江戸の明日
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十兵衛は源の屋台へ足を運んでいた。すでに夕闇が降りていた。
「お待ち」
源は新作の蕎麦切りを十兵衛と政の前に出した。これは蕎麦粉で練った生地を麺状に切ったものだ。
後世のもりそばの原型だ。この時代の蕎麦というと、丸めたそばがきの事だ。
「お、いけるじゃねえか」
政は蕎麦切りをすすった。
「うむ、これはいいな」
十兵衛も一口すすって感心した。蕎麦には疲労回復の効果もあるという。源が出した蕎麦切りはまだ試作の段階だが、いずれは屋台自慢の一品になるかもしれない。
「そうですかい。あ、お代は要りやせん、まだ試作なんで」
そう言って源は通りを見回した。屋台の左右に続く通りに、人影はなかった。
「また来ねえかなあ……」
源は寂しげな顔をした。彼はいつか店を訪れた女の再来を待ち望んでいた。
「あの時の暗い女かよ、冗談じゃねえ。縁起が悪くていけねえよ」
「そんな事を言うんじゃねえよ政。俺にはわかるぜ、あの人はいい人だ」
「あー、そうですかよ。おい、蕎麦切りもう一杯くれよ」
「……そういえば見つからなかったな」
十兵衛は卓に肘で杖つきながら、ぼんやりと考えた。
大奥の井戸に身投げした女中の死体は忽然と消え失せた。源の屋台に女が訪れたのは、その日の夜ではなかったか。
それから数日して、江戸には女首領の率いる義賊が現れた。女首領は魔性の者であった。
その義賊も先日、全滅したーー
「お前に食わせる蕎麦切りはねえ!」
「なんだと、このやろう! 俺を何だと思っていやがんだ!」
源と政が口論するのを十兵衛はぼんやりと眺めた。これも平和の象徴だ。
明けて翌日。
今日も江戸の空を日本晴れだ。
青く澄んだ空と白い雲を眺めていると、十兵衛の心は安らぐ。
「いつもの」
十兵衛は茶屋の店先の床几に腰かけ、おまつに声をかけた。
「はいよ」
おまつが返事をした。団子と茶を運んできたのは、おりんであった。
「お待たせ」
「う、うむ」
「……この前はありがとね、楽しかったわあ」
おりんの目は笑っていない。十兵衛はうつむいて言葉も出ない。彼とおりんは旅芸人一座の芸を観に行ったが、いつの間にか公演は終了しており、なぜかロウ人形の展示会になっていた。
「気持ち悪かったわあ、血河童豚」
おりんの感情のこもらぬ視線が十兵衛に突き刺さる。当日おりんは簪で整えた髪をまとめ、おまつから借りた上等の着物で着飾っていた。
十兵衛に対してツンツンした態度ばかりのおりんだが、一応は気にしていたというかーー
その結果は血河童豚という不気味な妖怪のロウ人形であった。
「あ、あれは……」
「ごめんねえ、あたしも知らなくてさあ」
おまつは十兵衛を援護した。旅芸人一座は江戸で押しこみ強盗が増えたのを懸念し、予定より早く江戸を発っていたのだ。
ロウ人形の展示会は、旅芸人一座の後に控えた催し物だったが、予定が早まったのだ。
なお、家畜の血を吸う河童のような豚のような妖怪ということで、血河童豚と呼ばれているらしい。
「ふん」
そっぽを向いてしまったおりん。十兵衛はかける言葉もなかった。
「次はまともなのに誘ってよ」
と、おりんは少し機嫌を直した様子だ。十兵衛はほっとして胸を撫で下ろした。おりんと接するのは、立ち合いにも似た緊張を感じてしまう。
「そうかい、それじゃ良さげなのを探しておくよ」
「うむ、頼むぞばあさん」
「おばあちゃん、こんな人を甘やかしちゃ駄目よ」
茶屋の店先に明るい雰囲気が生まれた。その中に身を置く事が十兵衛にはこそばゆい。だが、それがいい。
「ーーむ?」
十兵衛はその時、通りから視線を感じて振り返った。総髪の凛々しい男が、足を止め、十兵衛を見つめていた。
微笑している男は従者らしき少年と共に、すぐに通りを進んでしまった。
(あれは誰だ)
十兵衛の隻眼が細められた。記憶にはない男の顔だった。だが決して不快感はない。男には清々しい気配があった。名のある者に違いなかった。
「ああ、今のは張孔堂さんだよ」
おまつは新しい客を出迎えながら、十兵衛に言った。おりんも十兵衛から離れ、客に茶を運んでいる。
「張孔堂……」
「たまに来てくれるのさ」
おまつは何気なく言ったが、十兵衛の心には引っかかった。
由井張孔堂正雪なる人物は、巷で名を挙げている。軍学の塾を開いているという事だが、その知性と人徳が人を引きつけるという。
しかも知力のみの人ではない。正雪の右腕には、宝蔵院の槍の遣い手である丸橋忠也がついている。正雪もまた兵法に優れているとは、張孔堂に通う者達の言だ。幕閣内にも張孔堂をひいきする者は多い。
「なるほど納得だ」
十兵衛は膝を叩いて青空を見上げた。由井張孔堂正雪、あのような人物が江戸に現れているとは。
江戸の未来は、きっと明るいものと成るーー
十兵衛は、そう確信した。
「ふっふっふ、俺も通ってみるか…… 生涯は学びの舎だ」
十兵衛は口元に笑みを浮かべた。自分が命を懸けて守ってきたもの、それに報われた心地がする。
江戸は平和なのだ。
**
夜の中に刃が閃いた。
振るわれた刀を避け、黒装束の十兵衛は浪人の懐に飛び込んだ。
十兵衛は左手で浪人の右袖をつかむや、素早く体を回転させた。
浪人は十兵衛に投げられて、背中から大地に叩きつけられた。浪人はうめいて気を失った。
十兵衛は後世の柔道における体落を、左手一本でしかけたのだ。
夜の静寂の中に十兵衛は佇んだ。商家に忍びこもうとした浪人数名、全て十兵衛に制された。
黒塗りの般若面の奥で、十兵衛の隻眼は倒すべき敵を探した。果たして敵はすぐに見つかった。
商家の屋敷の屋根に佇む魔性ーー
満月の下に浮かび上がる妖艶なる女の姿。それは一糸まとわぬ裸体を月光にさらし、背には蝶のような羽根を持つ魔性であった。
魔性の深紅の瞳が十兵衛を見下ろした。
「ーーマカロシャダ」
魔を降伏する不動明王の真言をつぶやき、十兵衛は腰の三池典太を抜き放った。後世では国宝に数えられる名刀三池典太の刃は、魔物をも断つと伝えられている。
十兵衛は魔性から目を離さない。そして魔性も十兵衛から目を離さない。
江戸の夜の闇で、人知れず死闘が始まろうとしていた。
〈了〉




