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柳生の剣士  作者: MIROKU
無明を断つ
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無明の明日6

 ーーなんという魔性……


 十兵衛の体が本能的に震える。だが心は静かだ。彼は月光蝶を前にして必殺の機を狙っていた。


 人間を人ならざる者に変えてしまう魔性を相手に勝機があるならば、それは一秒にも満たぬ刹那の間にしかないだろう。


“ふふふ……”


 月光蝶は微かに笑った。十兵衛の決死の覚悟を嘲笑っているようだった。

 次の瞬間、月光蝶の瞳が黄金の光を放ったようだった。


 十兵衛の意識が吹き飛びそうになる。閉じたまぶたの奥に、十兵衛は過去の光景を見た。


   **


 ーー七郎さん、ありがとう……


 十兵衛に看取られて女は息を引き取った。すでに山賊らに襲われて重傷を負っていた。


 女の手を握っていた十兵衛の顔には、何の感情も浮いていなかった。

 隠密行の最中に見知った女が死んだ、それだけの話なのだ。


 大納言忠長の治める駿河城下は魔都であった。人の命は塵芥ちりあくたのごとく失われていた。


 十兵衛も私事にこだわる必要はなかった。彼は城下にて七郎(十兵衛の幼名)という偽名を用いて活動し、遂に大納言忠長と接触している一団を突き止めた。


 十兵衛の隠密行も大詰めかもしれなかった。俗に裏柳生と呼ばれる同志らも駿河に集まってきている。

 女一人の死にかまうべきではない、と十兵衛の父たる宗矩ならば言うかもしれぬ。


 だが、十兵衛はそうは思わぬ。無感動な隻眼の面の奥には、激しい感情が渦を巻いていた。


「……わかった、やってみよう。できるかどうかは、わからんが」


 十兵衛は女の亡骸の額を撫でた。せめて安らいでくれるようにと。





 山賊らを襲ったのは、たった一人の黒装束の者だった。


 首尾よく農家から食物を奪い取った山賊は、上機嫌で森の隠れ家へと戻った。農民は何の抵抗もせずに食物を差し出したので、彼らも無駄に斬り捨てる事もなかった。


 だが、それは巧妙な罠であった。上機嫌で浮かれていた山賊らは、気が緩んでいた。

 そこに襲いかかってきたのは、短槍を手にした黒装束の者だった。


 木々の陰に隠れ、一団の背後から襲撃してきた黒装束の者は十兵衛だ。


“ば、化物!”


 叫んだ山賊の腹を槍で突き刺し、素早く引き抜いて次の者を突く。

 十兵衛の顔には黒塗りの般若面があった。それが月明かりの下では化物と錯覚させた。食物を手に入れて浮かれていたのも、山賊から猛々しさを奪っていた。


 十兵衛は応戦してきた山賊の槍を、己の短槍で横に打ち払った。そして、すかさず短槍を投げつける。短槍の穂先が山賊の腹に突き刺さった。


 無手になった十兵衛は腰の刀を抜いた。打ちこんだ三池典太の刃は、山賊の胴丸をも斬り裂いて絶命させた。


 夜空に山賊の悲鳴が響く。十兵衛は脇差しも抜いて斬りまくる。


 山賊が突いてきた槍の穂先を三池典太で打ち払い、脇差しを投げつけた。脇差しは山賊の首筋に突き刺さり、そこから鮮血が噴水のように吹き出した。


 さほど時間も経ずに、死傷者を含めた十数人の山賊が行動不能に陥っていた。場に満ちる血の匂い。残るは二人だ。


 長巻を手にして踏みこんできた山賊に、十兵衛は素早く間合いを詰めた。鋼の刃が打ち合い、轟音が虚空にこだまする。


 つばぜり合いに陥る前に十兵衛は間合いを離して、飛び退いた。


 左手側からもう一人の山賊が突っこんでくるのへ、十兵衛は三池典太を投げつける。鋭い切っ先は山賊の胸板を貫き、鍔本まで山賊の体に埋まった。


「な、何者だあ!」


 長巻を手にした山賊が叫んだ。薙刀に似てはいるが、長巻は刃が三尺、柄は四尺ほどある。


 その長巻を構えて山賊は十兵衛をにらんだ。山賊の長だろう、ためらいなく人を殺して強奪してきただけに、力も技も胆力もあった。


 その山賊の長を前にして、十兵衛は無手で立ち尽くしていた。闘志も覇気も殺気もない。


 月光に照らされた般若面が不気味だった。黒装束の十兵衛は、一個の魔物のようでもある。


 今の十兵衛には理性も感情もない。


 姿は即ちこれくうなり。


 十兵衛は無の境地に立っている。

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