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柳生の剣士  作者: MIROKU
無明を断つ
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無明の明日1



 江戸城を辞した十兵衛は、その足で馴染みの茶屋に向かった。道場の壁を壊した件は、弟の又十郎に言伝てを頼んだ。


 ーー頼んだぞ又十郎。


 十兵衛は渋い思いである。彼が苦手とする御庭番衆の女子らも、又十郎には少々甘いだろう。希望的観測だが甘いはずだ。


「あら、いらっしゃい」


 おりんのそっけない言葉にも十兵衛は慣れた。同時に心穏やかなる事を知った。

 この茶屋にいる限り、彼は幕府大目付の柳生但馬守宗矩の嫡男、十兵衛三厳ではない。


 ただの七郎だ。


「いつもの」


「はいはい」


 おりんはうなずき、他の客に茶を出し、そして店の奥へ戻っていく。

 長い後ろ髪を束ねて垂らしたおりん。地味な着物ながら、彼女の腰回りはよく動き、生命力と色気に満ちていた。


 十兵衛は雑念を払うため咳払いする。女が嫌いというわけではなく、女を知らぬわけでもないが、女は苦手なのだ。


 ーー色欲は断てぬ、遠ざけよ。


 そのように教えたのは宗矩だ。十兵衛の弟、左門友矩は異母弟だ。父の宗矩の言葉は、奇妙な説得力があった。


 ーー剣は毒、酒も毒、そして女も毒だ。


 師事した小野忠明はそう言った。同時に、毒だからこそ人を救う薬にも成りうる価値があるとも言った。今ならば十兵衛にもわかるような気がする。


「お待たせしたわ」


 十兵衛に茶と団子を運んできたのは、茶屋の店主のおまつだった。十兵衛は少しがっかりした。


「あんたねえ、逃げられてもいいのかい」


 おまつはため息をついた。


「何がだ、ばあさん」


「おりんが嫁に行っちまうよ」


「なんだと」


「あんな器量良しを誰が放っておくんだい」


「ま、まさか縁談がまとまったとでも……」


「はあ、男は気が小さいねえ。そんなわけがないじゃないか。見なよ」


 おまつに言われて十兵衛が狭い茶屋を見回せば、男の姿が目立つ。町民だろうが、彼らの視線はおりんの後ろ姿に向いていた。


「これはーー」


「下心丸出しの様子だよ。あんたも似たようなもんだけど」


「うぬぬぬ……」


「だからさあ、あんたもねえ」


 おまつは十兵衛の耳元に一言二言ささやき、席から離れた。十兵衛にとっておまつは、諸葛孔明にも匹敵する名軍師であった。


「すまん、もう一皿」


 十兵衛は店の奥から出てきたおりんに声をかけた。おりんは機嫌悪そうに十兵衛に近づいてきた。


「最初に二皿頼めばいいじゃん」


「いや、まあまあ」


「何がまあまあよ」


「実はだな、旅芸人一座の芝居があるとかで」


「ふうん」


「どうだろう、一緒に観に行かないか」


「い、いつよ」


 おりんは十兵衛から視線をそらして、毛先を指先でもてあそぶ。


「あ、明日の昼過ぎ」


「……考えとく」


 おりんはそう言って十兵衛の床几から離れた。彼女のつんとした態度は、十兵衛を客ではなく、一人の男として見ている証拠だ。


 ふう、と十兵衛は立ち合いにも似た緊張から一息ついた。ふと、周囲の男性客らが十兵衛を見つめている事に気づく。彼らの視線には悪意も混じっていた。


「で、では」


 十兵衛は床几に代金を置き、さりげない風を装いながら通りへ出た。


 ーー明日か。


 十兵衛はうつむき加減に歩く。

 幕府隠密と成ってから、彼は明日を望んで生きる事を止めていた。

 人生は今この一瞬だと思いを定め、己が全身全霊で対手に打ちこむ……


 十兵衛はそうして幾多の死線を乗り越えてきた。明日を捨てた気迫が十兵衛に常勝無敗を与えてきた。

 だが今、十兵衛は迷う。明日、おりんと共に旅芸人一座の芝居を観に行く。


 それは果たして叶うのか、今宵は市中見回りの任ではないか。


「無明……か」


 十兵衛は江戸の青空を見上げた。

 死を覚悟して生きてきて十数年、初めて心中に微かな迷いが生じた十兵衛だった。





 夜も更けた頃、十兵衛は柳生屋敷を出た。


 ーー命あらば、また会おう。


 黒装束に般若面の十兵衛は、心中に弟の又十郎に別れを告げた。

 又十郎は江戸城御庭番衆の女子に道場の壁に穴が空いた事を報告したところ、散々に言われたらしい。


 ーー今度、食事をおごる事になりましたよ……


 又十郎は十兵衛の前でひきつった笑みを浮かべていた。彼が将軍家光のみならず、父の宗矩に異母弟の左門、更には御庭番衆や風磨の者らとも交流があるのは、不思議な人徳をそなえているからかもしれない。


 ーー柳生の家は安泰かな。


 十兵衛は屋敷の裏口から外へ出た。

 満月輝く夜だ。淡い月光が十兵衛を照らし出す。黒装束の帯に大小の二刀を差し、黒塗りの般若面をかぶった十兵衛は、夜に蠢く魔性のようであった。


 背に負っていた三池典太は腰に差すようになった。先日の魔性との遭遇を経て、背に負うと咄嗟に抜刀できず、不利と悟ったからだ。


 腰に二刀を差す、それが武士である。

 そして剣士たる誇りでもある。

 この誇りに命を懸けてこそ、男なのだと十兵衛は思う。


 宗矩も十兵衛も、剣士たる誇りに命を懸けたからこそ死中に活を得てきたのだ……


「……むう」


 十兵衛は突然、身の冷える思いがした。

 夜風の冷たさだけではない。十兵衛が振り返った先では、静まった夜の路上に、一輪の妖花が咲いているではないか。

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