無明の明日12
「噂を聞いておるぞ。兄上を無刀取りで制したと」
忠長は愉しげに言うが、十兵衛の心胆は冷えるばかりだ。幕閣の秘事中の秘事を忠長が知っているとは。
「御存知でしたか」
「無論だ」
忠長の目が細められた。彼が十兵衛に一目置くのは、宗矩の嫡男だからではない。むしろ忠長は家柄にこだわる者を嫌悪する。
忠長が愛するのは戦国の勇士である。己を捨て、命を懸けて働く者には、敵であろうと、身分卑しかろうと、敬意を評する。
その気質は、太閤秀吉を愛した信長に通ずるものがある。血の繋がりは容姿よりも魂に現れるのかもしれない。
「刀を持った相手を無手で制する…… 故に無刀取りか」
「ーー御意」
十兵衛は忠長の目を見て応えた。
「見せるというのだな。だが余が認めなければ何とする」
忠長は酷薄そうな笑みを浮かべた。忠長は左手に刀を鞘ごと握っている。先の言葉通り、十兵衛に刀を持った相手を制してみよと忠長は言っているのだ。
それは即ち、忠長を制するという事だ。兵法に関しては指南役の木村助九郎すら翻弄する忠長を、十兵衛は無刀取りで制しなければならぬ。
「小生、命はありませぬ」
十兵衛は静かに言った。すでに死は覚悟している。
死中に活あり。
今、十兵衛の魂は無の境地に到っている。
「余に斬られても恨むな十兵衛。手厚く葬ってやる」
「ありがたき幸せに存じます」
「ふふっ、余は但馬とは反りが合わなかった。が、十兵衛とは反りが合いそうだな」
忠長は十兵衛に何度も仕官を奨めた。十兵衛の腕前や人柄を評してではない。彼は己に仕える士が欲しかったのだ。
忠長の心境を回顧するならばーー
彼に仕える者、全て江戸幕府の者であった。忠長に仕えているという気持ちはさらさらない。
忠長の家臣数千名の武士は、江戸旗本の次男三男ばかりで構成されていた。
大阪の役から十数年で世の中は変わり、武士の意識も変わった。剣術よりも算術がもてはやされ、戦から縁遠い旗本の二代三代が幕閣の中枢を占めてくる。
そうして天下泰平の気風の中で育った者達ばかりが、忠長の元につけられた。忠長としては血を吐くような無念の思いであった。
ーー余に仕える士はいないのか!
血のにじむような兵法練磨の果てにたどり着いたのは、天下を安らげる三代将軍の弟ではなく、お飾りもしくは厄介払いの駿河大納言であった。
ーー真のもののふが欲しい!
忠長はそれを所望した。己の元に仕えてくれる勇士達ーー
かつて御神君家康公は、最も信頼する旗本五百騎がいれば、天下に敵はないと太閤秀吉に告げた。それがゆえに太閤秀吉は家康公に一目も二目も置くようになったという。
常識的に考えれば、五百騎で天下を取れるわけがない。だが、家康は五百騎の旗本で、天下の全てを敵に回せる気概があった。
それほどに主君と臣下は強い絆で結ばれていたのだ。だが忠長にはそれがない。
忠長の精神を狂気へ導いたのは、耐え難き孤独のゆえだった。




