無明の明日15 ~柔よく剛を制す~
端から見守る助九郎は、もはや言葉もない。
忠長の顔からは険が取れ、十兵衛は命懸けで勝負に臨んでいる。
命を懸けた戦いでありながら、二人は輝いてすらいた。
それに口を差し挟むなど、助九郎にはできなかった。
ーーだが、しかし。
助九郎の剣士としての魂は、両者の実力を推し量った。
忠長の兵法は助九郎仕込みだ。師たる助九郎をも翻弄する忠長を、十兵衛は無手にて制する事ができるのか。
十兵衛は宗矩から無刀取りの妙技を伝えられている。無刀取りとは先師の剣聖・上泉信綱から石舟斎宗厳へ伝えられた、組討術である。
俗に柔術と称される組討術は、幕末まで全国に諸流派二百を数えた。組討術自体は珍しいものではない、後世の柔道の型に組みこまれている。
ただの技ならば、いかに強くとも忠長を制する事はできぬ。忠長が心から心服せぬ限り、力尽きるまで両者の対決は続くだろう。
先ほどがそうであった。忠長は十兵衛の小外刈りによって倒されたが、それで心まで折れたわけではない。むしろ闘志をますます盛んにして、十兵衛に斬りこんだ。
忠長の心には満たされぬ思いが、暗黒の渦と化して蠢いているのだ。それを払わずして、十兵衛に真の勝利はない。
助九郎の思考も一瞬であった。急に道場内の空気が変わった。
「ーーむ?」
忠長は刀を手にして戸惑う。十兵衛の気配が変わった。
十兵衛は両手をだらりと力なく提げた。一見すれば無気力な姿勢だが、十兵衛の全身から発される気はどうだ。それは忠長と助九郎をまとめて押し潰そうとするようなーー
「これは……」
忠長は刀を構えたままつぶやく。戦国の魔王、信長に似た容貌に、明らかに動揺の色が見えた。
ーー姿は即ち是、空なり。
死を覚悟した十兵衛は、無の境地に入っていた。
その十兵衛を見つめ、忠長は刀を上段に構えた。忠長もまた十兵衛を前にして、全身全霊を振るわんとしていたのだ。
さほど広くない道場に、清廉にして鋭い気が満ちる。
燭台の淡い光が、十兵衛と忠長を照らし出している…………
「……かあっ!」
忠長は叫んで踏みこんだ。刀を振り下ろすより前に、十兵衛は忠長の懐へ踏みこんでいた。
素早く組みつき、忠長の右腕に抱きつく。次の瞬間には、十兵衛は体を回して忠長を背負っている。
「おお!」
助九郎が叫んだのと、忠長が道場の床に背から投げ落とされたのは同時であった。
「くはっ……」
仰向けに床に倒れた忠長がうめく。十兵衛の刹那のーー
後世の柔道における一本背負い投げによって忠長は敗れた。
柔よく剛を制す。
十兵衛が体現したのは、その境地だった。




