夜の中へ
十兵衛は父宗矩から様々な指導を受けた。
たとえば畳一枚の上で何回、前回り受け身が取れるか。
たとえば右腕を胴体に固定し、左腕一本で組討の稽古をする……
それらの修行も現在のため。戦うための力を養う修行だったのだ。
「ごちそうさん」
十兵衛は熱々うどんを二杯平らげ、少々苦しげに代金を卓に置いた。満腹を超過していた。
「へい、まいど」
源は愛想いい顔を見せる。彼もまた、ただの屋台のうどん屋ではない。本職は江戸城御庭番の一人であり、うどん屋を営みながら浪人の動向を探るのを任としていた。
江戸の夜は暗い。
光源は月明かりだけだ。夜の闇は深かった。
「何も、こんな暗い夜に見回りなんかしなくていいんじゃないですかね」
商人風の小男は、提灯を手にして先を行く十兵衛にぼやいた。
「いや暗いからこそだ」
十兵衛は夜の町を見回す。普段は見慣れた武家屋敷の並ぶ通りが、今では如何なる魔天の世界かと思われた。
それほどに夜は昼とは違う深く暗い世界であった。
だからこそ人は夜の中に刺激を求めるのかもしれない。夜の闇は恐ろしいが、昼ばかりの世界もつまらない。
「それにしても、何か出そうな夜ですなあ」
政は身を震わせた。商人風の小男だが、彼もまた江戸城御庭番の一人だ。小柄ゆえに身軽で素早く、手裏剣術に熟練している。
ーーカア、カア
夜闇に響くカラスの鳴き声を聞いて十兵衛と政は一瞬、動きを止めた。
「な、なんでえカラスか、驚かせやがって」
「落ち着け、苛立っても仕方あるまい」
「しかしねえ、あっしは眠いんですよ若旦那。眠くないんですかい」
「俺は夜回りに備えて、たっぷり昼寝をしておいた」
「かあー、これだよ、うちの若旦那は」
政のぼやきを十兵衛は苦笑しながら聞き流した。身分の違いを考えると政の発言はいささかどころか、だいぶ失礼なものだが、十兵衛はそれを気にした風でもない。
彼から見れば、うどん屋の源も、浪人に人足仕事等を斡旋する政も、共に江戸の治安を守る同志だ。
ーーぎゃああ……
その時、夜風に乗って叫び声のようなものが聞こえてきた。顔を見合わせた十兵衛と政は、互いにうなずいた。
「行くぞ」
十兵衛は駆け出した。小男の政は十兵衛に劣らぬ速さで駆け出した。
ーー俺はこの一瞬に生きているのか。
提灯を手にして駆け出した十兵衛は自問する。
彼にとっての人生とは何か。
父宗矩や、師事した小野忠明のような強大な存在に、全身全霊で挑む事こそ男の本懐だと十兵衛は信じている。




