無明の明日5
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両親を失い、天涯孤独の身になった時、なつめは大奥へ上がった。
遠縁の者の配慮だったが、なつめは後に後悔した。大奥に満ちていたのは嫉妬を始めとした人間の悪意だったからだ。
嘘をつき、騙し、盗む。
他者を省みず、自分の欲望だけを追求する。
大奥の女たちの悪意に絶望したなつめは、やがて敷地内の井戸に身を投げた。
だが、今では人外の魔性へと転じて生き続けているーー
とある商家では夜半の警備を手薄にしていた。屋敷の周囲には見回りの者もいない。
これは江戸城御庭番の要請があったからだ。
城下を騒がす女盗賊とその一団、いずこに現れるかもわからぬ彼らを誘い出すため、この商家は協力した。幕閣と深い繋がりがあるのも、協力した理由の一つだろう。
御庭番の者を使って浪人らに噂を流す。あの商家は最近、主と用心棒らと折り合いが悪く、夜間の警備が手薄になっている……と。
浪人と接触する事を使命としている源と政だ。彼らが一人の浪人に話せば、その話は数十人、あるいは数百人に伝わっていく。
その中に女盗賊と縁ある者がいれば、必ずや噂を聞きつけ、馳せ参じる事だろう……と御庭番は淡い期待をしていた。
源と政は黒装束に身を包み、商家の庭の繁みに潜んでいた。
「おいおい、お前さん気が抜けてんじゃねえか」
政は小声で隣の源に囁いた。源と政は息を潜めて繁みに身を隠していた。
「そ、そんな事ねえよ」
源はそう言うが、心は半ばここにあらずといった様子だ。彼は数日前にうどん屋にやってきた儚げな女の事が忘れられずにいた。
「気ぃ抜くなよ、俺ら明日はないも同然だ」
「わかってる、わかってる」
源は言い返すのだが、その威勢もすぐに消えてしまう。恐怖や迷いよりも厄介な、恋煩いというものに源はかかっているようであった。
「ーーし、おい」
政は声を潜め、人差し指を口の前に立てた。源も黒覆面からのぞく目を細め、微かな物音のする方向を凝視した。
月明かり以外に光源もない商家の庭を覆う高い屏、その上に何者かが飛び乗った。音もなく飛び乗った身のこなしは忍びの者も顔負けだ。
「き、来た」
源も政も繁みの中で息を飲んだ。
江戸を騒がす女盗賊とその仲間が今、彼らの前に姿を現したのだ。
月下に佇む十兵衛は、両手に二刀を提げて呆然としていた。
彼を囲んでいた魔性の群れは、全て斬り捨てられて、今や塵と化している。
ーー俺は生きているのか……
十兵衛は視線を潜り抜け、大いに気力体力を消耗していた。生死を懸けた戦いの先に、十兵衛は幾度も同じような考えにとらわれた。
呆然と周囲を眺めれば、静寂が満ちていた。無数の家屋から人が飛び出してくる気配もない。月明かりに照らされた世界は、無人の異次元のように思われた。
ーー俺は正しかったのか……
十兵衛の思念がぐるぐると渦を巻く。彼は幕府隠密として命を懸けてきた。人を斬った事も一度や二度ではない。
大納言忠長の駿河、はるか彼方の薩摩、更に琉球へと十兵衛は死線を転々とした。
それでいて尚、彼が正気を保っている事を周囲は不審に感じていた。父の宗矩ですらが、十兵衛を得体の知れぬものであるかのように見ていた。
十兵衛が正気を保っていられたのは、幼い頃に右目を失った辛苦ゆえであった。それ以上の艱難辛苦は十兵衛にない。
残された左目も、長い間に少しずつ緩やかに視力を弱めてきている。いずれは見えなくなるかもしれない。その不安もまた、意外な事に十兵衛を救っていた。
最悪を以て、最高に到る。
十兵衛は心を捨てねば生きられないが、それゆえに天の加護を受けている……
「ーーむう」
十兵衛は般若面の奥で呻く。三池典太の刀柄を握る右手が、微かに震えている。
押さえようのない本能的な怯えは、何によってもたらされたか。
十兵衛は見た。月明かりの下に現れた異形の魔性を。
一糸まとわぬ裸身の背に、蝶に似た羽根を生やした人ならざる女を。
ーー月光蝶……
十兵衛はこの魔性を、そう呼んだ。




