6
サミュエルは王城の自分の執務室に行く前に、王子の下へ向かった。王子の執務室の扉をノックして開ける。
「アンドレ王子殿下、入りますよ」
「サミュエルか、どうした?」
これ、と上着を差し出す。
「ああ、私の上着。サミュエルの妹だったのだな。初めて会ったぞ?ディランが申し訳ないことをした」
「ディラン王子には私からちゃんとさせていただきますよ」
サミュエルの黒い笑みにアンドレ王子がひくりと口角を上げる。
「こういってはなんだが、ほどほどにしてやってくれないか?反省して孤児院の掃除までしに行ってるのだ」
「まぁ、それは置いといて」
サミュエルの笑顔が柔らかいものに変わった。糸目なので表情の変化が分かりにくいが長年側にいるアンドレには見分けることができる。
「殿下、うちのエヴァはいかがですか?」
「は?」
いかが、とはどういう意味だろう?アンドレ王子は首を傾げた。サミュエルは王子の横に椅子を持ってきて座りこんだ。他の侍従に聞こえないように小声で話す。
「妹は危機を助けてくださった貴方にすっかり夢中のようなのです。殿下にでしたら安心して妹を嫁がせることができるのですが」
「いやいや、ちょっと待て」
アンドレは驚いてサミュエルを見つめる。意図を計り兼ねるように。
「あの、エヴァ嬢が私に夢中?そんなことあるわけないだろう?」
アンドレはあの夜のことを思い出した。
エヴァはこれまで見たことのないような美しい女性だった。
そんな美女が自分に夢中などとは、あり得ない。結果的にエヴァを助けたことにはなるが弟の悪さを未然に防ぐこと、その後のフォローがアンドレの目的だった。
「失礼な言い様だが、王子妃になりたいのではないか?」
「それならばとっくに立候補してますよ。もっと子供の頃に」
それはそうだ。この第一王子の幼い頃からの友人であるサミュエルの妹ならばそれが出来たはずだ。
「いや、むしろなぜ私はこれまでエヴァ嬢に会ったことがなかったのだ?いることも知らなかったぞ?この前初めて会うなんて、おかしくないか?」
いつも穏やかなアンドレの、珍しく眉をしかめたその表情にサミュエルは真面目に応えることにする。
「妹は……とても美しいでしょう?危なっかしくて出せなかったんですよ。表に。妹の前では全ての男が野獣と化すのでね」
それには納得する。この前は弟ディランの野獣振りに驚いた。
もともと女好きではあったのだが、いつもは女性に言い寄られるばかりのディランが珍しく口説きに行ったと思ったら拒絶されているのにも驚いた。
遠目にもあれは口説くというよりも襲っている、という感じだったから当然といえばそうなのだが。弟はモテすぎるせいで意外に女性の口説き方を知らないのかもしれない。
彼女の、月明かりにほんわりと白く輝く滑らかな肌と潤んで自分を切なく見上げる淡いブルーの瞳を思い出して身震いする。
恐ろしいほどに引き込まれる艶やかさ。上気した頬。花のような甘い匂い。アンドレ自身も馬車まで連れて行くのにずいぶんと心を強く持つ必要があった。
抱き上げた時には極力余計なところに触れないよう気を付けたが、彼女の背中は肉感的な雰囲気からは想像もつかないほどに華奢。そのあまりの軽さにドキリとした。膝の裏も柔らかく細過ぎる脚に常に抱き上げて運んであげたい衝動に駆られる。
改めてお詫びをするために名前を訊いたはいいがその返事をする彼女の声があまりにも愛らしくて理性がぐらぐらと崩壊寸前だった。
「この前の夜会は王弟殿下から直々に招待状が届いて、断ることが出来なかったんですよねぇ。貴方がなかなか結婚しないから周囲も必死ですよ。意中の女性がいらっしゃるとかいう噂もありますが、実のところどうなんです?」
それは、いるのだが秘密だ。ばれたら関係者全員に引っ掻き回されることをアンドレは懸念していた。
イブとの仲は、ゆっくりと温めたいのだ。まだ、やっと昨日初めて交流が持てたのに。
目は細すぎて見えないがじっとこちらを見つめるサミュエルには、彼女のことはすぐに見つけ出せてしまうだろう。どうしたものかと思案する。
「私は、可愛い妹が失恋するのは見たくないんですよねぇ。ねぇ殿下?エヴァならば改めて面倒な王太子妃教育をする必要もありません。エヴァを娶るとなれば殿下は即、立太子されることになります。貴方にも悪いことではないと思うのですがねぇ?」
王位継承権第一位のアンドレが王太子ではないのは、結婚していないからだった。
王子に嫁ぐ女性はまず王太子妃教育という名の、通常の令嬢ではしない高等教育がある。それが修了してからやっと王子が王太子と成り結婚が出来る。王太子と成るには夫婦揃っての資質が問われるので未来の王妃となる道はそれなりに厳しい。
エヴァはその点、すでにその高等教育を済ませているのだろう。家格も申し分ない。しかもとんでもなく美しい女性。
サミュエルがこれだけ自信満々に勧めてくる妹なら見た目が美しいだけでなく中身も優秀なのだろう。でも。
アンドレは孤児院で出会ったイブのことが好きだった。仄かな淡い初恋だったが見掛ける度に好きになった。
分厚い壁があるようで近付くきっかけがまるで見出だせなかった彼女と昨日、やっと初めて交流できたのだ。アンドレを前に真っ赤に頬を染める俯きがちな、控えめな愛らしい彼女のことに今は夢中だ。
どんな条件の良い絶世の美女にも、今は心が動かない……自分はそのような浮気者では、ない。
アンドレは大きくため息をつく。
「そういったことはエヴァ嬢本人と話さないことにはわからないな。本当に私などの妃になりたいのか。なんにせよエヴァ嬢には改めてお詫びをしたいと告げている。彼女は何を喜ぶだろうか。サミュエルはどうしてあげるのがいいと思う?」
「今度王宮でひらかれる舞踏会、そこでエヴァと踊っていただけませんかね?彼女はまだ夜会で殿方とダンスをしたことがないからとても喜びますよ」
「ダンス、したことがない?デビュタントのときはどうしたんだ?」
いくら深窓のご令嬢とはいっても普通デビュタントで、一曲くらいは踊るものだ。
「……エヴァの美しさには色んな妬みが付いて回るものですから。デビュタントは陛下にご挨拶だけして帰りましたね、たしか」
アンドレの胸がちくりと痛む。この前の夜会での周りの好奇の目やくちさがない悪口を思い出した。あれは優雅に振る舞って微笑みを保ってはいても若いご令嬢が傷付かないですむようなものではない。
あのように可憐なご令嬢がどうしてそのような仕打ちを受けねばならないのだろう……。なんとかして、守って差し上げたいものだ、とそこまで思ってアンドレはふるふると頭を振ってその思考を霧散させた。
「では舞踏会の招待状を出しておこう。最初に私と踊ればエヴァ嬢も周りの目を気にせず舞踏会を楽しめるのではないかな?」
「ありがとうございます。殿下のお心遣いに妹も喜ぶでしょう」
エヴァが喜ぶのならパートナーとして迎えに行ってエスコートするべきなのだろう。しかし変に気を持たせては可哀想だ。だからそれはしない。
なのにどうしてこうも落ち着かない気持ちになるのか。
サミュエルは俯いたままのアンドレを見据えた後立ち上がると、大袈裟なくらいに優雅にお辞儀をして部屋を辞した。
誤字報告ありがとうございます!