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柳生の剣士  作者: MIROKU
江戸の守護者
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無の境地

 十兵衛が元服して間もなくの頃、城から屋敷への帰路に着いた時だ。


 大八車が通りを駆けてきた。江戸の町中では珍しい事ではない。だが車引きは勢い盛んだ。江戸時代には大八車にぶつかって亡くなった者もいる。


 あ、と十兵衛は気づいた。彼の隻眼は幼子が母親の手から離れて、道に飛び出してくるのが見えた。


 十兵衛は反射的に飛び出した。その後はよく憶えていないが、彼はいつの間にか幼子を抱き上げ、道の端に寄っていた。


 大八車が勢いよく走り去るのを見送り、十兵衛は幼子を降ろした。母親のみならず、周囲の人々が目を丸くして十兵衛を見つめていた。


 彼は一瞬にして三間ほどの距離を詰めて幼子を抱き上げ、道の端に寄ったという。端から見れば、疾風のごときであったらしい。


「無の境地、無拍子なり」


 父の宗矩は、十兵衛の話を聞いてそう言った。宗矩自身、覚えがある事だ。大阪の役の際、宗矩は秀忠の本陣にまで斬りこんできた鎧武者十数名を斬り捨てたが、本人もよく憶えていなかった。


「他者を守ろうという心に、天が力を貸してくれたのだ。武徳の祖神の導きに感謝せよ」


 宗矩は誇らしい顔をしていた。息子の十兵衛が自分と同じ境地に達した事に満足したようだ。





 十兵衛は二十歳になると隠密として全国を廻った。

 十二年後に江戸に戻り、将軍家光のお側つきの御書院番(いわゆる親衛隊)となった。

 だが真の務めは、ごく僅かな者しか知らなかった。





 月下に駆ける者がある。

 一人は、仲間とともに商家に押しこんだ浪人だ。

 一人は、仲間を率いて浪人らを蹴散らした黒装束の男だ。


「おのれえ」


 ついに観念したか、浪人は足を止めて振り返り、刀を抜いて八相に構えた。それを見て、追ってきた黒装束の男も足を止めた。


「お、お前に何がわかるのだ」


 浪人は月下に吠えた。その言葉の意味が、黒装束の男にはよくわかる。


 三代将軍家光によって、世には改易の嵐が吹き荒れた。家光の弟、大納言忠長ですらが改易され、切腹させられた。


 だからこそか、いかなる大名も改易の命に従った。結果、全国にあふれた浪人は十六万人ともいう。治安は悪く、夜間の外出を禁じる藩すらあった。


 天下太平と言われても、世は悪意と暴力に満ちていた。


「是非もなし」


 黒装束の男は腰に小太刀を差していたが、それを鞘ごと抜いて放り捨てた。

 そして覆面も取った。現れた隻眼の異相は、柳生十兵衛三厳である。


「お相手つかまつる」


 十兵衛の全身から鋭い気が放たれた。刀を握った浪人すら怯ませる、闘志とでも呼ぶべきものだ。

 十兵衛の隻眼は、刺すような強い光を発している。


「ぬう」


 浪人は踏みこんだ。それより僅かに早く十兵衛は踏みこんでいた。


 十兵衛は浪人の懐に踏みこみ、刀を握った両腕に抱きついた。

 瞬時に体を回して、十兵衛は浪人を月下に舞わせた。


 背中から大地に投げ落とされた浪人は、一声うめいて気絶した。


 十兵衛が用いたのは、宗矩より伝授された無刀取りの技の一つだ。技の型は、後世の柔道における一本背負投によく似ていた。


「かなりの腕だな」


 十兵衛は気絶した浪人を見下ろし、不敵な笑みを浮かべている。

 彼は江戸城御庭番の者達と協力し、江戸を守る為に明日を捨てていた。家督は二人の弟に任せるつもりであった。


 家光から嫌われている十兵衛と違い、左門と又十郎は信頼を得ている。柳生の家はまず安泰といったところだ。


「まだまだか」


 十兵衛は夜空の月を見上げて、つぶやいた。

 いつか垣間見た無の境地、武の深奥は果てしなく遠きに思われた。


 刹那の間に勝機をつかむ、それが十兵衛の目指す境地である。

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