無明の明日2 ~柳生の剣士~
妖花は十兵衛の見ている前で、徐々に人の形を為していく。人知を越えた奇怪な現象に、十兵衛はただ目を奪われた。
やがて妖花は女の姿へ変わった。それは一糸まとわぬ、人ならざる者であった。その妖花の声が、十兵衛の魂に響いた。
“お主なにゆえ己が心のままに生きぬか”
人の形をした妖花の妖艶な笑み。
この妖花は美しき女の姿で現れ、人を魔道に引きこむのだ。引きずりこまれれば、人ならざる魔性の道が待っている。
「己の心…………」
妖花の言葉が十兵衛の魂に揺さぶりをかけた。月光の下、黒装束を身につけた般若面の十兵衛は、己の心を見つめた。
彼にもまた欲はある。
食欲はもちろん、色欲もある。
己の利を第一に考える浅ましさ、他者をあざむく狡猾さ。
およそ人間の備える悪徳は、当たり前だが十兵衛も全て持っている。
ただの言葉であれば十兵衛も迷わず動じぬ。
だが妖花の言葉は魂に響く。それこそが魔性の持つ人知を越えた技なのだろう。
十兵衛はしばし呆然と突っ立っているように見えた。
月光に照らされた彼は置物であるかのように動かない。
人の形をなした妖花はゆっくりと十兵衛に歩み寄る。女の姿をした妖花は男と交わるか、もしくは人間の体内に魔性の種を埋めこみ、人ならざるものに変えてしまう。
ーー己の心など、すでに捨てた……
十兵衛は心中につぶやく。後世に伝わる十兵衛の言には「捨心」なる言葉がある。
ーー俺は……
十兵衛の心中には、走馬灯のように過去の出来事が思い返されていた。彼は今の窮地を切り抜ける一手を探っていた。
父の宗矩の兵法修行によって、十兵衛は右目を失った。
傷が癒えても心は癒えぬ十兵衛は、小野忠明から指導を受けた。真剣にて素振りを繰り返す、それだけだったが、
ーー隼が獲物を捕らえて即座に喰らうがごとし。
忠明はそう言った。十兵衛には、それで充分であった。気力を取り戻した十兵衛へ、宗矩は剣ではなく秘伝の無刀取りを伝授した。
ーー武の真髄は、一瞬で敵を倒す事にある……
宗矩の言葉もまた十兵衛の魂に刻まれた。
ーー必ずや、人のために役立ってみせまする、この命尽きるまで。
十兵衛は宗矩に言った、それが男の使命であると……
「ーー退け、魔性」
十兵衛の意識は虚無の中から蘇った。
眼前に迫っていた魔性へ、十兵衛は左手で小太刀を抜いて斬りつけた。
同時に右手も抜刀している。右手で打ちこんだ三池典太の刃は、魔性の額から腹部まで一直線に切り裂いていた。
艶かしい魔性の妖花は、首筋を横に斬り裂かれ、顔面も縦に割られていた。
奇しくも「十」の文字を刻まれた妖花は背後に倒れ、溶解していく。
「俺は柳生の剣士だ」
両手に二刀を提げ、十兵衛は溶け崩れた魔性を見下ろした。夜の中に別の気配も感じていた。
 




