13
咲き誇るバラ園を抜けると白亜の、王宮に比べるとかなり小ぶりな宮殿が見える。アンドレはバラ園を堪能するための複雑に曲がる小径を急ぎ足で、半ば駆け足で通り抜けた。王宮の園丁が手塩にかけた見事なバラには見向きもせずに。
「そんなに慌てて歩くものではないわ。せっかくの素敵なお庭が台無しよ」
「おばあ様、貴方ならご存知でしょう?あの……」
「挨拶くらいなさいな。いつからそんな礼儀知らずになったのかしら?」
「……ごきげんよう。おばあ様」
アンドレは王太后である祖母にお辞儀をした。普段のおっとりとも取れる優雅さは鳴りを潜めその表情には焦りが浮かんでいる。
庭に面したテラスで、いつもならば可愛い孫の来訪を笑顔で立ち上がって迎えてくれる王太后は、座ったまま紅茶のカップを片手に横目で挨拶を返した。
「おばあ様……」
孫の必死な表情をちらりと見やるとやや冷たい口調で王太后が告げる。
「……わたくしも存じませんよ。あちらが身の上を隠している以上立ち入ったことを訊くのは不躾だわ」
それでなくても垂れぎみの眉を更に下げて、思い切り落胆するアンドレに、もっと意地悪く小突くつもりだったのがすっかり萎えてしまった王太后は大きくため息をつく。
(聞いてはないけど、考えればわかるでしょうに……)
普段はおっとり見えても利発なこの第一王子が、こういう時には何故こうもどんくさいのか。
「あの人に似たのは見た目だけじゃないのねぇ……」
ぽそりと呟く祖母に泣きそうな子犬みたいな孫が小首を傾げる。
前国王の夫も治世には優れていたし一見スマートなようで、妻の自分への対応には余裕のなさが垣間見えた。そこが愛おしくもあったし、夫そっくりな孫はそれはそれは可愛いのだが今回ばかりは苛立たしさが勝る。
(とっても可愛い嫁にきてもらえるってうきうきしてるのに……いつまでお預けくらうのかしら、全く……!)
アンドレには何故おばあ様がぷんすかしているのかわからない。今、おばあ様にまで気遣える余裕が、ない。
彼は愛しいイブのことで頭がいっぱいだった。
ここ数日、時間を見つけては孤児院に通っているがイブが来ていない。
「おばあさまもご存知ありませんでしたか……」
庭園に面したテラスでお茶を嗜む王太后の前で、立ったままの第一王子はがっくりと肩を落とした。
「容姿までも、全部隠してるのよ彼女。野暮な質問はできないわ」
常日頃は惜しみなく愛情を注いでいる孫の王子に、今日、祖母が向ける眼差しは冷ややかだ。
「そんなことくらい、とっくに聞き出しているものだと思ったのよ。あんなに親密な様子だったから」
がっくりと肩を落としたまま王太后の宮殿を辞そうと歩みだして、そうだ、とアンドレが祖母の方へと向き直った。
「おばあ様、あの……」
照れ臭そうに目を細めて、下唇を軽く噛む。
「ありがとうございました」
突然の感謝に、図らずもきょとんとしてしまったせいで祖母の、寄せたままだった眉根が弛む。
「なんです?唐突に…」
「おばあ様が、教会を建立してくださったおかげでイブさんに出会えたんです」
眉尻を下げたままかすかに微笑んで、アンドレがいつもよりも柔らかな声音で祖母へと告げる。
「いつも言おうとして、でも、すっかりタイミングを逸してしまってて……今更ですが、おばあ様のおかげで素敵な女性を知ることができました。生まれた時から目にかけてくださったことももちろんですが、おばあ様には本当に、本当に感謝しています」
最後に、弱々しくではあるがにこりと無邪気な笑顔を向けると深く一礼をして、背を向けた。
立ち去る王子を見送って、眉間を揉みほぐすような仕草で誤魔化しつつハンカチで目頭を抑えた王太后が細くため息を吐きだす。
二人のやり取りに、壁際に控えていた侍女たちもにんまりするのを堪えるように口元を手で抑えていた。
(もう……本当に、こういうとこ)
冷たく当たってしまったというのに……どんなときにも誠実で優しい心根のアンドレに、王太后は苛々している自分を反省した。
「仕方ないわ……。ちょっとだけ、お尻を叩いてあげなくちゃ、だわよね……」
まぁ、実はもう手筈は整えつつあるのだけどね、と口の端をにんまりと上げる。
この前の王宮での舞踏会のことは参会した貴族だけでなく、新聞の記事になったことで広く知れ渡ってしまっている。
『アンドレ王子、とうとうご結婚か?』で始まる大きな見出しの新聞は非常に人気で、詳細らしきことの書き足された号外までもが飛ぶように売れたらしい。
イブがいくら深窓のご令嬢とはいえさすがに耳に届いているだろう。
彼女がアンドレのことを王子だと気付いていたら……いや、知らないとしても自分の身分を明かしてちゃんと話をしなければ。
シャロン公爵令嬢とのことをイブが気に病んではいないかと、何も知らないアンドレはひとりやきもきとしていた。全然違う方向に。
自身に厳しい性分のせいで、自業自得だとその胸の内は地獄を彷徨う心地である。
こんなことになるのであればイブの素性を、遠慮なんてせずに聞いておくのだった。彼女の家族に結婚の申し込みをしておくのだった……。
孤児院のシスターも、イブのことを知っていそうなのにはぐらかす。なんとも困ったような笑顔でアンドレを見るだけだ。
「あ、兄さん!」
とぼとぼという擬音が似合いそうな歩調のアンドレに、きらきらの笑顔で弟のディラン王子が話しかけた。
横にいる糸目の青年が第二王子を、近衛たちには見えない絶妙な角度から肘で小突く。
「アンドレ王子殿下、ごきげんうるわしゅう」
わざとらしく恭しいお辞儀をするサミュエルの横で、ディランがあたふたとしていた。
「珍しい組み合わせだな。二人で……おばあ様のところへ?」
このバラ園の先には王太后の宮しかない。
「えぇ。王太后殿下が、特別なお菓子をご所望で」
サミュエルがにっこりと口角を上げて笑顔を作った。
「そうそう、執務室に妹からの手紙を、この前の舞踏会のお礼状を届けておきました。後でお読みくださいね」
エヴァは自室で本を読んでいた。
といっても膝の上の本には目を落とすことなく上の空。寝椅子に身体を預ける姿は宮廷画家の描く愛の女神の寝姿のようにしどけない。
舞踏会のアンドレ王子とのダンスで、エヴァは一躍時の人となった。
シャロン公爵邸には今、様々な人が押し掛けてくる。
エヴァへの求婚者たち、求婚の書状を携えた使者たち。有力者からの紹介状を片手にインタビューを申し込む記者。それから未来の王妃かもしれない公爵令嬢に取り入ろうとする者たちからの、夜会や茶会の招待状を届ける者たち。
あの夜、結局アンドレ王子とエヴァの婚約の発表はなかった。
まだチャンスがあるかもしれない、と舞踏会で公爵令嬢の悩ましいほどに艶やかな姿を目に焼き付けた者たちがこぞって求婚してくる。
参会しなかったが噂を聞いた者や、他国からも求婚の書状が届きはじめている。サミュエルの言い付けで全て門衛が対応し邸には一歩も入れてはいない。
執事と従僕が次々と届く山のような書状を仕分けしていた。
公爵邸の周囲が騒然としている為、兄から外出禁止を命じられたエヴァは大人しく部屋に閉じ籠っていた。孤児院のお手伝いには“イブ”の代わりに侍女が出向いてくれている。
もともと孤児院くらいにしか出掛けていなかったエヴァには、引き籠るのは苦ではなかった。しかし今は趣味の料理や庭仕事をする気にもなれない。
舞踏会で、ダンスを踊った後のアンドレ王子のことを何度も思い返す。
執務室へと向かうときに衛兵と話していたアンドレの言葉が、声音が耳に残って離れない。
暗くて低い不機嫌そうな声。
いつも朗らかで柔らかい話し方の、アンドレのそんな声を初めて聞いた。
(やっぱり、わたしの見た目が、気に入らなかったのかしら……どうやっても、目立つみたいだし……これまでも商売女と間違われていたし。顔、かなぁ。だってドレスは王妃殿下にもお褒めいただいたもの……)
周囲からは侮蔑の言葉は聴こえてこなかったが、それはサミュエルや王子と一緒にいたからなのかもしれない。
これまでは名乗る間もなく、いや、名乗ってもそれが耳に届くことなく蔑まれたり追い出されたりしていた。
せっかく取り戻しかけた自信も、すでにぼろぼろと崩れはじめている。
国王や王妃は、アンドレ王子と同じように優しい眼差しを向けてくれた。
孤児院でお世話になっているおばあ様も、商売人ではあるが仕立て屋のグリも宝石商のカルロも綺麗だと言ってくれた。
蔑む人たちには自分の姿がどんな風に映っているのだろうか。
エヴァは混乱し、ため息ばかりついていた。
外出禁止のせいで孤児院にも行けないが、今、アンドレとどんな顔をして会えばいいのかもわからない。
本来なら舞踏会の日に、打ち明けるつもりだった。
エヴァの、何も隠さない姿を見て、例え王子がお気に召さないようでもそうするつもりでいた。
兄が手紙なら届けようと言ってくれた。何度も何度も書き損じ、結局差し障りのない、お礼状といった内容を綴るだけにとどまった。大切なことはちゃんと面と向かって話したい。
アンドレからの熱い求婚の言葉を、幾度も心のうちで反芻する。
でもあれは、イブにしたものだ。
あのときは、あんなにも幸せだったのに。
幸せすぎるダンスを、そのあとの暗澹たるアンドレの様子を思い返すと、感情の、あまりの高低差に胸が張り裂けそうになる。
愛しい人を、ずっと謀っていた罰なのだろうか。
「ハペス劇場へ?」
「あぁ、チケットをもらってきた。舞踏会に行ったんだ。もう顔も存在もバレたことだしそろそろ表舞台に出る頃合いじゃないかな」
玄関ホールで、帰宅したばかりのサミュエルが上着を執事に渡しながら出迎えた妹に提案してきた。
「この前、仕立て屋のグリにはドレスもついでに何着かと出掛け用の街着も仕立ててもらってる。昼間のプログラムだし劇場には夜会ほどの盛装は必要ないから気軽な気持ちで行けばいい。私が一緒に行こう。外出禁止にして申し訳なかったが、いい気晴らしになるだろう?」
「でも……」
劇場は社交の場だ。貴婦人たちの雑言や色欲に塗れた殿方の視線を思い出し、エヴァは辛そうに目を伏せた。
「今度の演目は仮面舞踏会なんだ。盛り上げる為に観客も仮面着用でね。顔は隠せるしわざわざ名乗ったりもなし。この演目に限り改まった社交は必要ない。これならエヴァも参加しやすいんじゃないかな」
「まぁ、仮面……本当に?」
目を見開いて、かばりと顔を上げて兄の腕を掴む。
「それとも、エヴァは歌劇には興味なかったかな?」
「ずっと……ずっと行ってみたかったの……!でも、お兄様のお仕事は、大丈夫かしら?本当にいいの?」
キラキラと瞳を輝かせる妹が可愛いすぎて、本当は忙しいだなんてサミュエルには言えるはずもない。
「勿論だ。その日は仕事は休むつもりだ。エヴァの気が向くなら劇場の後にカフェに寄ってもいいし買い物をしてもいい。一日エヴァに付き合おう」
「お兄様!ありがとう……嬉しい!わぁ……どうしよう。何着たらいいのかしら……ふわぁ」
久々に満面の笑みを見せ抱きつく妹を、サミュエルはよしよしと存分に撫でた。
大変お待たせして申し訳ございません。
お待ちくださった方、ありがとうございます。




