第97話
(間に合ったか。とは言え――)
重傷を負いながらも、ヒカルはひとまず命に別状はないらしい。
そのことに安堵の息を漏らしながら、ヤマトは目の前の敵と対峙する。
「あれが黒竜か。本当にスライムとはな」
常闇を思わせる黒色と、その身体に内包された魔力量はスライムにあるまじきもの。だが、その姿形だけは、確かにヤマトのよく知るスライムそのものであった。
「黒竜?」
「俺も詳しくは知らないが、クロはそう呼んでいたぞ」
半ば呻き声のような言葉を発するヒカルに、端的に返す。
そうして気を紛らわせなければ、到底正気を保てそうになかった。
(こいつは、想定以上だな)
間違いなく、これまで出会った魔獣の中で最強格。
かつて、ザザの島でアオ――至高の竜種の一角と出会ったが、それに勝るとも劣らないほどの威圧を感じる。アオが理性でその力を制御していた分、身体で感じる圧力は、目の前の黒竜の方が上かもしれない。
思わず飛び出してしまったわけだが。
(早まったか?)
奇しくもヒカルと同じことをヤマトが考える間、黒竜は静かに佇んでいる。目という機関は備わっていないが、その意識は新たに現れたヤマトの方へ向いているようだ。
敵認定はされていないが、不審がっているというところか。
「……ヤマト、早くここから離れた方がいいよ。今なら、まだ間に合うかも」
「さて、どうだろうな」
話をはぐらかしながら、ヤマトは改めてその場の状況を確認する。
魔王の心臓を破壊するためにやってきたヒカルは、黒竜との戦闘でほとんど満身創痍。死力を尽くして、あと一度剣を振るえれば上出来か。対する黒竜には疲弊した様子もなく、気力充分といったところ。言葉に出しづらいが、ヒカルとの戦いはほとんど苦労するものではなかったのだろう。
(仮に全てが上手く行ったとしても、勝率はないに等しい)
即座に、それを判断する。
幾ら感情を昂ぶらせてみたところで、この実力の差は如何ともしがたい。撃破が不可能なのは無論、撃退であっても今のヤマトたちでは無理だろう。刃を交えれば、そこに待つのは死のみだ。
だからと言って、諦めるという選択肢は取れない。
(達成目標を変えるか?)
すなわち、黒竜の撃退から、この場からの撤退へ方針転換をする。
この部屋の出口は一つ。ヤマトが今しがた駆け込んできた通路のみだ。長年放置されたらしく、状態のいい通路ではなかった。黒竜が暴れれば、そのまま崩落してしまう危険性があるだろう。どうにかして追撃を避けなければならない。
ちらっと黒竜の様子を伺う。
突然乱入してきたヤマトに興味津々そうだった様子はどこへやら。さっぱり行動を始めないヤマトを無視して、その関心を再びヒカルの方へ向け始めている。
(よくないな)
残された時間は、長く見積もってあと十秒。
この場にいるのは、ヤマトとヒカルだけ。ノアたちは、黒竜の魔力を受けてまともに身動きできなくなっていた。魔導適性が皆無なヤマトと、自身も充分な魔力を有しているヒカルだけが、黒竜の前に立つことができたということか。
そうこうしている内に、黒竜がゆっくりと動き始める。ヤマトを視界から外し、ヒカルを直視しようとしているのか。
「何も浮かばんな」
流石に時間が足りなすぎる上に、戦力も不足している。
この場を打開する方法が思い浮かばないままに、ヤマトは黒竜の前へ立ちはだかった。ヒカルと黒竜の間を遮り、「通すつもりはない」と視線で威圧する。
『―――――』
「流石にお怒りか」
「これでヤマトも、あいつに目をつけられちゃったよ」
暗い声をヒカルが上げる。
それに渋い表情を浮かべながらも、ヤマトはふと思いついたことを口に出す。
「お前は、ここからどうするつもりだったんだ?」
「ここから? リーシャが離れるまで時間稼ぎして、後は加護の力で逃げようかなって」
加護。時空の加護だ。
グラド王国で初めて出会ったときから、ヒカルが持つ時空の加護にはずいぶんと助けられた。にも関わらず、ヤマトは未だにその全貌を知らない。
今のところ確認できているのは、異空間へ荷物を収納する力と、未来の光景を幻視する力、瞬間的に転移をする力くらいか。
(充分無茶苦茶だな)
思わず苦笑いしたくなるが、これでも時空の加護を全て引き出したことにはならないという。
ヤマトも未だ把握できていない、加護の力。そこに活路はあるかもしれない。
「具体的には?」
「え?」
「具体的に、ここからどう離脱するつもりだったんだ」
そんな問答をしている間にも、黒竜から放たれる敵意が加速度的に増している。瞬く間に不穏な空気をまとった黒竜へ、右手に握った刀の切っ先を向ける。
「ある程度時間をかければ、長距離転移もできるから。それで、あいつが分からないところまで飛ぼうって」
「長距離転移か」
恐らくは、先に上げた短距離転移の発展形。咄嗟に出せる短距離転移に加えて、入念に準備すれば長距離転移も可能ということか。
「その転移は、自分だけが対象なのか?」
「いや。それなりに時間はかかるけど、他のものを飛ばすこともできるけど」
そこまで言ってから、ヒカルはヤマトの意図に気がついたらしい。
諦めたように脱力していた身体に活力を戻し、仄かな光を宿した目をヤマトへ向ける。
「難しいよ?」
「それ以外に手が浮かばん」
限りなく薄い望みだったとしても、ないよりはいい。
それをヒカルも理解したのか、納得しがたい表情ながらも、真剣な眼差しになる。
「どれくらいの時間があればいい」
「……一分で整える。発動のときには、触れている必要があるから、そこもお願い」
「任された」
一分。
同格の相手であれば一瞬にも等しい時間。だが、黒竜ほどに格上の相手では、一分すらも永久に近しい時間に思える。――それでも。
(やるしかないか)
通路の先へ視線を向け、小さく首を横に振る。この状況で、ノアたちを頼ることはできそうにない。
次に、自分の身体を見下ろす。青鬼との死闘を経て傷ついた身体は、とても万全とは言いがたい。身動ぎするたびに左腕は鋭い痛みを訴えるし、刀を握り続けている右手からも握力が抜けてきた。意識は冴え渡り思考もはっきりとしているが、疲労の影響がないとは言えない。少しでも気を抜けば、そのまま寝落ちしてしまいかねないほどの極限状態。
対する黒竜は、体調という概念があるかは定かでないものの、ひとまず万全な様子らしい。ブルリと身震いさせて、敵意をヤマトへ叩きつけてくる。
「――ふぅっ」
短く息を吐く。同時に、自身の状態を自覚する。
(呆れたものだ)
疲労の極地。圧倒的な力と死を目前にした、絶体絶命の窮地。それにあってなお、己の身体は沸き立っているらしい。早鐘を打つ鼓動の音が、耳の中でけたたましく鳴り響く。身体中の血が沸騰したように熱く、吐息さえも灼熱をはらんでいる錯覚を覚える。
故郷の地から飛び出したときに、胸に秘めていた炎。それが、今や身体を焼き尽くすほどの熱量と共に、外へ噴き出しているようだ。
「――冒険者ヤマト。極東出身だ」
きっと、黒竜がその言葉を確かめることはできなかったはずだ。
それでも、ヤマトは名乗りの衝動を堪えられなかった。正しく、世界最高峰の強さを持つ相手を目前に、子供じみた興奮が止まらない。
(これは、ヒカルには見せられないな)
今のヒカルからは、ヤマトの背中しか見えていないはずだが、それでも心配になる。
きっと、今の自分は見ていられないような表情を浮かべているはずだ。鬼面のような険しい表情でも、殺人鬼のような愉悦の表情でもない。新しい玩具を与えられた子供のような、純粋な興奮を抑えきれない表情だ。
『―――――』
黒竜が、僅かに身動ぎする。
ヤマトの気炎に当てられてか、その意識は完全にヤマトだけを捉えている。好都合なことにヒカルを眼中から外したようだが、今のヤマトには、それに気づくだけの余裕はない。
特に理屈があるわけでもない。それでも、黒竜もまたヤマトを敵手として認めたのだ。そんな確信が、胸に湧き起こる。
「いざ、尋常に」
刀を正眼の位置へ。右手に力を込め、左手は柄を支えるだけ。
軸が歪んでしまった刀だ。満足のいく斬撃ができるとしても、あと一度が限界。本来なら片手で振るのは困難な太刀だが、ただ一度に限るのならば、不可能ではない。
「――勝負!!」
叫びながら、踏み込む。
今の刀でまともな斬撃を放てるのは、ただ一撃のみ。とは言え、それは長く刀に親しんできたヤマトだから分かることだ。知性のない黒竜に、分かるはずもない。
迎撃のため、黒竜はふるりと柔らかく震える。
刹那、嫌な予感がヤマトの背筋を駆け巡る。
「おおおっ!!」
踏み出した足を、そのまま脇へ逸らす。前へ進む力を、無理矢理に横へ。
自然と体勢の崩れたヤマトの直上を、黒竜の身体が突き抜けていった。掠ってもいない、ただ近くを通りすぎただけだというのに、風圧でヤマトの頬が裂ける。
「くっ!?」
『―――――』
鮮血が溢れるが、気にしている余裕はない。
痛む両腕を無視しながら立ち上がったヤマトは、黒竜が再び突進の構えに入っていると直感する。目視することなく、今度は前転。
グラリと揺れる視界の中、一瞬前までヤマトがいた場所を薙ぎ払う黒竜の身体を垣間見る。
「速すぎる!」
思わず、悪態の声が漏れる。
反撃の糸口が掴めない。ここまで二度回避できたのも、ヤマトが培ってきた武人としての勘があってのことだ。次も回避できる保証など、どこにもない。
思わず脂汗を滲ませたヤマトだったが、黒竜の方の認識は違ったらしい。
『―――――!』
「苛立ってるのか?」
ぐにゃんと形を歪ませながら、黒竜の身体から敵意が溢れ出す。
それを目の当たりにしながら、ヤマトは推測を口に出し、そして恐らく間違っていないことを理解する。
ヤマトというちっぽけな人間を殺すには、あまりに膨大すぎる魔力が蠢く。魔導適性のないヤマトですら、思わずたじろいでしまうほどに、圧倒的すぎる気配。
それでも。
(俺は、笑っている……?)
口元が釣り上がっていることを、遅れて理解する。
いつになく身体に活力が湧き、二本の足で真っ直ぐ大地を踏みしめる。魂から恐怖心が溢れ出すも、それを飲み込むほどの戦意が魂の奥底から湧き起こる。
「ここが正念場だな」
言いながら、ヤマトは右手の刀に意識を集中させる。たった一度だけ放つ渾身の一撃。放つとしたら、ここ以上の場面はあるまい。
そんな認識は、黒竜の方も同様らしい。人の頭ほどの大きさだった身体を、拳大にまで圧縮させる。ゾッとするほどの魔力が結集され、濃密な死の匂いがヤマトの鼻をくすぐった。
「ヤマト! 気をつけて、それは――」
背後でヒカルが何かを口走っている。察するに、ヒカルをあそこまで負傷させたのも、この攻撃だったのかもしれない。
(とは言え、やることは変わらない)
ただ一つ。この攻撃を凌ぐことのみ。
圧縮を続けた黒竜の身体が、ピタッと静止する。
不気味なほどに物音がしない一瞬。
(来る――!!)
刹那、黒竜の身体が爆ぜた。
その一つ一つは豆粒ほどの大きさながらも、全てに必殺の威力を秘めている。それがまとまって飛来する様は、さながらノアの銃撃のようだ。
どれか一つでも掠れば、致命傷は免れない。攻撃全ての軌道を見切り、回避する必要がある。
(見ろ、見ろ見ろ見ろ――活路はどこにある!)
上、右、左、前。そのいずこにも、死が溢れている。
いつになく急速に回る目で辺りを見渡して、活を探る。武に携わり学んだ戦術、数多の実戦を切り抜けた経験、この身に宿る生来の嗅覚、気を結集して強化した視力。その全てを総動員して、生に縋りつく。
(ない、どこにもない!?)
火事場の馬鹿力が成した技か。コマ送りのようになった世界の中で、ヤマトは攻撃の軌道を見定め続ける。
もはや一刻の猶予もない。すぐそこにまで迫った死の気配に、焦燥感ばかりが募る。神がもしもいるというのなら、祈ってやってもいい。この死の弾幕のどこに、活路があるというのか。
「―――――」
チリッと、脳裏が焼けつく感覚。
ぐるっと視界が動き、その一点を捉える。殺意を全面に振りまく黒竜が、ただ一点だけを庇うような動き。不自然な弾幕の薄さ。
(見つけた――!!)
歓喜を感じる間もなく、身体が動く。
弾丸が飛び交う中、僅かに弾幕が薄い場所へ。身体を屈め、襲い来る弾丸の軌道を見切る。この際、身体を掠る弾は無視して、一筋の糸に等しい活路だけを見つめる。
やれることは尽くした。後は、天に祈るばかり。
ダメージに備えて、身体を硬くする。ただ右手に意識を集中させて、来たるはずの反撃のときを待つ。
「―――――ッッッ!?」
衝撃。
鉄塊で殴りつけられたような衝撃が、身体の芯を揺らした。
(耐えろ耐えろ耐えろ――!!)
耳元を掠める弾丸に身をすくませながら、闘志の炎だけは絶やさず燃やし続ける。
見切りが間違っていたのではないか。ほんの偶然で弾が逸れたら。掠めた弾で体勢が崩れたら。
様々な嫌な予想が頭の中を去来し、いたずらにヤマトの胸を騒がせる。躊躇い、臆し、逃げ出そうとする身体を堪え、来るべきときをただひたすらに待つ。待ち続ける。
そして。
(―――止んだ)
遅くなった世界の中、ヤマトはそれを感じる。
濃密な死が通り、背中の先へ抜けていく。目の前に広がっているのは、待望した活路。
(ここだ)
直感する。
右手の刀を握り直し、大上段へ。噴血する身体の悲鳴を黙殺し、全身の力を刀に結集させる。
「死中に活あり――」
目を開く。
先程までの静謐な様子が嘘のように、部屋は瓦解している。その真っ只中に、黒竜の姿はあった。
自らの分身を放った後だからだろう。魔力量こそ変わらないものの、その身体はずいぶんと小さくなっていた。
半透明な黒竜の身体の中に、小さな球体を認める。
(あれは――)
何なのか、咄嗟に答えは出ない。けれど、“それ”を狙えと本能が叫んだ。
大上段の刀に、気を這わせる。脳に描くのは、高すぎる威力ゆえに不可避かつ必殺の一撃。基本を突き詰めた先にある、刀術の極地の一つ。
「奥義――『斬鉄』ッッッ!!」
振り下ろす。
かつてない鋭さの誇った一撃は、見た目に反して鋼のような硬度を誇る黒竜の身体を、容易く斬り裂く。
刃が、黒竜の中にある球体に触れる。
『―――――――!?』
黒竜が魔力を噴出させる。
言葉が通じずとも、それが黒竜の悲鳴なのだとヤマトは直感した。
(斬るッ!!)
ただそれだけを頭に描いて、ヤマトは刃を進ませ――
―――ピシッ!
何かが裂け、砕ける感触。
「………見事」
刀を振り切った体勢から、ヤマトは立ち上がる。
目前にいるのは、身体のほとんどを断ち切られた黒竜の姿。スライム状の部分は真っ二つにされ、核と思しき球体には――刀の切っ先が喰い込んでいた。
溜め息を吐きながら、ヤマトは手の中の刀――正確には、刀だったものを見下ろす。
「届かなかったか」
刀が歪んでなければ、という言い訳はできまい。
ヤマトの手の中にある刀だったものは、柄だけを残して、刃全てを黒竜の体内に置き去りにしていた。対する黒竜の方は、核の半ばまで刃の侵入を許しながらも、切断し切れていない。なおも馬鹿げた魔力を保ったまま、黒々と輝いている。
『―――――』
ギラリと、球が黒く輝く。
同時に、部屋中に散乱していた黒竜の身体の一部が、核の元へ結集する。ヤマトの一撃などなかったかのように、元々の大きさにまで修復していく。
その姿に――正しく自身の全力と、類稀な幸運とを結集させてもなお届かなかった、黒竜の姿に、ヤマトは再び溜め息を吐く。
「こいつは、お前が持っていてくれ」
ある種の清々しい気分と共に、柄だけとなった刀を黒竜の身体へ投げ込む。
核に刃を突き刺した姿のまま、黒竜は柄をも飲み込む。何の確証もないが、きっと黒竜はそれを体内に収め続けるのだろうと、ヤマトには直感できた。
「俺の負けだ。これ以上ない好機に恵まれながらも、俺はお前に刃を届かせることができなかった。――だから」
言いながら、ヤマトは振り返る。
黒竜の攻撃を、勇者としての加護を総動員させて凌ぎ切ったヒカルが、満身創痍ながらも駆けていた。
一分。ちょうどというところか。
「次に会うときがあれば、そのときはお前に至ってみせよう」
「飛ばすよッ!!」
黒竜の身体に、ヒカルの手が触れた。
直後、黒竜の足元に幾何学模様の魔導陣が描き出される。
「この上から離れて!」
ヒカルの声に従い、ヤマトはその場から飛び退る。
魔導陣の上の空間が歪み始める。荒れ果てたこの部屋の光景と、どこかは分からない森の中の光景が混じり、混沌とした絵を描く。
「――転移!!」
叫ぶのと同時に、魔導陣から放たれる光が強まる。
魔導陣の上、不自然に沈黙を保つ黒竜の姿が、徐々にぶれていく。――そして。
「さらばだ」
魔力が爆発し、白い光で視界が埋め尽くされる。
咄嗟に目を閉じたヤマトとヒカルが、恐る恐る目蓋を開いたとき。その場から、黒竜の姿は消失していた。