未来への捨て石
「なんですと」
十兵衛は思わず面を上げた。宗矩の厳粛な眼光が、十兵衛の隻眼のみならず魂までも射抜いた。
「十兵衛、お前は何者だ」
再び発せられた宗矩の問い。そこで十兵衛は気づいた。己は何者であるか、何をすべきなのか。
「小生は兵法者」
十兵衛は身を起こし、宗矩に正座して相対した。
「未熟なれど兵法の道から離れんと日々精進しているつもりです」
「うむ」
宗矩の声が僅かに弾んでいる事に十兵衛は気づいたか否か。
「魔性が相手ならば…… それが人に害なす者であるならば、これを討ちまする」
十兵衛の答えに宗矩は満足したようであった。
「では行け十兵衛。わしは忙しい」
「父上、左門も又十郎も小生の自慢の弟…… 柳生家は安泰でありましょう」
「唐突に何の話だ」
「戦いで果てるなら本望、小生は祖父と先師の意を汲み、未来への捨て石となりましょう」
十兵衛に恐れも迷いもなかった。
魔性の伊三郎と遭遇した事で十兵衛の心は乱れていた。
が、宗矩の言によって十兵衛は自身の進む道を再認識した。
同時に祖父や先師への感謝が生じた。
兵法の道のみならず、人として、男として歩むべき道が見えたからである。
朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり。
孔子の言葉を十兵衛は自身の道に当てはめた。
魔性との戦いに身を投じて、力及ばず、負けて死すとも悔いはない。
「ーーふむ」
宗矩は口元に不敵な笑みを浮かべた。今の十兵衛は、無刀取りの技に勝る何かを身につけている。それが宗矩には尊く、誇らしかった。
「行ってこい」
宗矩は言った。十兵衛は一礼して部屋を出た。
筆を持ち机に向かう宗矩の顔は、どこか浮かれているようである。
十兵衛は江戸城から馴染みの茶屋へと足を運んだ。
彼の心からは迷いも消えていた。
十兵衛の死の覚悟は鈍っていた。それは再び研ぎ澄まされ、更なる道を切り開いた。
鮮やかに、軽やかに。
十兵衛の生命力は輝きを増している。
あとは未来への捨て石として、魔性との闘争に臨むのみだ。
「ーー婆さん、いつもの」
馴染みの茶屋を訪れて、十兵衛はいつものように床几に腰かけた。腰の愛刀、三池典太は鞘ごと脇に置いた。
「いらっしゃい……」
茶を運んできたおりんが目を丸くして十兵衛を見ていた。今日の十兵衛はいつもの着流しではなく、武士の正装である。
月代を剃ってはいないが、少なくとも町民風情には見えぬ。裃姿は着流しよりも似合っているかもしれない。
「あらあ、どうしたの」
店の奥から、茶屋の老婆おまつが団子を運んできたが、十兵衛の裃姿に驚いていた。
「いや、まあ」
十兵衛は言葉を濁した。この姿で茶屋に寄るべきではなかった。迂闊だったと十兵衛は内心、舌打ちした。
「馬子にも衣装っていうけれど…… あんたも冷飯食いだけど、やっぱり武士だねえ」
「は、ははは……」
十兵衛は苦笑した。おまつにとって十兵衛は、やはり旗本の四男五男の冷飯食いであるらしかった。
同時に少し安心した。この茶屋は、十兵衛にとって憩いの場である事に変わりはなかった。