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柳生の剣士  作者: MIROKU
江戸の守護者
12/47

何をする者ぞ

 伊三郎の眼前まで踏みこんだ十兵衛は、小太刀を横薙ぎに一閃させた。


 夜闇を斬り裂く必殺の刃は、虚しく空振りした。


「むう」


 十兵衛は思わずうなった。魔性と化していた伊三郎の体は、十兵衛の背丈よりも高く跳躍し、左右に並んだ武家屋敷の塀に飛び乗った。


 ーーふはははは……


 伊三郎は不気味な笑い声と共に、武家屋敷の屋根を伝って逃げ出した。

 更に奇なる事といえば、伊三郎の両目が深紅の光を発していた事だ。あの不気味な赤光こそ、人ならざる者の証明に思われた。


「なんだ、あれは……」


 十兵衛は伊三郎の逃げた方向へ目を向けたままだ。心臓が激しく高鳴り、全身に汗をびっしょりとかいていた。生死の境に踏みこんだ時は、いつもそうだ。


「地獄も満員かもしれませんなあ」


 政も顔を蒼白にしてつぶやいた。


「なんだと」


「地獄が満員で、入れなくなった奴らが地上にあふれてきた…… そんな気がしやした」


「むう…… そうかもしれんな」


 十兵衛は政の言葉にうなった。

 人食いの化物は地獄に入れず、地上に舞い戻ってきた人間の成れの果て。

 そう考えると、どこか辻褄があった。


「……こいつも経を聞かせて弔ってやらねばな。魔性に転じないように」


 十兵衛は浪人の骸を見下ろした。ガリガリに痩せこけた体、その腹部は引き裂かれて真っ赤に染まっていた。


 十兵衛は骸を運ぶための戸板を政に取りに行かせ、自身は一人、夜の闇の中に立ち尽くした。

 人知を越えた巨大な災禍に巻きこまれていく予感があった。





 翌日、十兵衛は屋敷で正装に整え、江戸城へ向かった。

 これは本来の務めを果たすためではなかった。


 月代も剃らぬ総髪の十兵衛は、江戸城の役職に就く者から見れば、相当に礼儀知らす、非常識であったろう。


 しかし彼は戸惑うことなく、左の隻眼に鋼の意思を秘めて、江戸城の裏口から中に入った。


「おや、柳生の若旦那。今日は兵法指南でもするんですかい」


 顔見知りの門番が十兵衛に声をかけてきた。十兵衛は宗矩の嫡男であり、将軍家光の兵法指南役としても見られていた。

 今日は十兵衛も腰に名刀、三池典太の鞘を帯に差している。将軍家光への兵法指南のために登城した、と思われても無理はない。


「いや、父に会いに来たのだ」


 十兵衛は江戸城の中へ入る。勝手知ったる江戸城の中を、十兵衛は父宗矩の執務室へ向かった。


「ーー十兵衛」


 宗矩は部屋を訪れた十兵衛を見つめ、眉を僅かにしかめた。


「何しに来た」


「父上に御指南頂きたく候」


 十兵衛は宗矩の前で平伏し、額を畳にこすりつけた。これは己を卑下しているのではなく、親子を越えた師弟の礼儀であった。


「父上は魔性を存じておりますか」


「ーーうむ」


 宗矩は短く答えた。実は江戸城では怪異というものがしばしば起きていた。

 また江戸城ではなく駿府では、御神君家康公の頃に、ぬっぺらほふなる妖怪じみたものが出現していた。


 この時代では、未だに人間と妖魔の世界が繋がっていたのだ。


「先日、現れた魔性はわしが斬り捨てた」


「お教えください、父上。魔性を前に、小生は何をすればよいのか」


 平伏したままの十兵衛は、昨夜の伊三郎を思い出した。夜の闇の中で両目を深紅に輝かせ、人を食らっていた化物。

 その化物を前に、十兵衛の不動の精神も揺らいでいた。


「ーー己は何をする者ぞ」


 宗矩は厳かに言った。

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