8
「お顔を上げてくださいませんか?」
アンドレ王子がエヴァに、そうお願いをする。
エヴァは孤児院では、その妖艶さの総てを地味なワンピースとエプロン、帽子で覆い隠している。
顔は白粉を塗りたくって美貌を平坦に見せているが、それでもアンドレに見せるのは躊躇われた。
手習いのあと、子供たちが昼寝の時間。孤児院の中庭のベンチにふたりは腰掛けていた。ふたりの間には人ひとり分の隙間がある。男性に慣れていない様子のエヴァへの、アンドレの気配りだ。
これまで長い間、互いを遠くからそっと見つめるだけだったのがこんなにも近くにいて交流することができる、このふたりにはとても大きな前進だった。
俯いて黙りこむエヴァに、アンドレは優しく微笑む。
「今すぐでなくて、大丈夫です。イブさんの良いときに。私はゆっくり待ちますので」
四年も機会を伺っていたのだ。このくらい、いくらでも待てる。アンドレはけして女性に消極的ではないが、エヴァの分厚い壁を壊すような無神経でもない。
アンドレはポケットに手を入れた。
小振りのペンと手帳を取り出す。どちらも淡い水色の、美しい女性用の小物。
「私に話し掛けるときに、使ってください。あなたにお会いする時にいつも渡しますね」
エヴァに、そっと手渡す。
「あなたとの逢瀬のあとは私が持ち帰ります。会えない時もこの手帳の美しい文字を見てあなたを想いたいのです」
逢瀬、という言葉にエヴァの胸は高鳴った。それでなくともどきどきとしているのに。その表現はまるで恋人同士の親密なデートのようだと思った。ふたりきりでゆっくりと過ごすのはこれが初めてである。
分厚い白粉の下の頬は赤くなっていた。きっとうっすらアンドレ王子にも見えているかもしれない、と思うと恥ずかしくて更に俯いた。
「もちろん、その気になったらあなたの声を聴かせてくださいね?」
アンドレの柔らかな、まろやかな声はいつも優しい言葉を選んでくれていて、エヴァは申し訳なくも幸せな気分になる。
エヴァは、美しい手帳を開いて『ありがとうございます。貴方のお心遣いをとても嬉しく思います』と書き込んでアンドレ王子に見せた。
帽子の影から、アンドレ王子が柔らかいその面をぱっと綻ばせたのが見える。つられてエヴァの口許も綻んだのをアンドレ王子は見逃さなかった。
「あの、イブさん。よろしければお手を取っても?」
そっとアンドレ王子はエヴァに手を差し伸べる。エヴァははにかみながらも喜んで手を乗せた。
細く長い指のアンドレの手は男性にしては美しいが手入れされてないかさかさとした感触と大きさと、その温かさにエヴァはどきどきする。
エヴァのしっとりと滑らかな白い手に、アンドレ王子はもう片方の手も添えて宝物のように両手で優しく包み込んだ。ふたりの隙間の距離を少しだけつめる。
俯いたエヴァの、帽子の影からのぞく柔らかな頬と細くてまっすぐな鼻梁、ぷっくりとした唇にアンドレは魅入った。
遠目にも可愛らしいとは思っていたが、間近で見ると思っていた以上に美しい。
ほう、とを頬を染めて見惚れるのをエヴァが不思議そうに、小首を傾げて照れくさそうにちらちらとアンドレを見上げる。
「イブさん、可愛い……」
その仕草があまりにも可愛らしくてアンドレは思わず握っていたエヴァの手にちゅっとキスをした。
ぽかんと口を開けて、ぽふんとはじけるように顔がまるごと林檎色に染まるのがまた可愛いくてアンドレは心のうちで悶える。
(……無理……可愛いすぎる……)
アンドレの頬も真っ赤になっていた。少し涙目だ。
「すみません、あなたがあまりにも愛らしくて、つい。……あぁもう可愛い、堪らないな。どうしたらいいんだろう」
可愛いと初めて男性に、大好きなアンドレに言われて手にキスをされたエヴァは目の前に星が飛んでちかちかとしていた。倒れないのが精一杯だった。顔が、身体が熱くて汗がでる。
穏やかな日差しの午後の時間を、手を取り合ったままふたりは慈しむように過ごした。
エヴァはアンドレにとお菓子を、オレンジマーマレードの入ったマドレーヌを持って来ていたのだが渡すことができなかった。
王子というひとが素人の手作りお菓子など食べても大丈夫だろうか?渡すと困らせてしまうのではなかろうかと逡巡して結局渡せなかったのだ。
「エヴァ、来週王宮で行われる舞踏会に出るぞ」
サミュエルは前日エヴァが王子に渡し損ねたマドレーヌを、そうとは知らずに頬張りながら招待状を妹の前にポンと置いた。美味いな、と妹のお菓子作りの腕前を褒めることも忘れない。
「アンドレ王子から改めてお詫びをしたいとの仰せだ。仕立て屋を明日すぐ来るよう呼んである。宝石商もだ。美しく装って王子のハートを射止めて来い」
本来の姿でアンドレ王子に会うなんて、大丈夫だろうか?
エヴァはアンドレ王子にどんな反応をされるのかと臆病になっていた。あの質素な姿を好いてくれている王子は、慎ましやかな見目の女性が好みなのではなかろうか、と。
「アンドレ様のハートを…わたしで……」
エヴァの躊躇いの表情を兄が不思議そうに見つめる。
アンドレ王子には好きな女性がいるらしいが妹の美しさに落ちない男はいない、そう確信している兄は妹の自信のなさそうな様子が腑に落ちない。
あの堅物の真面目王子のことだからもしかしたら好きな女性とやらへの、自身の直向きさを通すかも、という懸念はあるがそれは妹の与り知らないこと。そうなった場合に取る手段も考えてある。
アンドレ王子のそういった誠実さがサミュエルにも好ましいのだが可愛い妹の幸せが優先だ。エヴァに見合うほどのいい男がアンドレの他に思い当たらないのもあった。他の男だったらサミュエルは反対しただろう。
頬を染めてふるふると頭を振りながらなにやら思い悩むエヴァの様子に、恋する乙女というのはこういうものなのかな?と独り納得する。
「今回は私がパートナーとして参加するから安心しろ。ファーストダンスはアンドレ王子が踊ってくださるそうだ。お前ほど美しい女はいない。いつもの愛らしいエヴァそのままを好きな男に見せれば大丈夫だから」
不安そうなエヴァを優しく抱き締めてよしよしと頭を撫でるとサミュエルは居間から出ていった。
エヴァは厨房へ行って孤児院へ届けるお菓子作りに取りかかることにした。
昨日のアンドレとの逢瀬に、まだ浮かれてしまって舞踏会のことをちゃんと考えられないでいた。
手にキスされたことを思い出しては赤面してわたわたと慌てて侍女たちに生温かい目で見守られる。
菓子作りというのは決められた分量で、決められた手順に沿った工程で作業を進める。臨機応変に考えることはないため作業中は集中できる。心を落ち着けるのに意外と向いているのだ。
明日は、これも趣味の庭の菜園でたくさん取れた人参を使ったキャロットケーキを持って行くつもりだ。
人参をすりおろして、材料を計量する。キャロットケーキはバターではなく油を使うので簡単に手早く作れる。トッピングをさっぱりとしたレモンクリームにするので生地には深みが出るようにとくるみの油を使った。人参との相性もいい。
生地をさっくりと木ベラで混ぜ合わせて、カップケーキ型に生地を入れオーブンへと放り込む。トッピングのクリームとくるみを用意した。
ここまでを淡々とこなすとエヴァはメリッサとリンデンフラワーをブレンドしたハーブティーを淹れた。これにも心を落ち着ける作用がある。
厨房の椅子に座り込んで、ケーキの焼ける匂いの中で少しスッキリとした頭を再び稼働させる。
いつまでも好きな人に素性を隠していても仕方がないと思っていた。イブのことをアンドレは大切にしてくれる。そのことはとても嬉しい。でも今のままではアンドレ王子を騙しているようで、胸が痛む。
イブから言うとなると優しい王子は、エヴァ本来の姿が気に入らなくても言い出しにくいはずだ。彼を困らせたくはない。
アンドレ王子は、娼婦と間違われて揶揄されるエヴァをきちんと令嬢として扱ってくれた。それには嬉しかったがこの無駄に溢れ過ぎるお色気が全く通じなかったのはエヴァが彼の好みの圏外だからという可能性が高い。
妖艶さを全て覆い隠した、地味なイブが好みであるなら、どこに行っても目立ちすぎる容姿のエヴァはその逆だ。
それでも本来の姿で愛してもらわねば、受け入れられたとしてもずっともやもやしてしまうだろう。
舞踏会で、エヴァ本来の姿で王子に興味を持ってもらい、それから正直に打ち明けることにしよう……。
誤字報告ありがとうございます。
10話までは毎日更新ですがそれ以降は未定です。
お読みいただきありがとうございます。
(一週間ほど出張の為帰ったら更新再開します。途中、出来次第UPするかもしれません)