呑み仲間
俺は昨日、彼女にフラれた。
どちらが悪かったのか、とか野暮な話をするつもりは毛頭ない。
ただ、人生には思いもよらぬ落とし穴があり、俺はそれにはまりこんだ。それだけだ。
ひしゃげて散乱した缶ビール。林立した酒瓶の隙間から、音楽が躍る。
朝から狂ったように鳴りつづけるスマホを、俺は無言で見つめていた。
俺の営業の成績は悪くなかった。
俺の名前である「高木光一」というプレートは、事務所に張り出してある成績表で、常にトップクラスの位置にあった。そんな俺が、いきなり無断欠勤をするとか、会社としても寝耳に水の出来事だったろう。
しかし、俺は出社するつもりも、電話に出て仮病を申し立てる気力もなかった。なんといえばいいか、とにかくどうでもよかった。
昨日は、久しぶりのデートの日だった。
仕事のストレスから開放され、恋人と過ごせる時間を、俺はずっと楽しみにしていた。しかしその日の昼過ぎ、スマホに「玲子」という彼女の名が表示されると、いやな予感がした。
もちろん仕事中だったが、大事な用件であるというふうを装い、俺か外で電話を受けた。
「もしもし、俺だけど」
「あ、光一……?」
なんとなく声がかすれている。
「ごめんなさい、風邪をひいて具合がわるいの。明日のデートは延期してくれない?」
スマホの画面の向こうで、彼女は言った。
またか。俺は内心、失望の吐息を漏らした。
前回のデートも急に彼女の都合がつかなくなり、流れてしまったのだ。
だが、彼女に不快な思いはさせたくない。俺はつとめて明るい調子で、
「そうか、残念だけど、病気じゃしょうがないな。それじゃ、しっかり休んで」
「うん。ごめんね、じゃ……」
電話を切ったとたん、ふうっと吐息がもれた。忙しい仕事の合間を縫って、やっとつくった時間だったのに……と考えたが、玲子を恨んでも仕方がない。
ここは彼氏として、玲子の体調をしっかりと考えてあげるべきだ。そう考え直し、見舞いに行くことにした。
俺はマメに手土産のフルーツと花束をもって、彼女のアパートを訪れた。
彼女の部屋は、三階建てマンションの310号室。
無用心にも、ドアには鍵がかかっていなかった。
突然入っておどろかせてやれと、俺の茶目っ気が頭をもたげた。
ドアノブに手をかけると、ぐいっと一気に開いた。
「ばあっ!! 俺だよ玲子、びっくりしたかい――」
たしかに、彼女はびっくりした。
俺もびっくりした。
そして、見知らぬもうひとりの男も。
それからどうしたのか。その瞬間、アタマが真っ白になったので、持っていた見舞いの品も、相手の男の様子も良く憶えていない。
ただ、酷く服装が乱れていたから、かなりの大立ち回りを演じたのだろう。
やりきれない気持ちを抱えたまま、見知らぬスナックで酒をあおった。殺伐とした雰囲気を察したのか、店では誰も、俺に声をかけてこようとはしなかった。
帰ってから、家でも呑んだ。
しかし、酒はまったく俺を酔わせてはくれなかった。
頭脳だけが壊れたレコードのように回転し、どうしてこんなことになってしまったんだろうと、同じことをくるくると繰り返し考えるだけだった。
俺の仕事が営業という、やたら多忙で、やたらストレスの溜まる仕事だったのも、彼女との間で軋轢を生んだ要因のひとつだったのかもしれない。
朝も早くから出社し、取引先のメール確認。アポイントメントの予定確認、打ち合わせ内容をあらかじめ想定しておき、お客様の元へと車を走らせる。無論、予定通りに事がすすんだためしはない。話が熱を帯びれば帯びるほど時間は長くなる。
脚を棒のようにして社内に戻っても、資料作成や情報を共有するためのミーティングが待っている。協力してくれる業者との打ち合わせも欠かせない。
業務時間が終っても、さあ仕事終了、とはならない。明日の仕事の書類を準備し、最大限に自社製品の良さをアピールするために、他社製品との差を比較しながら頭のなかでセールストークを組み立てる。
飯も自分で料理するほどの気力もないので、店屋物かコンビニ弁当をコーヒーで流しこむ。毎日こんなことのくりかえし。とにかくストレスの塊だ。
連絡のたびに仕事の愚痴をこぼす男など、彼女ならずともうんざりするだろう。
だけど、仕方ないじゃないか。
ひたすら仕事に打ち込んだのは、お金が増えて、ふたりが幸せになれると思っていたからこそだ。しかし、現実は違った。俺が仕事に熱心になればなるほど、ふたりの時間は減っていった。
「忙しいとは、心が亡くなること……か」
どこかで聞いたようなフレーズを、俺はひとりごちた。
俺が成績を上げればあげるほど、会社はよろこんだ。
俺がより高いものをプレゼントしたら、彼女もよろこんだ。
そう、俺はみんなをよろこばせたかっただけなのだ。なのに、最後に待っていたのは、手ひどい裏切りだった。
やるせない。どうしようもないほどの怒りが、むくむくと俺の心の裡に育ち、雨雲のように暗い陰を落としていた。
置時計はすでに、正午過ぎを指している。
俺はすっくと決意を持って立ち上がり、いまだに鳴りつづけている携帯を、水の張ったバスタブのなかに放りこんだ。
――これでいい。もうこれで。
車の鍵を乱暴にポケットにつっこんで部屋を後にする。
エレベーターを降り、地下の月極駐車場にうずくまっている、愛車フェアレディZにキーを刺しこむ。
エンジン音が耳に心地いい。はじめて乗ったときは、これを一般道で走らせていいのかという衝撃を感じたくらい、底知れぬポテンシャルを秘めている車だ。
ギアをつなぎ、車を地下から外へと開放する。
目的地はない。走るために走っている。
スピード違反でとっ捕まろうが、今日は限界まで走ってみたい気分だった。
2、
限界まで走りたいと思ったものの、なかなか高速に乗ることができない。
すでに朝のラッシュは去ったというのに、いまだに交通渋滞は続いている。おそらくどこかで事故でも起こっているのだろう。俺の苛立ちはますますつのるばかりだ。
「ああくそ、こんなときこそ一杯やれたら……」
誰かに思い切り、愚痴をこぼせたら。
しかし俺の友人に、そんな甲斐性を持った奴などいなかった。誰かに愚痴を聞いて欲しくて、俺は昨晩、友人や同僚に片っ端から電話をかけた。返事はいずれもつれないものだった。
「――まあ、そんなに気にするなよ、高木」
「――運が悪かったのさ、もっといいオンナを口説けよ」
なんて、月並みな言葉だけが携帯から漏れる。
こんな話、とっとと切り上げたいという雰囲気が伝わってきて、どうにもやりきれない。一応、酒でもつきあわないかと誘ってみたが、誰も彼も、用事があるからといって断ってきた。
わかっているさ。面倒くさいんだろう。
どうせみんなもカノジョの機嫌をとるのに忙しくて、俺のような惨めな敗残者につきあうゆとりなど、持ち合わせていないんだろう。女と別れた痛みというのは、結局のところ、女と別れた者にしか理解できないのだ。
俺は延々と続く渋滞にうんざりし、知る人ぞ知る近道を通ることにした。まず、ハンドルを切って左折する。車は見通しの悪い、裏通りのせまい道路に入った。
「おっと!」
俺はあわててブレーキを踏んだ。
すこしぼんやりとしていたせいで、あやうくちっぽけな信号を見落とすところだった。この通りは狭いのだが、一応信号機が設置されている。しかも赤だ。
車は悲鳴にも似たブレーキ音をあげて急停止する。
この細い道はT字路になっていて、しばらく直線がつづき、大きな通りにぶつかっている。そこからのルートの方が、すこしだけ渋滞が緩和されているはずだった。狭い道幅のほんのわずかに広がった区域には、暇をもてあましたタクシードライバーが、朝も早くからタバコをふかしている。あれをみたら乗客は誰も乗ってこないだろう。
俺の車の灰皿は、すでにハイライトの吸殻で満杯だ。
ポケットを探るが、すでに手持ちの弾丸は尽きてしまっていた。俺はからっぽになったタバコの空き箱を握りつぶし、無造作に後方へと投げ捨てる。
手持ち無沙汰で、ますます苛立ちがつのってくる。
なんとか無聊を慰めようと、俺はカーラジオのボリュームをひねった。たちまち車内に、愛だのラブだの、うさんくさい呪文のような歌声があふれかえる。
「こいつら、本当に愛とか恋とかの意味を理解しているのかよ」
いらいらして、つい声に出してしまう。無論、わかっているはずもない。
歌謡曲の歌詞なんてものは、デモテープのテンポに合わせて生み出された、単なるワードの積み重ねにすぎない。売るための手段でしかないのだ。
苛立ちまかせに、荒々しくスイッチを切る。
くそっ。こんなときこそ一杯やれたら。
失恋の苦しみや、悲しみを理解できるような奴と、心置きなく語りあえたら。
――そのときだった。
がくんっ! と、全身に衝撃が走った。
3、
車が振動し、身体が前後に揺さぶられる。
「なっ、なんだ!?」
地震でも起こったかと錯覚を起こしたが、そうではない。どうやら後ろからぶつけられたようだ。あやうくムチウチになりかけるところだった。
あまりの事態に、ちょっと呆然としてしまった俺だが、状況を把握していくにつれ、急速に怒りが高まってきた。
二年もつきあってきた彼女に裏切られた挙句、こんな事故に巻き込まれたのだ。いまの衝撃からいって、愛車フェアレディZの後ろはさぞ無残なことになっていることだろう。
ここでついに、俺の忍耐力は底を尽いた。
俺は車の窓から手だけを出して、ぶつけた車に「ついてこい」と合図する。そのまま車を歩道脇に停車させると、相手の車もおとなしく背後に停車してきた。
「おい、どういうつもりなんだ、出てこいよ」
すかさず車から降りた俺は、ぶつけてきた車のほうへ呼びかけた。
すると、すぐにその車――黒いスカイラインだった――から、ひとりの男が姿をあらわした。年のころは、俺と同じくらいだろうか。身長もそんなに差はないようだ。黒のジーンズに黒のTシャツという、全身黒ずくめの格好をしている。その黒いtシャツに、WWEの白い文字が胸元で躍っているのをみて、俺は思わず苦笑していた。
そのダサい黒ずくめの男は、俺をはったと睨みつけるや、こともあろうにこう言い放った。
「うるせえな、おまえがサッサと発車しなかったから悪いんだろうが」
完全な逆切れだった。
彼の言い分では、信号が青になっていたにも関わらず、俺がすぐにアクセルを踏まなかったのが悪いということらしい。
「馬鹿をいえ。それは理由にならんだろう。クラクションを鳴らせばいいだけの話じゃないか」
「なんだあ、お前、やろうってのか?」
男はやけに好戦的だった。はっきりいって法律的には俺の言い分が正しいし、ここで暴力をふるおうものなら、この男の立場はさらに悪くなる。いったいなぜ、ここまで強気でいられるのか。
すぐに、その理由が明白になった。
「ねえ、なに興奮してるのよ」
助手席のドアが開き、ひとりの女性が地に降り立った。
腹の立つことに、その女性はかなりの美貌の持ち主だった。
漆黒の滝のような長い髪と、印象的な大きい瞳。あたかもハーフのようにメリハリのある目鼻立ちをしている。爽やかな淡いベージュのジャケットとバミューダパンツで統一し、ブラウンのインナーをアクセントにして、全体を引き締めている。控えめな化粧が、より彼女の清楚さを引き出しているようであった。
どう考えても、このダサい男にはふさわしくない。いい女である。
世の中はつくづく理不尽だ。俺は彼女のためを想い、精一杯がんばった挙句、手ひどい裏切りに遭ったというのに。世界の一方では、こんな喧嘩っぱやいダサ男が、びっくりするほどの美女を連れて、青春を謳歌していようとは。
俺のなかで、めらめらと暗い炎が燃えあがった。
この男だけは、生かしておけない。
「なんだてめえ、やろうってんだな!」
心は鏡みたいなものだ。
俺の怒りにすぐさま感応して、男はこちらの胸倉を掴んできた。
こちらも臆してなるかと、相手の胸倉を掴みかえす。ぐいぐいと、たちまち掴み相撲に発展した俺達のいさかいに、美女の声が割って入った。
「ちょっと、やめなさいよ、こんな人通りの多いところで」
「引っこんでろ、男の喧嘩を止めるな!」
「格好つけやがって。お前みたいなダサ男には絶対に負けん!」
「誰がダサ男だ、この野郎!」
「お前以外に誰がいるか、この野郎!」
俺たちは互いに怒鳴りあった。喧嘩は気迫がすべてだ。先に心が折れたほうが負けなのだ。ふたりの掴みあいが、いよいよ殴り合いに発展しようかとした矢先――
「もういいわ、勝手にして!!」
まったく不意に、彼女が癇癪を起こした。
これには俺も男も、一瞬呆然とした。が、すぐにただごとでないと察した男が、たちまち掴みあいを放棄し、あわてふためいて彼女の元に駆けていった。
「まあ、落ち着いてくれよ。もうちょっとでケリがつくからさ、な?」
「もういいわよ、喧嘩したいなら勝手にしたら? 野蛮な人って大嫌い」
「まま、待ってくれよ、ごめん洋子、俺が悪かったからさ」
男の狼狽ぶりは半端ではない。あたりまえだ。彼女の前でいい格好をしようとして、逆に愛想を尽かされたのでは、本末転倒もいいところだ。
だが、両肩に置かれた手を、美女は強引にふりはらった。
「バイバイ、もう二度と誘わないでね!」
彼女は振り向きもせず、まっすぐに道路を駆けていった。
先程のタクシーの運転手は、対岸の火事とばかり、にやにやと俺たちの諍いを眺めていたが、騒動の一因である彼女が突然目の前に出現したので、さすがに焦ったようだ。
「な、なにか御用でしょうか?」
「タクシーに乗るに決まってるじゃない!」
にべもなく言い放ち、後部座席に腰をおろす様子が見て取れた。
一瞬、アクセルを踏もうとしたタクシーの運ちゃんと眼が合った。
彼は背後の彼女に気取られぬよう、軽く両肩をすくめて、タクシーを発車させた。
「洋子――っ!!」
男はタクシーに向かって叫んだ。
しかし彼女の後姿は、微動だにしなかった。
小さくなっていくタクシーを、男はずっと見つめていた。
4、
そのまましばらく立ち尽くしていた彼だったが、やがて、がっくりと膝を折ると、場所もかまわず、おいおいと大声で泣きはじめた。
「……なあ、あんた、大丈夫かい?」
俺は思わず、男に声をかけた。
何となく、この愁嘆場の原因は俺にもあるような、奇妙な罪悪感にとらわれたのだ。
男は返事をすることなく、しばらく泣きつづけていた。
俺は無言で、後部座席がべっこりへこんだフェアレディZに戻った。
ごそごそと、フロントのグローブボックスを探り、フェイスタオルを見つけると、駆けもどってそれを男へ差し出した。
男は、それが合図だったかのように泣き止むと、紅い目で俺を見上げた。
俺は無言で、その瞳を見返した。
彼はタオルを受け取ると、涙でぐしゃぐしゃになった顔をぬぐうと、
「……あんた、いい奴だな。すまなかったな。喧嘩なんてふっかけて」
「いいさ、気にしてないし」
「俺はさ、彼女の前で、いい格好をしたくてさ……。やっとデートにこぎつけたのにな……くそっ、洋子……」
男はすっかりと打ちのめされた様子だった。無理もない。
俺は昨日だったが、この男はたった今、手ひどく振られたばかりなのだ。
俺にはその気持ちが、痛いほどよくわかった。
そう、他の誰よりも。
「実はさ、俺も昨日、彼女にふられたばかりなんだ」
勢いあまって、俺は男にうちあけた。彼は驚いた表情で俺を見た。
俺と男の間に、なんとも形容しがたい空気が流れた。それは同じ経験をしたものだけが共有する、一種の仲間意識というものだっただろうか。
男は膝を払って立ち上がった。
「あーあ、できれば、何もかも忘れたい気分だよ」
もうすぐ警察が事故現場に到着するころだろう。開放されるのは、いつになるやらわからない。だが、今日の俺には、とにかく時間があるのだ。
俺は男の肩に、ぽんと手を置いた。
「なあ、あんた、時間はあるかい?」
男は苦い笑みを浮かべて、
「予定はあったが、全部流れちまった」
俺はこういった。
「なら、後始末が終ったらさ。一緒に、一杯やりにいかないか?」
――――『呑み仲間』
了。
ご無沙汰しております。
久しぶりの投稿となりました。