第98話
元々の静謐な部屋が嘘であったかのように、今の部屋は黒竜の攻撃の余波を受けて、ボロボロに崩れてしまっている。
幾つもの瓦礫が積み重なる中、ヤマトは疲れたように溜め息を漏らした。
「どうにかなってくれたか」
「ほとんど奇跡みたいなものだけどね」
そんなヒカルの言葉には、頷かざるを得ない。
ヤマトが負傷中であったということと、先にヒカルが傷つき倒れていたこと。その二つがなかったとしても、とても勝てるような戦いではなかった。黒竜の力はヤマトたちを合わせて集めたとしても、到底及びはしなかった。
それでも今回の戦いを切り抜けられたのは、正しく奇跡的だ。
「だが、流石に限界だ」
正確には、限界を越えた先にまで至ってしまった。
身体はもう無事な箇所を探す方が難しいほどに、傷だらけ。ノアが巻いてくれた包帯も既に役に立たなくなり、傷口から流れ出る血の勢いが止まらない。あまりに出血しすぎたせいで、さっぱり身体に力が入らなくなっているほどだ。
「怪我、大丈夫?」
「すぐにどうにかなるほどではない」
心配そうに表情を陰らせるヒカルへ、何事もないように頷いてみせる。
既に視界はクラクラとし始めているが、ノアたちが来るまで保たないということはないだろう。脱力し、瓦礫の上へ腰を下ろす。
「ヒカルの方も、大事ないか?」
「おかげさまで。色々あったから、痛みにも慣れてきたし」
(それはあまり好ましいことではないような)と、ヤマトはボンヤリと考える。
間違いなく、ヒカルが元いた異世界では得られないものだったはずだ。こちらの世界に馴染んできたと言えば聞こえはいいが、異世界人たるヒカルにとって喜ばしい変化ではあるまい。
とは言え、今のヒカルは救世の勇者だ。その行く先には、まだまだ血生臭い戦いが待ち受けていることだろう。それを思えば、こうした変化も必要なものなのかもしれない。
そんなヒカルだが、血塗れになっているヤマトの姿には、少し思うところがあるらしい。神妙な様子で呟く。
「私も治癒魔導が使えたらよかったんだけど」
「心配は無用だと言っただろう?」
「それでもだよ」
ヒカル率いる一行の中で治癒魔導が使えるのは、現状ではリーシャただ一人だけだ。ヒカルはまだ魔導術を扱えるほどに魔力の扱いに習熟しておらず、レレイもヒカルと同様。ノアは魔導術への造詣が深いものの、得意としているのは帝国製のもの。太陽教会の秘儀を扱えはしない。
これから新しく治癒魔導術を習得できる可能性があるのは、ヒカルとノアの二人。
(だが、確かに覚える必要性は高そうだな)
霞む視界の中、そのことにヤマトは頷かされる。
勇者ヒカルを筆頭に、剣士ヤマトと格闘家レレイ、聖騎士リーシャに万能後衛たるノア。以上の五人パーティだが、正直なところ、前衛過多な一面は否めない。パーティ内のバランスを取るためにも、ヒカルも中衛として動けるようになっておく必要はあるだろう。
こんなときに、魔導適性が皆無なための前衛にならざるを得ないことが、若干悔やまれる。悔やんだところで、適性が得られるようなものではないのだが。
「……ノアたちの方は大丈夫かな」
「む?」
ヒカルの言葉で、思考の海に沈んでいた意識が浮上する。
ヤマトが知る限り、ノアとレレイとリーシャは、上の階でクロの相手をしていたはずだ。三人とも黒竜の威圧を受けて調子を著しく崩していたものの、今はその黒竜も遠くの地へ転移した。
「あいつらなら、問題あるまい」
「ずいぶん信頼しているんだね」
「他二人までは分からんが、ノアがいるなら無事だろう」
疑うようなヒカルの声に、ヤマトは自信満々に頷いてみせる。
(ノアが敗れるところは、想像できんな)
頑なに口に出そうとはしないが、ヤマトからすれば、ノアの力は常軌を逸している。より強くあろうと熱望するヤマトにとって、ノアという存在は、越えがたい理想の一つでもある。
本人はずっと後衛としてヤマトを支援することを望んでいるものの、その才は後衛に留まるものではない。的確な状況判断能力と戦術構築のみではない。激戦の中で我を忘れない冷静さに、常人を遥かに凌ぐ身体能力。目まぐるしく状況が変わる戦いにおいて、ひたすらに最適解を選択し続けるスタイルは、武を修め強さを求めた者ならば、誰もが目指す境地だ。
頼れる相棒であると同時に、いずれ越えなくてはならないライバル。それが、ヤマトにとってのノアという男への評だ。
「ほー……」
「む?」
ふと、ヒカルから湿度の高い視線を向けられていることに気がつく。
確かに小っ恥ずかしいことを口にした自覚はあるが、こう囃されて気分のいいものではない。
「何だ、言いたいことがあるなら言えばいい」
「やっぱ、ヤマトってノアのこと信頼してるんだね」
それは、確かにそうなのだろう。
素直に首肯することが躊躇われたが、曖昧に頷いておく。
「それが?」
「やっぱり二人って、できてるの?」
「―――」
……………。
…………。
………。
「は?」
思わず、意識が遠のきそうになった。
ノアが少女と誤解した相手から勘違いされた経験は、これまでに数え切れないほどあった。始めこそ辟易させられたものの、今ではだいぶ慣れてしまったことだ。
だが、ヒカルにはノアが男性だということは明確に伝えていたはずだ。
「……忘れたのか? ノアは――」
「男でしょ? それは聞いたって」
なら、いきなり何を言っているのか。
ヒカルは、ヤマトとノアが同性でありながら、そういう関係だと考えているのか。
「冗談じゃ――」
猛抗議しようとして、ぐらっと視界が暗転する。
血をあまりに多く流してしまった身体にとっては、ちょっとした興奮すら一大事だったらしい。ぐらぐらと視点が揺れて、思わず吐き気が込み上げてくる。
「ちょっ、大丈夫!?」
「お前が原因だろ……」
「ヤマト? ヤマト――!?」
恨めしげな声を上げ、暗くなった視界の隅にヒカルの姿を捉えながら。
ヤマトの意識は、そこで一度途切れた。
◇◇◇◇◇
穏やかな森だった。
天上は薄い木の葉が覆い隠し、ともすれば痛いほどに降り注ぐ陽射しを遮っている。ムワッとした熱気が木々の間にこもりながらも、時折吹き抜けていく涼やかな風によって、生き物全てに涼を与える。凶暴な魔獣の気配もなく、魔力を持たない獣たちが呑気に闊歩する、昼下がりの森林。
その一角に、黒竜はいた。
『―――――』
つい先程まで激闘を繰り広げていたとは思えないほどに、穏やかに落ち着き払った姿。
戦いの中で負った傷は全て回復し、その名残と呼べるものは、漆黒の身体の中でキラリと煌く白刃だけだ。
まるで日向ぼっこでもするかのように、柔らかな動きを見せながら、黒竜は静かに佇む。
『―――――』
スライムという魔獣には、およそ知性というものは存在しない。――否。スライムのみならず、魔獣の大半は知性を有していない。その身に余る魔力に振り回され、破壊衝動のままに周囲へ殺戮を振り撒くのが、魔獣の在り方と言えるだろう。
ところで、一般に魔獣と呼ばれるものは、そのほとんどが「魔力を有してしまった獣」と説明することができる。その魔力の大小によって様々に姿を変容させるものの、その姿形は、穏やかな心を持つ獣を基本としているのだ。例外と呼べるのは、二種類のみ――竜種と、スライムだけだ。魔力を持たない竜種は存在しないのと同様に、魔力を持たないスライムもまた、この世には存在していない。
ならば、当然浮かんでくる疑問がある。魔獣の中でも特異的に理性を有する、竜種。彼らは他の魔獣と――スライムと、何が違うのか。凶暴な魔獣と言えども、長い年月を経れば、いずれは自然を愛する心が芽生えるのではないか。
残念ながら、その問いに答えられるだけの見識を持った者は、ここには存在しない。
『―――――?』
とは言え。
ともすれば答えに迫れるのではないか。そんな期待を抱かせるような光景が、そこで繰り広げられようとしていた。
『――――ぁ?』
呑気にふるふると揺れていた黒竜の身体が、何かを調律するように、小刻みに震える。
『―――あああぁぁぁあ?』
無人の森の中に、人の声によく似た音が響き渡った。
驚いた獣たちが、一目散に己の住処へ逃げ込んでいく。そんな中、元凶たる黒竜はと言えば、全く動じた様子もなく身体を震えさせ続けている。魔力を欠片も漏らさず、ただの物理現象として音を――声を発しようとしていた。
『ぁああぃぃうぅぅうおおおおえぇぇ?』
人が聞けば、とても意味を成していない音の羅列。
それでも、黒竜にとっては満足のいくものだったらしい。気分よさげに身体を揺らしたかと思えば、今度は、球体のような身体をぐにゃりと歪めている。球から突き出た、一本の棒。先端に、更に小さな突起が五本生えている。それは、ともすれば人の腕のようにも見えるものだった。
『うぅぅうう!』
唸り声にも似た音を放ちながら、黒竜は体内から木の棒――ヤマトが使っていた刀の、柄の部分を取り出すと、たった今作り出した手で握り込む。
『うぅぅ?』
何かが違う。
そんな声を上げた黒竜は、直後に核へ突き刺さったままの刃を思い出す。
『うぅぅるるるるぅううう……』
身体の中へ力を込めるように、小刻みに震えだす。黒いスライム状の身体がぐるぐると回転し、核を表面へ浮き上がらせる。宝石のような核に突き刺さったままの刀身が、久方ぶりに外気に触れた。
『ふぇっ!!』
さながら痰を吐き出すような音を上げて、核から刃が外れる。
命に支障はないと言えども、喉に小骨が刺さったような不快感はあったのだろう。これまで以上にすっきりして上機嫌な様子で、黒竜は落下した刃を拾い上げる。そのまま柄にくっつけようとして、すぐに外れてしまうことに気がついた。
『ぁぁああぅぅう?』
黒竜は回想する。記憶の中に鮮明に刻み込まれたあの人間が握っていた、刀の形。それに近づけるためには、どうすればいいか。
身体の一部を刃と柄に這わせ、その内部へ浸透させていく。丹念に鍛え上げられた鋼の、どうしても生まれてしまう微細な隙間へ己を通していく。純鉄を、黒竜の身体が混じった新しい物質へと作り変えていく。最後に、刃と柄を接合してしまえば、完成だ。
『いいぃぃいい!!』
新しく生まれ変わった刀を掲げて、黒竜は満足気に身体を揺らす。
間違いない。黒竜に初めてまともな手傷を負わせた人間は、これを握っていた。微妙に色や硬さが違っている気もするが、些末な問題だろう。
記憶の中、人間がどのように刀を振っていたのかを思い出す。それを見たのは、ただ一度だけ。それでも、魔獣として超常的な感覚を得た黒竜には、現実よりも更に鮮明な映像として空想することができた。あのまばゆい斬撃を放つとき、人間は何かを口に出していた。それは、確か――
『ぁあんぇええぅ?』
言いながら、振り切る。
黒竜としての力に比例して、その斬撃は途方もない威力を秘めている。その風圧だけで森がざわめき、獣たちが恐れ戦く。――だが、そんなことはもうどうでもいい。
『ぁあんぇう? あんぇぇぅ! ぁんえうぅ!!』
何度も何度も、刀を振り続ける。
始めはただ力任せだった斬撃が、徐々に洗練されていく。一太刀ごとに鋭さを増し、刀が有する際立った斬れ味を活かすように、真っ直ぐな軌道を描く。
だが、まだ足りない。
あのとき、あいつが見せた斬撃は、こんなものではなかった。夜空に煌めく流星の如く、一瞬だけ仄かな光を放ちながらも、その輝きは黒竜の目すらも魅了した。そんな、超常的な一撃だったはずだ。
『―――――』
振る。
振る。
ただひたすらに、振り続ける。
いつしか、森の獣たちがその威圧に慣れきって、恐れもなく黒竜の姿を見に来てもなお、振り続ける。
人知れない森の深奥、ぽっかりと開けた広場で、黒竜はただ一心に刀を振り続けていた。