第96話
「速――!?」
叫びながら、未来視で見えた惨劇を回避するために身体を投げ出す。
直後に、ヒカルがつい先程までいた場所へ黒いスライムが突っ込んだ。その体当たりで白い床が砕け、さながら石の散弾のようになって撒き散らされる。
「うっ!?」
加護の力を引き上げながら、迫る石弾に対して身体を丸める。
直後に、大小様々な瓦礫がヒカルの身体を殴りつけた。ただの突進の余波にすぎないというのに、嵐に呑まれたかのような衝撃だ。
ガードする腕の上からダメージが積み重なり、思わず膝をつきそうになる。次々に襲い来る痛みが、ぼやけていたヒカルの意識を叩き起こす。
(すぐに体勢を立て直さないと――)
石礫の痛みを堪えながら顔を上げたヒカルは、未来視に映った光景に悲鳴を上げそうになる。本能のままに、今度は床へ倒れ込む。
黒いスライムは、倒れ込んだヒカルのすぐ上を通りすぎていく。何の芸もない、愚直そのものを体現するような突進だが、その威力は桁外れと言わざるを得ない。要塞の城壁をもってしても、この打撃を受け止めることは不可能ではないか。そんな気にすらさせられる。
通り抜けた後に、ソニックブームが吹き荒れる。身体を軸ごと殴りつけるような風に構わず立ち上がったヒカルは、今度こそ正面からスライムを睨めつける。
「分かっていたけど、流石に力の差がありすぎるって……!!」
人と魔獣の間には、身体能力に絶対的な差がある。
この大陸で一般に言われている事実だが、勇者として時空の加護を授かったヒカルは、これまでそのことを実感した経験がなかった。アルスの街で出会った竜種ですら、膂力に限ればヒカルの方が上回っていたのだ。
だが、今目の前にいる黒いスライムには、その足元にも及ばないと理解させられる。幾ら加護が強まったところで、ヒカルの身体能力は、この黒いスライムを上回ることはないだろう。
ある意味、この戦いこそが、ヒカルが初めて経験する魔獣討伐と言ってもいいかもしれない。
(――来るッ!)
壁にめり込んだ黒いスライムが、ヒカルの視界の中で、ふるると柔らかく揺れる。同時に、未来視にスライムの突進が映り込む。
とても受け止められる威力ではない。反応できる速度でもない。それでも、未来視の力がある限りは、軌道から逃れることくらいはできる。
再び突っ込んできた黒いスライムを、今度はある程度余裕を持って避ける。
「これなら、やれる……?」
知性を失った魔獣らしく、黒いスライムは淡々と直線的な突進をするばかり。その威力は計り知れないものの、これまでの戦いを潜り抜けたヒカルならば、充分に回避できそうだ。そう思えば、幾分か頭がすっと軽くなったような気がしてくる。焦燥感ばかりが募っていた脳が、ようやく正常な働きを始める。
(とりあえず、避けるだけならできそうかな)
問題は、反撃をする機会が全く訪れないことだ。これが生死を賭けた戦いである以上、相手に攻撃を与えないことには、ヒカルに勝ちの目はない。どこかで、反撃をしなくては。
だが、下手に手を出せば巻き込まれる可能性がある。スライムの突進中を攻撃するというのは、元の世界で言う、最高速度で走るトラックに素手で触れるような行為だ。流石に、自殺行為にすぎる。
「なら、後隙を狙うしかないよね!」
ふるんっと揺れたスライムが、相変わらず一直線に突っ込んでくる。
その軌道から身体を逃しながら、聖剣の刃を背中側へ――スライムが壁に激突するはずの場所へ向ける。
常識外れな威力のソニックブームを撒き散らしながら、スライムはヒカルの脇を貫いていく。その風に耐えながら、未来視が見せた幻覚と寸分違わない場所へ突っ込むスライムの姿を、辛うじて認める。
(取った――!)
突進の勢い余ったスライムが、壁にめり込んでいく。
その黒い身体目掛けて、光をまとわせた聖剣の刃を突き込んだ。
「硬っ!?」
思わず、声が漏れる。
柔らかそうな見た目と動きとは真逆に、聖剣を突き込んだ感触はひどく硬い。壁に縫いつけるどころか、ほんの数ミリ程度しか、刃をめり込ませることができていないのではないか。そんな気にすらさせられる。
凄まじい痺れが腕を走り、ヒカルが涙目になったとき。
黒いスライムが、ぶるっと震えた。
『―――――――!!』
爆発。
仰け反るほどの魔力の奔流に乗って、衝撃波がヒカルの身体を打ちのめす。
(流石に冗談になってないって!!)
心の中で悲鳴を上げながらも、口からは苦悶の声しか漏れ出ない。足が地面から浮き、目も開けていられない。手元にある聖剣の感触だけを頼りに、身体を縮こまらせる。
数秒ほどか、数分か。時間感覚も失せた頃になって、ようやく魔力の嵐が収まったことに気がつく。
「何が……っ!?」
目を開けて、思わず絶句する。
壁に埋まるように姿を隠していた黒いスライムが、ズルリと姿を現す。動きこそ先程までと変わらないものの、その姿から放たれる威圧感は一線を画している。
半ば無理矢理に理解させられる。先程までの戦い方は、遊び半分だった。ただ単調な突進ばかりを繰り返していたのも、ヒカルを敵と認めていなかったからだ。
(早まったかな)
思わず、後悔する。
スライムの動きがヒカルにでも見切れたから、欲が出てしまった。最初は凌ぎ切るだけのつもりだったというのに、上手くやれば倒せるのではないかと考えてしまった。その結果が、これだ。黒いスライムの逆鱗に触れ、圧倒的な威圧に晒されている。
妙なことを考えずに、ひたすら防御に徹していればよかった。手を出すならば、反撃を許さずに一撃で決めきるくらいの覚悟は必要だったのだ。
とは言え、今更後悔したところで遅い。
『―――――』
「見逃しては、くれないよねぇ」
再び、ぶるりと震えて。
黒いスライムが突っ込んできた。
(また突進!? いや――)
未来視に映った光景に、ヒカルは思わず目を剥く。
一発の弾丸の如く突っ込む死の気配が、爆弾のように周囲へ撒き散らされる姿を幻視する。この部屋全体を喰うその攻撃を、避けることなどできはしない。
「やるしかないってことか……!!」
手元の聖剣に力を込める。
やぶれかぶれなヒカルの心に応えてか、聖剣から放たれる光はこれまでにないほどに力強い。それでも、未来視で見えた幻覚を打ち破れるほどには、正直思えない。
それでも。
「行けぇッ!!」
聖剣を振り抜く。その軌跡をなぞるように、力を解放。
気迫と共に放たれた斬撃は、伝説に残る勇者の姿に相応しい威容と共に黒いスライムへ襲いかかる。
未来視の幻覚から外れた瞬間に、その予知は意味をなさなくなっている。
(お願い、行って!!)
思わず祈るヒカルの視線の先で、スライムが小さな球体へと圧縮される。人の頭ほどの大きさだった姿が、拳大へ。その分、体内に秘める魔力が更に濃密になる。――刹那、弾け飛ぶ。
無数の弾丸となって周囲へ撒き散らされる、小さなスライム。その全てに大魔導術に匹敵する威力が秘められており、人の身体なら掠っただけでも重傷になるだろう。
そのスライムの欠片が、ヒカルが放った聖剣の一撃と激突する。
「く……っ!?」
衝撃。
スライムの身体から破裂する魔力の奔流が、聖剣の光と相殺する。
一瞬の均衡。直後に、悟る。
(押し負ける!?)
元来、聖剣に宿る光は魔のものへの特攻性を有している。にも関わらず、黒いスライムの魔力はヒカルが放った斬撃を押し始めている。
つまりは、それだけの力の差があるということ。
「これは、マズいか」
咄嗟に攻撃の手を止め、残った力を守りに注ぎ込む。
直後に、無数の弾丸がヒカルの身体を打ちのめす。光の防壁を越えて、衝撃が貫いていく。
「ぐっ!?」
足が地面から離れ、身体が二転三転する。
視界がめちゃくちゃに掻き乱された中、聖剣の柄が手の中にあることだけが確認できる。
(痛い……)
全身を突き刺すような痛みに、顔をしかめる。思わず涙ぐみそうになるが、この程度の傷で済んだのは、アルスの街で手に入れた聖鎧の守備力あってのことだろう。教会から支給された鉄鎧のままでは、この痛みを感じることなく死んでいたに違いない。
(だけど、先延ばしになっただけかも)
ぼやける視界で辺りを確かめてみれば、再び柔らかそうな動きでにじり寄ってくる黒いスライムが目に入る。既に決着はついたと判断したのだろう。先程までの禍々しい気を引っ込めている。
事実、今のヒカルにはこれ以上の抵抗はできない。体内の魔力は使い果たし、聖剣もその役割を果たし終えたとばかりに、刃の輝きも陰ってしまっている。
正しく、絶体絶命の危機だ。
黒いスライムが迫ってくる。その姿を視界に入れながらも、ヒカルの意識はその後ろ――部屋の外へ続く通路の方へ向いていた。
(やっぱり来るんだね)
元の世界にいた友人たちに似た、黒目黒髪の青年。左腕に血が滲んだ包帯を巻いて痛々しい姿になっているが、その眼光に揺らぎはない。右手に握られた刀の切っ先が、スライムへ向いているのが分かる。
来てくれたことを喜ぶ反面、幾ら彼であってもこの難敵を倒すことはできないという諦観がヒカルの胸をよぎる。それでも、彼ならやってくれるのだろうかという期待が、奥底から湧き起こる。
何はともあれ。
(ひとまず、命拾いしたか)
そのことは確かだろう。
束の間の安堵感に、ヒカルは溜め息を漏らした。