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柳生の剣士  作者: MIROKU
無明を断つ
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江戸の明日


   **


 十兵衛は源の屋台へ足を運んでいた。すでに夕闇が降りていた。


「お待ち」


 源は新作の蕎麦切りを十兵衛と政の前に出した。これは蕎麦粉で練った生地を麺状に切ったものだ。

 後世のもりそばの原型だ。この時代の蕎麦というと、丸めたそばがきの事だ。


「お、いけるじゃねえか」


 政は蕎麦切りをすすった。


「うむ、これはいいな」


 十兵衛も一口すすって感心した。蕎麦には疲労回復の効果もあるという。源が出した蕎麦切りはまだ試作の段階だが、いずれは屋台自慢の一品になるかもしれない。


「そうですかい。あ、お代は要りやせん、まだ試作なんで」


 そう言って源は通りを見回した。屋台の左右に続く通りに、人影はなかった。


「また来ねえかなあ……」


 源は寂しげな顔をした。彼はいつか店を訪れた女の再来を待ち望んでいた。


「あの時の暗い女かよ、冗談じゃねえ。縁起が悪くていけねえよ」


「そんな事を言うんじゃねえよ政。俺にはわかるぜ、あの人はいい人だ」


「あー、そうですかよ。おい、蕎麦切りもう一杯くれよ」


「……そういえば見つからなかったな」


 十兵衛は卓に肘で杖つきながら、ぼんやりと考えた。

 大奥の井戸に身投げした女中の死体は忽然と消え失せた。源の屋台に女が訪れたのは、その日の夜ではなかったか。


 それから数日して、江戸には女首領の率いる義賊が現れた。女首領は魔性の者であった。

 その義賊も先日、全滅したーー


「お前に食わせる蕎麦切りはねえ!」


「なんだと、このやろう! 俺を何だと思っていやがんだ!」


 源と政が口論するのを十兵衛はぼんやりと眺めた。これも平和の象徴だ。





 明けて翌日。

 今日も江戸の空を日本晴れだ。

 青く澄んだ空と白い雲を眺めていると、十兵衛の心は安らぐ。


「いつもの」


 十兵衛は茶屋の店先の床几に腰かけ、おまつに声をかけた。


「はいよ」


 おまつが返事をした。団子と茶を運んできたのは、おりんであった。


「お待たせ」


「う、うむ」


「……この前はありがとね、楽しかったわあ」


 おりんの目は笑っていない。十兵衛はうつむいて言葉も出ない。彼とおりんは旅芸人一座の芸を観に行ったが、いつの間にか公演は終了しており、なぜかロウ人形の展示会になっていた。


「気持ち悪かったわあ、血河童豚ちかっぱぶた


 おりんの感情のこもらぬ視線が十兵衛に突き刺さる。当日おりんは簪で整えた髪をまとめ、おまつから借りた上等の着物で着飾っていた。


 十兵衛に対してツンツンした態度ばかりのおりんだが、一応は気にしていたというかーー


 その結果は血河童豚ちかっぱぶたという不気味な妖怪のロウ人形であった。


「あ、あれは……」


「ごめんねえ、あたしも知らなくてさあ」


 おまつは十兵衛を援護した。旅芸人一座は江戸で押しこみ強盗が増えたのを懸念し、予定より早く江戸を発っていたのだ。


 ロウ人形の展示会は、旅芸人一座の後に控えた催し物だったが、予定が早まったのだ。


 なお、家畜の血を吸う河童のような豚のような妖怪ということで、血河童豚ちかっぱぶたと呼ばれているらしい。


「ふん」


 そっぽを向いてしまったおりん。十兵衛はかける言葉もなかった。


「次はまともなのに誘ってよ」


 と、おりんは少し機嫌を直した様子だ。十兵衛はほっとして胸を撫で下ろした。おりんと接するのは、立ち合いにも似た緊張を感じてしまう。


「そうかい、それじゃ良さげなのを探しておくよ」


「うむ、頼むぞばあさん」


「おばあちゃん、こんな人を甘やかしちゃ駄目よ」


 茶屋の店先に明るい雰囲気が生まれた。その中に身を置く事が十兵衛にはこそばゆい。だが、それがいい。


「ーーむ?」


 十兵衛はその時、通りから視線を感じて振り返った。総髪の凛々しい男が、足を止め、十兵衛を見つめていた。


 微笑している男は従者らしき少年と共に、すぐに通りを進んでしまった。


(あれは誰だ)


 十兵衛の隻眼が細められた。記憶にはない男の顔だった。だが決して不快感はない。男には清々しい気配があった。名のある者に違いなかった。


「ああ、今のは張孔堂さんだよ」


 おまつは新しい客を出迎えながら、十兵衛に言った。おりんも十兵衛から離れ、客に茶を運んでいる。


「張孔堂……」


「たまに来てくれるのさ」


 おまつは何気なく言ったが、十兵衛の心には引っかかった。

 由井張孔堂正雪なる人物は、巷で名を挙げている。軍学の塾を開いているという事だが、その知性と人徳が人を引きつけるという。


 しかも知力のみの人ではない。正雪の右腕には、宝蔵院の槍の遣い手である丸橋忠也がついている。正雪もまた兵法に優れているとは、張孔堂に通う者達の言だ。幕閣内にも張孔堂をひいきする者は多い。


「なるほど納得だ」


 十兵衛は膝を叩いて青空を見上げた。由井張孔堂正雪、あのような人物が江戸に現れているとは。


 江戸の未来は、きっと明るいものと成るーー

 十兵衛は、そう確信した。


「ふっふっふ、俺も通ってみるか…… 生涯は学びの舎だ」


 十兵衛は口元に笑みを浮かべた。自分が命を懸けて守ってきたもの、それに報われた心地がする。


 江戸は平和なのだ。



   **



 夜の中に刃が閃いた。


 振るわれた刀を避け、黒装束の十兵衛は浪人の懐に飛び込んだ。

 十兵衛は左手で浪人の右袖をつかむや、素早く体を回転させた。


 浪人は十兵衛に投げられて、背中から大地に叩きつけられた。浪人はうめいて気を失った。

 十兵衛は後世の柔道における体落を、左手一本でしかけたのだ。


 夜の静寂の中に十兵衛は佇んだ。商家に忍びこもうとした浪人数名、全て十兵衛に制された。


 黒塗りの般若面の奥で、十兵衛の隻眼は倒すべき敵を探した。果たして敵はすぐに見つかった。


 商家の屋敷の屋根に佇む魔性ーー

 満月の下に浮かび上がる妖艶なる女の姿。それは一糸まとわぬ裸体を月光にさらし、背には蝶のような羽根を持つ魔性であった。


 魔性の深紅の瞳が十兵衛を見下ろした。


「ーーマカロシャダ」


 魔を降伏する不動明王の真言をつぶやき、十兵衛は腰の三池典太を抜き放った。後世では国宝に数えられる名刀三池典太の刃は、魔物をも断つと伝えられている。


 十兵衛は魔性から目を離さない。そして魔性も十兵衛から目を離さない。


 江戸の夜の闇で、人知れず死闘が始まろうとしていた。


〈了〉

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