魔性の誘い
しかも、ただの百合ではない。あり得ぬ速度で成長したそれは、瞬く間に子どもの背丈をも越え、人の形を為していくではないか。
人知を越えた現象であった。しかし宗矩は背後の異常に気づいていない。
「……むう」
宗矩が気配に気づいて振り返った時には、地中から生えた百合は人間のような姿へと変化していた。
「……魔性か」
宗矩は眉をしかめた。夜の闇に浮かび上がる、一糸まとわぬ女の姿。
白い髪に白い肌、瞳は深紅の光を放って輝いている。おぞましくも美しい魔性を前にして宗矩は振り返り、刀を右手に提げた。
新陰流の無形の位だ。
ーー何を悩む事がある。
女の魔性の声が、宗矩の心中へと響く。
ーー我らと結べば思いのまま。
女の魔性の言葉は、宗矩の心の底へと沈んでいく。
思いのままに生きる。
様々な制約に縛られた宗矩には、それこそが欲している生き方だ。
今や故郷の柳生の庄に帰る事もできぬ。父である石舟斎宗厳の高弟らは、幕府の重職に就いた宗矩を快く思っていない。
尾張の利厳は、石舟斎宗厳の長男の孫であり、柳生新陰流の正統でもある。
石舟斎の高弟も、尾張の柳生も、傍流の宗矩が柳生新陰流の正統を謳っているように思われて、それが不愉快なのだった。
「思いのままに、か」
宗矩の口元に苦い笑みが浮かぶ。それができれば、どれほど宗矩は満たされるだろうか。
そんな生き方をしているのは宗矩の嫡男、十兵衛三厳くらいではないだろうか。
十兵衛は幼い頃に兵法修行で右目を失い、深い悲しみの中で絶望したが、それゆえに、迷いを遠く離れて生きている。
ーーそうだ、我らと交わり魔界へと……
女の魔性は宗矩に歩み寄った。
それより僅かに早く、宗矩は踏みこんでいた。
閃いた銀光が闇夜を裂いた。
女の魔性は胴体を輪切りにされていた。
唖然とした表情で女は真っ二つになって地に倒れた。
「ほざけ魔性」
宗矩は忌々しげに、地に倒れた魔性の顔へ刀を突き立てた。