昼と夜
「ま、まあ、家は弟に任せてある」
「あら、あんた嫡男かい」
「あ、そ、それは」
十兵衛は口を滑らせたと思った。この茶屋では、彼は七郎で良いのだ。
冷飯食いの江戸旗本の四男か五男ーー
そう思われる方が気楽だ。ここにいるのは将軍家剣術指南役の嫡男、柳生十兵衛三厳などでは、決してないのだ。
「違うと思うわ、おばあちゃん。この人は女遊びで散財して家から勘当されたのよ、きっと」
おりんの言葉に、十兵衛は飲んでいた茶を豪快に吹いた。
「そうかい、女に騙されそうな雰囲気だけどね」
「あ、そっちかもしれない。どっちにしても勘当されて、弟さんが跡取りなのよ」
「はあ、冷飯食いも大変だねえ」
おまつとおりんの会話を聞きながら、十兵衛は震える手で団子を食べ終えた。
「やれやれだ……」
そう言って十兵衛は床几に代金を置いて立ち去った。
「まいどー、またのお越しをー」
おりんの言葉に十兵衛は振り返らず、手を軽く挙げて応えた。
「あらら、いじめちゃったかねえ」
「いい薬になるわよ、きっと」
「おりんもねえ、それじゃ逃げられちゃうよ」
「うん、そうだね。やり過ぎちゃったね。もう来なくなっちゃうかなあ……」
「また来るよ、あの男は。いざとなったら風磨さんのところで聞いてみよう」
おまつもおりんも十兵衛を話題にしている時は、楽しげであった。
天下泰平の時代になりつつあっても、世には倦怠も漂っている。
だからこそか、十兵衛のような男が人の注目を浴びるのは。
十兵衛は刀一つで屍山血河へと身を投げて、生きて帰ってきた男だ。
そんな十兵衛がおまつもおりんも気になると見える。
再び夜となった。
夜の闇に満ちた静寂の中で、伊三郎は今夜も浪人を襲った。
ーーたやすい、なんという貧弱さだ。
伊三郎は素手で浪人を叩き伏せ、その腹を裂いて臓物を食らい始めた。
自分が人ならざる魔性に転じた事よりも、高い力を身につけた事による歓喜と興奮が、伊三郎から人間性を奪っていた。
伊三郎は湯気を立てる臓物を貪り心身の餓えを満たしていく。
そこで、ふと気づく。右手の甲の肌が荒れている。
ーーなんだ、これは……
左手でさすると、右手の甲の肌がボロボロとはがれた。
その下からは新たな肌がーー
人ならざるものの肌が現れているではないか。
ーーあ、あああ…………
伊三郎の興奮は冷めた。自分が人ならざるものに変化していく。
その事実に気づいた時、伊三郎の心は以前よりも深い暗黒に染まっていた。