしまえば、私は嫉妬している。
嫉妬、までは行かないかもしれないけど。
彼女を見ているとずっと胸が苦しかった。
憂鬱感がずっと残っていた。
同じ学校だから私は彼女の噂を良く耳にした。
その噂を嫌でも聞く度に、私の心は濁っていく気がした。
でもそれはあくまで私の感情であり。
私の私怨だ。
それを口に出したり、誰かに愚痴をこぼす事が出来なかった。
何故なら理解されないからだ。
私のこの気持ち、感情は私しか分からない。
と言うか、普通に生きていて抱くことがない感情だからだ。
他人には理解されないし。
それは私の、悪その物の部分だったから。
それを友達に、赤裸々に語るのは勇気がいる事だった。
生憎。『私の心の内を嘘偽りなく相談できる友達』は、居なかった。
佐藤アサミは天才だった。
だから、アサミは言っていた。
「続けてれば誰でも出来ます。大事なのは、諦めない事です」
謙虚な態度だった。
テレビの取材でそう答えて、それは朝のニュースで放送された。
『それが出来れば苦労しないんだよ。』
と、思っても、私はそれを決して口に出さない。
「コツはですね。きちんとイメージして、構図を考えてですね」
『それが出来れば苦労しないんだよ。』
と、思っても、私はそれを決して口に出さない。
我慢は時に体に悪い。
その証拠に、朝のパンが不味い物になるのを心で感じた。
自然と食欲が引いていき、私は陰鬱な気持ちで胃袋がぐるぐる回る。
苦しい、気持ち悪い。
でも、自分でもその感情の答えが分からない。
わからないから困っている。
私個人の勝手な感情なのに、発散方法を私は知らなかった。
だってそれは、私の勝手な『私怨』なのだ。
私が醜いだけなのだ。
誰も悪くない。
誰も悪さをしていない。
ただただ、私がずっと醜いだけだ。
醜い憤りは、ずっと私の首を絞めていた。
私は私が嫌いになった。
自己嫌悪と言うのだろう。
でも、ずっと。自分の中で色々考えて答えを出してきた。
一時の薬には良かった。何かに熱中したり、寝て忘れたり。
でも、胸のモヤモヤは晴れなかった。
どうしてこんなに苦しいのか自分でもわからなかった。
ただ、どこまで行っても。
やっぱり、最後に夢を追うのを諦める事を決めたのは、
この私だった。
人間関係は脆い。
たった一言で壊す事が可能だから脆くない訳がない。
だからこそ、それを知っているからこそ、私は仮面をかぶる。
真面目な仮面をかぶって、猫をかぶって、今日も虚偽の笑みを浮かべる。
どうしてこんなに苦しいのか、ずっと、自分でもわからなかった。
――――。
でも、ある日の事だった。
それはびっくりするくらい大雨が降って。
凍えそうな寒さを感じた梅雨の日。
豪雨の影響で教室に取り残され、家に帰れなくなった時だった。
「教室閉めるから、残るなら移動できる?」
と、先生から言われた。
それは意地悪をしているのではなく。
ただ自分の実務をこなしているだけに過ぎない。
だから従うしかなかった。
「分かりました」
平坦な返事ではあったが、私は了承した。
私は先生に案内された、今も開いている教室へ向かった。
二階の渡り廊下から別棟へ進み、部室が並ぶその棟の四階の隅の部屋。
近づくだけで独特な匂いが鼻を刺激し、思わず体が拒絶反応をだすあの部室。
そこは懐かしの、最悪の『美術室』だった。
「――――」
どうしてこんな時間まで空いているのだろうか。
と言う疑問が最初に出てきたが。
すぐその疑問はどっか行った。
ドアを開くと、そこには見知った顔が、私でも実物を見るのが初めてなくらい大きな額縁を見つめていた。
それは紛れもない。
この世界でただ一人の天才の、後輩の。
「……はい? 何か用ですか、先生」
「すまんな佐藤。雨のせいで帰れないらしいんだ。少しここに置いてやってくれ」
先生の申し訳なさそうな申し出に、顔一つ変えないで佐藤は応対する。
訳でもなく、彼女は額縁を見つめたまま背中で語ってくる。
まるで目の前の巨大な絵画と会話していたかのように、彼女は私や先生に見抜きもせず言葉を紡いだ。
「あっ、そうゆう事なら全然いいですよ~」
先生はそれを聞き終えてから、教室を後にした。
額縁には花の絵が描かれていた。
なんの花だとか、それはまだ分からない段階、つまり作り途中だった。
彼女は新作を作るために切磋琢磨ここで時間を潰していたのだろう。
なんにせよ、私にしては地獄でしかなかった。
どうやら神は意地悪らしい。
こうも私をいじめる神様は、さぞ笑っているのだろう。
「先輩は部活何ですか?」
佐藤はそう背中越しに聞いてくる。
どこかおかしな感情をまた抱いていた私は、それをまた飲み込んで。
「三年生だから部活は引退したよ」
そう当たり障りのない言葉を告げる。
すると案外食い気味で、背中越しに。
「引退前は何を?」
「言う必要ある?」
「はい。気になるので」
どうやら佐藤は察しが悪いらしい。
こっちの人間の感情なんて、分からないのだろう。
しかし私は押しにめっぽう弱い。私がもっと頑固で強情な人間ならば、私はまだ絵を描いているはずだから。
でも、諦めている。だから私は結んだ口を解いた。
「……美術部」
「え? ……じゃあ本当に先輩なんですね」
……まあ、そういう事になるけども。
部活の先輩じゃなくとも、私は学年的に君の先輩だよ。
これでも一応、最後まで部活に居たんだけどな。
実のところ、部活動で一度佐藤とは会っている筈だけど、きっと忘れられてる。
私ほど印象がない人間はそうそういない。
「先輩の絵とか残ってないんですか?」
すると、矢継ぎ早に彼女は不躾な質問を投げかけてきた。
正直イラッと来てしまったが、私は臆さず言葉を吐き出す。
「残ってないわよ、もう捨てた」
「そりゃ、悲しいですね」
佐藤アサミは自分の絵を書きながら平然と、そして軽く言い放った。
また、胸が濁った気がした。
「どうしてやめたんですか?」
「……将来にいらないと思ったからよ」
うそだ。
「勿体ない事しますね」
私が冷たく答えると、佐藤はお返しに酷い言葉を浴びせて来た。
それはそうだ、酷い言葉だ。
何もわかってないくせに、どの口が言いやがるんだと。
流石に堪忍袋の尾が切れた私は、少し強い口調で唇に力を入れる。
「……何よ、どうしてつっかかってくるのよ」
「いやだって、まあ」
佐藤アサミは少し馬鹿にするような微笑をした。
私はそれを見て、完全に怒りのパラメータが限界値を突破した。
――握り拳を作りながら、私は椅子から立った。
「――――」
「……?」
でも何も言わなかった。
思っても、私はそれを決して口に出さない。
決して出さない。
言わない。
言いたくない。
言ったらもう戻れない気がする。
今の私に戻れない気がするのだ。
「怒らないでくださいよ。勿体ないって言ったのには理由があるんです」
佐藤は何でも知っている風にそう鼻を鳴らし。
ふっと、私の方に振り返った。
ずっとテレビ越しで見て来たから、どうしても、見知った顔だったんだけど。
どこかそれは。テレビで見たような顔じゃなかった気がする。
その態度が少しだけ気に障った。
「……なによ、それ」
「先輩は気づいてないんですか? あなた、ずっと私の事を凝視してる」
………。
そうなのだろうか。
いやだってそれは、会話のキャッチボールをする為に……。
……いや、思えば確かに、私が彼女を見てた。
何を見てたんだろ。
どうしてずっと、目が動かないんだろう。
なんでだろ。
「いや、違うか」
「………」
佐藤は違う事に気づいて、考えるような仕草をしながら。
パッと、テレビで見た事がないような人間らしい仕草をして。
「先輩は私が書く絵を凝視してる。それって、まだ描きたいんじゃないですか?」
「……」
「その目、私知ってます」
「………」
「その目は我慢してる目です。そして、やり返してやるって言う目です」
彼女は私の何を知っているのだろうか。
何も知らない癖に、何も見てきていないのに。
ずっと、喉元まで来ている禁忌の言葉がある。
ずっと痰の様に突っかかって取れない。最悪の言葉がある。
『それが出来れば苦労しないんだよ。』
その言葉を伝えるには相手が悪かった。
何故なら相手は、私の出来ないことが出来てしまう天才なのだ。
才能を持った選ばれた人間なのだ。
凡人の考えなど、気持ちなど理解できない。
どうせ言った所で『私には分からない』で終わらせられるんだ。
そして当たり前みたいな顔をして、勝手にアドバイスを始めてくる。
そういう奴が大っ嫌いだ。
どうせ言った所で何も変わらない。
いや、状況が悪化するだけ。
トラブルは何も良い事を生まない。
私は私を抑えるしかないのだ。
この世界では、それが正しい立ち回り。
――何も言わない。
何も感じない。
何も出さない。
それが私の処世術だ。
「………」
「……」
「私はもう辞めたの。もう、絵を描く気なんてない」
「そうですか。残念です」
もう絵を描く気なんてない。
将来性も無くって、才能も無くって、私には出来ない。
もう、いい………。
え?
「……残念?」
「ええ、残念です。私、一回だけ先輩の絵を見た事があるんですよね」
「え? どうゆう……」
「先輩。あいや、あなたの名前は――」
「――あなたの名前は、優田エリ先輩でしょ?」
その瞬間、私は驚いた。
久しぶりに人から言われた私の名前に、どこか、勝手に衝撃を受けてしまったのだ。
どうしてだろうと考えると。
しばらく名前で呼ばれていなかったが、一番簡単簡潔に説明できる十二文字だと思う。
私は名前で呼ばれていなかった。
ずっと、私は他人に名を呼ばれていなかった。
思えば。
『私の心の内を嘘偽りなく相談できる友達は、居なかった。』
とは、私に世間話をしてくれるだけの人を友達だと呼んでいて。
その子に遊びに誘われたり。
名前で呼ばれて特別扱いなんてされた事が無かった。
いいや、そんなことは今はどうでもいい。
どうして私の名前を知っているのだろうか。
コツン、と。私の横で筆洗の中にあった長い筆が揺れた。
「先輩の絵。私、美術部入る前に見た事があるんです」
「――――」
「全然見抜きもされなくって、全然綺麗じゃない絵」
「――――――」
「美術室の端っこの棚に押し込んであった。たった一枚の絵」
「――――」
「見たとき、『綺麗じゃないな』『構図が出来てない』とか。そんな感想しか出てこなかったけど」
佐藤は窓側へ移動した。
とことこと、喋りながら歩いて、そして。
次の瞬間、私は胸のモヤモヤが一瞬で消えるほどの。
全身に雷が落ちるような、
身の毛がよだつような、
表現するのが難しいその感覚が、迸った。
それは、もしかしたら外で雷が落ち、部室に轟音が響き渡ったからかもしれないし。
それは、もしかしたらアサミが今開けた窓から激しい雨音が耳に入ってきたからかもしれないし。
それは、もしかしたら開けた事で入ってきた冷気の肌寒さに思わず身を揺らしたからかもしれないし。
それはもしかしたら。
「複雑な感情をドストレートに描ける画家って、私、初めて見たんですよね」
天才のその言葉で、私は舞い上がり。
何かを感じたからかもしれない。
舞い上がり。は正しくないかもしれない。
でもその感情は『嬉しい』とも違う気がした。
私は私が分からない。
だけど。
「――……ありがとう」
自然にその言葉がそよ風の様に吹き抜けた。
――――。
『それが出来れば苦労しないんだよ。』は。
一躍有名となった絵画だ。
オークションで行きかった金額は『3億ドル』、それほどすごい絵画だった。
絵の内容は文では表せない物で、
ネットでは『とにかく一度見に行け!』と言う殴り文句で有名となった。
その絵は見るものの心を射抜き、惚れさせ、魅了させ。
絵から取れるメッセージ性は未来の教科書に載るレベルだった。
それは歴史とか、そういう絵じゃなかった。
それは人間の複雑な心理を表した傑作であり。
様々な人間に評価され、称えられ、評され。
瞬く間にその絵画は知名度を得た。
作者の名は佐藤アサミ。
日本で有名だった絵の天才児だ。
だが、その絵には彼女の今までの作品とは一線を画す出来の違いだった。
彼女の絵は『美しさ』と『視覚トリック』を使った絵が多かった。
だから、ここまで思考を凝らした物は初めてだったのだ。
それも有名になった要因かもしれない。
ああ、作者はもう一人いた。
今は普通に働き。
その名前すら公表していない人物が居た。
彼女の名前は世界に広がっていない。
彼女の才能をみんな知らない。
彼女の気持ちを誰も知らない。
だって彼女は、一度たりとも本心を語らないからだ。
それが彼女の生き方なのだろう。
だが、彼女は確かにある者になっていた。
それは。
佐藤アサミの師匠で、たった1人の親友だった。
『それが出来れば苦労しないんだよ。』
著者 へいたろう。