さすらいの旅路
**
十兵衛は寺の御堂にこもり、無心に不動明王真言を唱えていた。
理由の一つは己が斬った者達への供養、そしてもう一つは江戸に潜む魔物を降伏するために、不動明王の力を借りんとしているのである。
「ノウマクサンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ……」
十兵衛は不動明王像を前に、真言を唱え続ける。彼の脳裏には幾多の死闘が思い返された。
今となっては命のやり取りに及んだ者達ですらが懐かしく思われた。
ーーあの一瞬こそ俺の全てであるかもしれぬ。
刃を抜いた対手と向き合い、命を懸けた一手を放たんとする瞬間……
十兵衛には、その一瞬の充実が、己が人生の全てであるかのように思われた。
生き延びたのは運が良かったか、または対手が自分より劣っていたからか。
そのような考えは奇しくも宮本武蔵とよく似ている。偶然だが十兵衛と武蔵は同じ左利きだ。武蔵は後世に残した絵画の鑑定から左利きである事がわかっている。
「ーーウンタラタ、カンマン……」
十兵衛は真言を唱えるのを終えた。左の隻眼を開けば、不動尊の恐ろしげな顔が目に入る。
不動明王は大日如来と同じ存在であり、衆生を救うために敢えて憤怒の表情を浮かべているという。
今の十兵衛もまた厳かな顔つきであった。
彼は江戸を守る為に、人知れず夜の闇に身を投じている。
その戦いは何のためであるか、彼の贖罪に他ならぬ。
剣禅一如ーー
それが将軍家剣術指南役たる父宗矩の目指す境地だ。
だが十兵衛はそれを隠密行の最中に血で汚してしまった。
幕閣の者の陰湿な陰口、それが疎ましいというのもある。
ーー我、成ぜず。
隻眼を開いた十兵衛の顔に焦燥がこびりついている。
夜となった。
柳生家の屋敷の庭では、宗矩が真剣にて素振りを行っていた。
刃を横に薙ぎ、そして打ちこむ。
刹那の間に閃いた紫電が、夜の闇を裂くかのようだ。
宗矩は刀を正眼に構え、瞑想に入った。夜の静寂の中に宗矩は、自身の進む道を探らんとした。
それは息子である十兵衛が不動明王真言を唱える様によく似ていた。
やはり親子だ。先祖から血と共に精神性も受け継がれていた。
ーー哀れなり、又右衛門。
宗矩は自身へ語りかけた。目を閉じた奥に、故郷である奈良の柳生の庄が思い浮かんできた。
ーーもはや帰れぬ。この身にあるのは、さすらいの旅路だけ。
宗矩と尾張の利厳とは、八歳しか違わぬ叔父と甥の間柄だ。
かつては共に野畑を耕し、狩りをし、そして石舟斎や柳生の高弟より兵法の指導を受けた。
だが、今や江戸と尾張の仲は大変よろしくない。これは当人同士よりも門下生同士の争いであった。
将軍家剣術指南役。
幕府大目付。
その肩書きだけで天下の大名を震え上がらせる宗矩だが、心は晴れぬ事ばかりに満たされる。
ーー不甲斐なし……
宗矩は両目を開き、瞬時に踏みこんだ。
袈裟に斬りこんだ一刀が夜闇を裂く。
それは心の闇を斬り払う宗矩の剣であったが、
ーー成せぬ……
宗矩は眉をしかめる。己の心に巣くう闇は、澱のごとく底に沈みこんでいる。
宗矩の故郷である柳生の庄は、自然豊かな土地であった。太閤秀吉が取り上げんとしたほどに、神がかり的な聖地であるとも言える。
その柳生の庄にある一刀石が、宗矩の心に閃いた。真っ二つに割れた大岩は、宗矩の父である石舟斎宗厳が斬ったという。
それが真実か否か、そんな事はどうでもよい。宗矩には、一刀石は挑むべき父の象徴である。
あの大岩を割る神業、それを身につけんと修行に励み、野山を駆け、剣を振るい、組討の技を学んだ日々が宗矩には愛しい。
が、昔日は今となっては幻想にも等しきものだ。父、石舟斎宗厳はすでに亡くなっている。
その死の翌年に産まれた十兵衛(幼名は七郎)が、宗矩には父の生まれ変わりのように思われた。
だからこそ厳しい指導をした。あるいは求めていたのは宗矩だったかもしれない。そして十兵衛に右目を失わせた……
深い憂いと共に宗矩は再び目を閉じ、瞑想に入った。
そして彼の背後の地面が蠢き、何かがゆっくりと地中から姿を現す。
妖しく蠢くそれは、百合の花のようであった。