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あまりにも楽しくて夢中で踊ってしまった。
エヴァ嬢は舞踏会が初めてだと聞いていたのに無理をさせてしまったかな……。
疲れただろう。飲み物を取りに行ってあげたいがこんなにも注目されてしまっている、美しすぎる深窓のご令嬢をひとりにするのはいかがなものか。
火照った頬。荒い呼吸に上下する白くて柔らかな胸、華奢な肩。アンドレはしどけない様子のエヴァを置いて離れることが出来なかった。
(他の男に見せるのは……なんか嫌だ…)
ダンスの時と変わらずエヴァはアンドレをうっとりと見つめている。エヴァともっと一緒にいたいという自身の気持ちに無自覚なアンドレは水宝玉の双眸を熱の篭った眼差しで見つめ返していた。
整わない呼吸のせいでぽってりとさくらんぼのような唇は不用心にも開いたまま。絶世の美女相手に、アンドレ王子はどうしたらいいのか全くわからず自分に向けられた淡い水色の瞳に惚けるばかり。
キスを誘われているかのようで、そんなつもりはないのだろうがそう錯覚をしてしまう自分にアンドレははっと驚く。
「はい、兄さん」
ふたりの前にグラスを2つ持ったディラン王子が現れる。
「ダンス、とっても素敵だったよ。たくさん踊って喉が乾いたでしょう?」
キラキラ笑顔で飲み物を差し出す。ディランの姿を見るとエヴァはアンドレの後ろに隠れるように半歩下がった。きっとまだディランのことが怖いのだろう、アンドレが宥めるようにその華奢な背に腕を回す。
「兄さんには葡萄酒、エヴァ嬢には桃ジュース。エヴァ嬢はお酒は飲めないんでしょう?」
「……ありがとうございます」
口ではお礼を言いながらもエヴァはディランが近寄ると離れてしまう。アンドレが弟からグラスを受け取ってエヴァに渡すと少しほっとしたような表情を見せた。なんとかわいらしい……。
エヴァの怯えた様子を見ていたディランが心苦しそうに、申し訳なさそうに眉を下げる。
きゅっと唇を引き結ぶと姿勢を糺してエヴァに向かって跪いた。
「この前は本当に申し訳ありませんでした。貴女の美しさに正気を失ってしまって酷いことを。二度とあのようなことはしません。どうか赦していただけないでしょうか?」
頭を垂れて、心から反省している様子を見せる。
「兄の大切なひととは仲良くしたいのです」
(は?)
「あの……ゆ、赦します。赦しますからどうか立ち上がってください……!」
慌てるエヴァの横でアンドレはきょとんとした。
(大切なひと?私の?)
ふと周りに目を向けると両親の国王と王妃、王弟夫妻がすぐ近くにいた。シャロン公爵夫妻とサミュエルも一緒にエヴァとアンドレを囲っている。
全員にこにこしながらふたりのダンスが素晴らしかった、お似合いなカップルだなどと語り合っていた。
周りの貴族たちも歓談するふりをしつつこちらの様子をしっかりと伺っている。
「ほらやっぱり、今日の舞踏会でアンドレ王子殿下の婚約者の御披露目があるって本当だったのね。衣裳もお揃いでとても素敵なダンスだったわね」
「シャロン公爵家のご令嬢だなんて。王太子妃にこれほどぴったりな方はいらっしゃらないわ」
「なかなか結婚なさらないと思っていたら、あんなに美しい方を隠していらしたなんて。殿下もすみにおけないですわね」
こそこそと内緒話のようなのに貴婦人方の声はどうしてこれほど通るのか、感心するくらいにアンドレとエヴァの話題で盛り上がっていた。
(ディランが言っていた噂……)
アンドレに婚約者はいない。
愛しのイブに求婚してはいるが。
なぜこのような噂が流れているのか……。アンドレはサミュエルの方を見た。この計算高い男ならやりかねない。エヴァをとても大切にしているようであるし、妹の為ならなんでもしてあげそうに思える。
しかし第一王子の睨むような視線を受けたシャロン家の嫡男も何のことだとばかりにきょとんとした。
サミュエルの糸目が見開かれ滅多に拝むことのできない水色の瞳が見える。不意を突かれた時しか見せないそれはエヴァのものと同じで、顔の造りは全く似てないが本当に二人は兄妹なのだなとアンドレは妙なところで落ち着き感心した。
サミュエルではない?
この両親たちの態度や他の貴族たちの期待に満ちた視線からも、とうに外堀を埋められていることを察する。
(婚約者だなんて困る。私にはイブさんが……)
そう思いつつ、アンドレは愕然とした。
弛んでいた表情筋が一気に引き締まる。
改めて横を見るとエヴァが頬を染めて自分を見ていた。やはり周囲から聞こえてくる噂話に困惑しているが何やら期待するような表情でもある。
(しまった、私は何ということを……)
同じ相手と続けて何曲もダンスを踊るのは婚約者か、でなくとも恋人だと公言しているようなものだ。
エヴァ嬢が自分に好意を寄せていると聞かされていたのに、どうしてこんなことをしてしまったのか。期待させたのは自分だ。
ディランのことを怒れない……。
自分もすっかりエヴァの美しさに参ってしまっていた。
美しさだけではない。ぽーっと自分を見つめる駆け引きなしの純真無垢な表情。完璧な美貌と相反する貴族の令嬢らしからぬ気取りのない、素直な話し方にとても好感が持てた。
まだ会うのは二度目だというのに傍にいると、その妖艶さにどぎまぎもするが何故か愛らしくて和む。
これまでも好きでもない女性に言い寄られることはあったがその度に居心地の悪さに作り笑顔で距離を取ってきた。なのに誰よりも直球で熱いエヴァからの好意には不思議と心地よさを感じる。彼女の手を放しがたい。手袋越しなのがもどかしいとさえ感じるほどに。
この澄んだ、潤み揺れる水宝玉から惜しみなく注がれる熱情に惹かれるなというのが無理な話だ。
アンドレは、エヴァに愛しさを感じていることをはっきりと自覚した。してしまった。
(イブさんを愛しているのに。イブさんに求婚している身で他の女性に心奪われるなんて……期待させるようなことをするなんて、ただのクズじゃないか。私は、なんという浮気者だ……)
地中深く開いた暗い穴に、心臓が落ちていくような感覚に漏らしかけた溜息を飲み込む。
アンドレはにこやかな表情を作るとサミュエルにエヴァの手を差し出した。
「エヴァ嬢、ダンスの相手をありがとう。とても素敵なひとときでした。舞踏会をゆっくりと楽しんでくださいね」
サミュエルがエヴァの手を取るとアンドレは更ににっこりと微笑みかけてその場を離れ、いちばん近くの扉から出て行った。
エヴァは愉しそうに話し掛けてくる国王や王妃に優雅な所作で挨拶をしつつもアンドレのことが気になってしょうがない。
(アンドレ様はどこに行かれたのかしら。もう、会場に戻って来てはくれないの……?)
そわそわしだした妹を連れてサミュエルが王子の出ていった扉を開けて行っておいで、と背中を押す。
エヴァの姿に特に嫌な顔も、大抵の男のように下心丸出しの顔でもないアンドレにほっとしていた。イブの時と変わらず、少し照れたような優しい微笑みだった。
(この姿でも、何も隠さない素の私でも、きっと大丈夫……)
踊っている間の王子はとても楽しそうにしていた。社交辞令だけのようには思えなかった。
本当のことを、自分がイブであることを打ち明けても大丈夫だろう。きっと受け入れてもらえる。
今すぐ伝えたい。
そしてアンドレ様からの求婚にきちんとお返事をしたい。
エヴァは浮かれた足取りで会場から消えた愛しの王子を追いかけた。
高い天井、壁は金銀の蔦の模様に飾られている。長い廊下を裾の長いドレスをつまみ上げエヴァは小走りで突き当たりまで行った。聞こえてきた話し声に、角を曲がる前に止まる。
アンドレと衛兵らしき声。
「アンドレ王子殿下、まだ舞踏会は始まったばかりでは?」
「仕事が途中なんだ。中座させてもらうよ。父上と母上にもそう伝えてくれるかな?」
「畏まりました。しかし美しい婚約者様がいらしてると聞きましたが……よろしいのですか?」
「婚約者じゃない。ただの噂だ。一体どこまで広がってるんだ全く……。今日中に終えたい仕事があるんだ。執務室に戻るから誰も通さないでくれ」
珍しく苦々しい表情のアンドレに衛兵は畏まりました、と敬礼をして扉を閉めた。
大変遅くなりました。お持ちくださった方には申し訳ございません。
それと沢山の感謝です。
ようやく執筆できる環境が整いましたが久々すぎて思うように筆が進みません。(さっそくうっかり13話の3000文字ほど消してしまいました……)
完結まで下書きは終えていますがまだまだゆっくり更新になります。




