竹の花
ーー美しい。
十兵衛の感じた第一印象とは、そのようなものだ。
だが、
ーーなんだ、これは……
同時に十兵衛は、刀柄を握る右手の震えに気づいた。それは彼の内なる恐れと迷いの現れだ。
魔性を前にして怯む心は、十兵衛にはない。己の全身全霊、最高の技で挑むのみ。
それが兵法者としての、男としての使命だ。
だが十兵衛の本能は怯えていた。
人知の及ばぬ超越の存在を前にし、十兵衛の剣魂は萎縮していたのだ。
彼にできるのは、般若の面(これは己の感情を消すために被ったのだ)の奥から、決して失わぬ勇気を秘めた瞳で魔性を見据える事をだけであった。
“ーーふふっ”
美しき魔性は微かに笑ったようであった。魔性の声は十兵衛の耳にではなく、魂に響いた。
“大いなる災禍の中心で、何ができるか見せてみよ”
魔性の姿は夜空から忽然と消え失せた。夜の中に再び静寂が満ちた。
十兵衛は片膝ついて乱れそうになる呼吸を整えた。黒装束の内では全身に汗をかいていた。
ーーあ、あれが俺の挑むものか……
十兵衛にはわからなくなった。自身の運命。魔性との遭遇、その意味。
夜の中に放って置かれた浪人二名の骸と、右腕を失い気絶した浪人の側で、十兵衛は自身が災禍の中心に立つ事を思い知らされた。
災禍とは江戸そのものに他ならぬ。
**
数日後、十兵衛は浪人と魔性の供養を終えた。
右腕を溶かされた浪人も死に、三名の遺体が十兵衛由縁の寺で無縁仏として葬られた。
「これを墓前に供えさせてくれ」
十兵衛は団子の皿を石仏の前に置いた。おまつとおりんの茶屋で買った団子だ。
ーーこんな事で満足するとは思わんがな。
十兵衛は石仏の前で手を合わせた。凶悪な浪人らも魔性に殺されたのは哀れだ。
また魔性に転じた伊三郎であるが、彼は茶屋に押し入ろうとした浪人らを襲っている。
悪神である修羅が、仏敵を降伏する仏法天道の守護者であるようにーー
伊三郎の行いは、ある意味で善行であった。
ーーもし生まれ変われるなら、もう少しマシに生まれてこい。男は命を守る壁になるのだ。
心中に己が信念をつぶやき、十兵衛は石仏に背を向けた。
寺の敷地内に植えられた竹林が風に揺れ、カサカサと心地好い音を立てる……
「……むう」
十兵衛は瞠目した。竹の枝に咲き乱れるのは、白い竹の花ではないか。
竹の花が咲くのは百年に一度とも、百五十年に一度とも言われている。
その竹の花が今、十兵衛の眼前で無数に咲き乱れている……
ーーいかなる凶兆か。
十兵衛の全身から力が抜けそうになる。竹の花が災いの象徴であるならば、十兵衛には思い当たる事がいくつもある。
終結した島原の乱はもとより、今この江戸に在る危機。
そして人外の魔性……
十兵衛は心身に喝を入れた。やるべき事は山ほどある事に気がついた。
「柳生の剣士、何するものぞ」
十兵衛は寺を辞した。
江戸城敷地内にある道場に、稽古袴の十兵衛の姿があった。
「手加減しませんぜ」
十兵衛の前には稽古袴姿の源がいた。大柄な源は、普段はうどんの屋台を引いているが、御庭番衆の中でも腕力を誇っていた。まともにぶつかれば、十兵衛でも危ういのだ。
「だからこそ、やるのだ。いくぞ」
十兵衛は源に向かって踏みこんだ。
脳裏からは、あの美しき魔性の姿がーー
超越の存在である月光蝶の姿が離れなかった。