兵法とは
十兵衛の心中には様々な思いが渦を巻いた。頭の中は常に思惑が台風のごとく吹き荒れている。
江戸の平和、浪人の増加、おりんの事。
ーーん、待て。なぜ、おりんが。
十兵衛も気づかぬ内に、出会って間もないおりんは彼の心の内に住んでいるようだ。
十兵衛はおりんの顔を振り払い、目を閉じた。隻眼の奥に修行の日々が思い返されてくる。
兵法とは平和の法ーー
父の言葉がよみがえってくる。人殺しの技である兵法、それが平和の法とは、いかなる事か。
父の説く活人剣、そして無の境地。
沢庵禅師の説く剣禅一如。
師事した小野忠明の説いた夢想剣……
十兵衛に暇はない。それら兵法の理に答えを出す、いや己のものとして魂に宿さねばならぬ。
それもまた父や先師から受け継いだ男の使命だ。
「……若旦那」
「なんだ、今は忙しい」
「うどんがのびちまいますぜ」
「……あ、うむ」
十兵衛は我に返り、卓上のうどんをすすった。
そしてむせた。
「あ、熱いな」
「そりゃあ当然で。もう夏じゃありやせんので、冷やしうどんじゃなくて熱々のうどんを出してやす」
「ほ、ほう、いやあ実に美味いな」
十兵衛はやせ我慢しながら熱いうどんをすすっていく。どこか滑稽だが彼は必死だ。
この時も脳裏には兵法の事が思い浮かぶ。
父や先師から受け継いだ精神と技、男は命を守るものだ。
あ、と十兵衛は気づいた。おりんの事が気になるのは、彼女が武を体現したからに他ならぬ。
強いというわけではない。おりんは決して弱くはないだろうが、この江戸に腕の立つ名人達人など、星の数ほどいる。
おりんが顕したのは、武の精神であった。
戈を止め、刃を防ぎ、そして守るべきもののために身命を捧ぐ。それが武の精神だ。
おりんは、自身と茶屋の老婆、更には浪人達までも救った。浪人らは刀までは抜かなかった。おりんの一喝によって、自身の行いの浅ましさを知ったからであろう。
見事だと言うしかない。だから十兵衛はおりんが気になるのだ。彼女を意識すると動悸が速まり、十兵衛はまたしてもうどんにむせた。
「若旦那どうしやした」
「お、おかわりをくれ」
十兵衛は窮地に陥りながらも、うどんのおかわりを要求した。
自暴自棄になったわけではない。今、十兵衛の魂は過去に雄飛していた。
命懸けで事に臨む、その時に到ってこそ十兵衛の魂は燃え上がるのだ。隠密行の最中で死地に赴いた事、一度や二度ではない。
眼前の浪人が刀を打ちこんでくるのを、己が一刀で薙ぎ払い、勢いを保ったまま刃をひるがえして対手へ打ちこむ……
刺客が槍で突いてくるのへ、無手で十兵衛は飛びこみ、組みつき、足を払って地に倒す……
勝機は一瞬であり、ただ一手に全てを懸ける。
あの一瞬こそ、十兵衛の全てであるかのように思われた。
一瞬の充実は永遠の感動であり、それによって十兵衛は今、迷いを遠く離れて生きられる……
「へい、お待ち」
「う、うむ」
十兵衛は二杯目のうどんに立ち向かった。店主の源の好意で、刻みネギがたっぷりと乗せられていた。
「いただくぞ」
十兵衛は熱々うどんを豪快にすすり始めた。彼の魂はうどんと同じく熱い。江戸の明日を守るために。