江戸の空
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十兵衛はまた馴染みの茶屋で団子を頬張っていた。
「相変わらず暇そうだねえ」
「暇ってわけでもないぞ、婆さん」
「はいはい、わかってますよ」
茶屋の主おまつは、上機嫌で茶を置いていった。十兵衛は熱い茶に息を吹きかけて冷まし、一口すすった。
「うまい…………」
感無量とは、この事かもしれぬ。
おまつの茶屋で団子を食べ、食後に一杯のお茶を飲む。
たったそれだけなのだが、十兵衛の心からは辛苦が消え、明日への活力が満ちていくのだ。
「さすが婆さんの茶屋は江戸一番だな」
「はいはい」
おまつは振り返らずに言った。照れ臭いのだろう。
「また来たの」
十兵衛に店員のおりんが声をかけてきた。彼女は少々、呆れ気味だ。おりんから見ると、十兵衛はおまつを口説いているように見受けられるという。
「は、いや。そんなつもりはないぞ」
「あー、そうですか」
おりんは機嫌悪そうな態度で、空いた皿と茶碗を片づける。
十兵衛は床几に代金を置いて立ち上がった。
「また来るぞ」
「ねえねえ、あんたさあ」
「ん、なんだ」
「……裃姿も似合ってたよ」
おりんはそう言って茶屋の奥に引っこんだ。
十兵衛は一瞬だけ、おりんの照れ臭そうな、そして晴々しい笑顔を見た。
これで死ねる、と十兵衛の心には訳のわからぬ思いが生じてくる。
それをもたらしたのは、おりんであったか、それとも十兵衛が成し遂げてきた戦いの充実であったか。
「我が生涯に一片の悔いなしーー」
十兵衛は青き空を見上げ、その天へと右拳を突き上げた。
今の十兵衛の心は、江戸の青い空と同じく、清々しいまでに澄んでいた。
修羅の闘争を経て至った境地は、十兵衛自らが説く捨心の境地であったろうか。
今この時ばかりは、十兵衛の脳裏からは大奥の女中が一人、行方知れずになった事など消えているーー
「はいはい、早く帰った帰った」
「ちょっと、そこにいたら他のお客さんの邪魔なんだけど」
おまつとおりんは、そんな十兵衛に呆れ返っているようだ。