無明の明日20 ~無明を断つ~
ーー俺と同じだな。
十兵衛は人狼へと一歩、また一歩と間合いを詰めていく。人狼の嗚咽の咆哮は、まだ続いていた。
十兵衛は幼き日に右目を失った。父宗矩との兵法修行の際に、木剣の突きによって潰されたのだ。
右目を失った十兵衛は深い絶望へ落ちた。左目まで失えば、一切の光なき世界へ落ちる。幼い十兵衛にはそれが恐ろしかった。
ーー同じだ……
十兵衛は人狼の悲しみを理解できる。失った喪失感は、体感しなければ余人にわかるまい。
人狼は近寄ってくる十兵衛にようやく気を向けた。その口が開いて鋭い犬歯がむき出しになった。
「相手してやる」
十兵衛は無手にて人狼の前に立った。距離は十尺ほど開いていた。
「来い」
十兵衛は僅かに身を沈ませた。右手は腰に差した小太刀の刀柄に伸びている。
般若面の奥で十兵衛は険しい表情を浮かべていた。それは魔を降伏する不動明王の如しだ。
商家の庭にいる者は全て息を呑んだ。十兵衛の全身から発される刺すような気迫に気圧されているのだ。
人狼とて例外ではない。義賊の女首領も多少は修羅場をくぐったかもしれぬが、十兵衛の気迫は次元が違う。
十兵衛は死を覚悟して、無の境地に到っていた。
「ーーふ」
声とも吐息ともつかぬ言葉を漏らし、十兵衛は踏みこんだ。
目にも留まらぬ踏みこみだ。十兵衛は一瞬で人狼の脇を駆け抜け、小太刀で抜き打ちに斬りつけていた。
十兵衛の一閃は人狼の首筋を切り裂いていた。あふれた鮮血が、噴水のように夜空に噴き上げる。
ーーオアアア!
人狼は最後の力を振り絞り、十兵衛につかみかかろうとした。
十兵衛は、その人狼の足元へ滑りこんだ。人狼が体勢を崩した僅かの一瞬に、十兵衛は人狼の右手首を左手で握っていた。
人狼の体が前方へ回転しながら地に倒れた。刹那の間に十兵衛がしかけたのは、後世の柔道における「球車」だ。
三船久蔵十段の編み出したこの技は、足元に何かが飛び出してくると咄嗟に避けようとする、人間の生理的反応を利用した技だ。
國松らには、人狼が自分から前方へ回転したように見受けられたろう。同時に神業であるとも。
立ち上がった十兵衛は右手に小太刀を提げたまま、人狼を見下ろした。その隻眼には慈悲の光も宿っていた。
人狼は立ち上がってきた。裂かれた首筋からのおびただしい出血ーー
同時に人狼の、いや彼女の心からは一切の無明は消えていた。
彼女は力尽き、商家の庭に前のめりに倒れた。その体は塵と化して消えていく。
ここに義賊は全滅した。




