第94話
「――せいっ!!」
「おおっと、危ない危ない」
裂帛の叫びと共に振り抜かれたレレイの拳を、クロは相変わらずおちょくるような調子でひらりひらりと回避している。
不真面目で相手を小馬鹿にするような言動とは裏腹に、クロの動きは非常に高いレベルにまで洗練されている。立場や本人の気質などを考慮しなければ、思わず師事してしまいたくなるほどだ。
(だが、こいつは何故……?)
レレイが体術で接近戦を仕掛け、ノアが後方から銃撃で支援する。
時折、熱くなりすぎる二人を諌めながら、ヤマトは内心で首を傾げていた。
(何故、攻めてこない?)
ヤマトの視線の先には、疲れた様子を微塵も見せずにヘラヘラとしているクロの姿がある。
その手には二振りのナイフが握られているが、ここまでの交錯で、クロはそれを一切振っていなかった。ときに強烈な殺気と共に振りかぶることこそあれども、その全てがフェイントだ。
「ヤマト、気づいている? あいつ、全く攻めるつもりがないよね」
「あぁ。だが、狙いが掴めない」
的確な銃撃を放ちながら、ノアが声を潜めて話しかけてくる。
それに応えながら、ヤマトも頭を悩ませる。
「あいつの狙いは、ここの地下にある魔王の心臓。初代勇者一行が施した封印を解除すること」
「それは既にある程度果たされたはずだ。だが、クロはここで俺たちを待っていた」
思えば、この段階で疑問が浮かんでくる。
ヤマトたちの前に現れた青鬼に、ヒカルたちの前に現れたという赤鬼。彼らは、クロが雇った傭兵のような存在と解釈するのがいい。彼らの役割は、クロが封印を解除するまでの陽動。
(――いや、違うな)
青鬼との別れ際を思い返して、ヤマトは胸中で首を横に振る。
彼らの目的の一つは、確かに聖地の戦力を釘づけにすることだった。だが、更にもう一つ。ヤマトたちを、クロが待ち構える地下へと誘う役目を担っていたはずだ。事実、青鬼が地下へ行くように促さなければ、ヤマトたちは地下に異変を感じつつも、即座にここへやって来るということはなかった。封印を解除したいというクロの目的と照らし合わせれば、その行動は些か道理に合っていないように見える。本来ならば、クロの元から遠ざけるようにするはずだ。
つまり、クロはここにヤマトたちを呼び寄せたことには、別の目的がある。
「目的は何だ?」
「奥にヒカルたちを行かせたっきり、あいつは動こうとしていないよね」
ノアの言葉に、ヤマトの脳内で一つの可能性が導かれる。
「ヒカルを奥へ進ませることが目的か?」
「――あらら、気づいちゃいました?」
二人の間へ、突然クロの声が割り込んでくる。
思わず視線を上げれば、クロはレレイの攻撃を足捌きのみで回避してみせながら、フードの奥から鋭い眼光をヤマトたちの方へ投げかけている。
「ずいぶん余裕そうだな」
「いえ、そんなことはありませんよ? これでも私、かなり手一杯でして」
「吐かせ」
涼しい声でそんなことをのたまうクロに、レレイは渋い表情を浮かべる。
先程はクロの態度に激昂していたレレイも、その激情はひとまず収まったらしい。一度バックステップでクロとの間合いを離しながら、ヤマトたちの方へ視線をやる。
「いやぁ、先程は結構威勢のいい感じに言っちゃいましたけどね? 実は、封印解除というのも楽ではないのですよ」
「まだ封印は解けていないってこと?」
「一応、解いてはいるんですけどね」
さっぱり信用できない話ではあるものの、クロは秘めていた目的について語るつもりらしい。
誰かをヒカルの元まで走らせようかと一瞬逡巡するが、ひとまず話を聞くことを優先する。封印が解かれたのなら、ヒカルの力で再度封印――できなくても、弱体化くらいはするべきだろう。
「初代勇者一行は、魔王を討滅し切れずに封印することにしました。けれど、いつか魔王を討滅する日が来ることを望んでもいたようです」
「……勇者の手によって、ってことか」
「ご明答。魔王の力でも解除できないほどに強固な封印。それでも、勇者の手によってのみ、楽に解除できるようにしたのだとか」
「ヒカルに封印を解除させることが目的?」
そんなノアの言葉に、クロは首を横に振って応える。
「いえいえ。先程も言ったでしょう? 一応、封印は既に解いているんですよ。不完全な形ではありますが」
「不完全だと?」
「えぇ。ほんのちょっとだけ介入できるくらいの、小さな穴を開けただけです」
小さな穴。
クロの言葉が真実だとすれば、今ヤマトが足元から感じている凄まじい邪気も、そこから僅かに漏れ出ている程度のものにすぎないということか。その事実に、ヤマトの背筋をゾクッと冷たいものが走る。
「ただ、皆さんが感じている通り、これだけ目立つものを持ち出すのは無理でしてね? 私も、一計を案じたわけです」
「一計?」
「えぇ。秘められた力自体は絶大ですから、これを解き放ってみようかと」
要領を得ない。
そんな表情を思わず浮かべたヤマトたちを見ながら、クロは言葉を続ける。
「魔王の心臓には絶大な力が宿っています。とは言え、難点が一つ。心臓と言うくらいですから、それ単体で力を発揮することはできないのですよ」
それは、その通りなのだろう。
初代勇者が戦った魔王がどんな姿をしていたかは分からないが、流石に心臓がそれだけで暴れまわるような怪物には思えない。せいぜい、心臓から溢れ出た魔力が周囲に害を及ぼすくらいだろうか。
「ところで、皆さんはスライムという魔獣を――いや、魔物をご存知ですか?」
「なに?」
スライム。無論、ヤマトたちは――というより、大陸の人間ならば誰でも知っているだろう。
どこからともなく現れる、人畜無害な魔獣。本能も知性も欠落したような魔獣で、ただウロウロと道端を放浪している姿がよく目撃されている。その安全性から、一時はペットとして飼育する物好きな人間もいたという話もある。
そのスライムが、いったいどうしたというのか。
「あれは他の魔獣にはない性質を持っていましてね。簡単に言えば、捕食対象の魔力をそのまま取り込むんですよ」
「そんなことが……?」
「もっとも、自身の魔力を上回る魔力を取り込むことはできません。ですから、知らない人がほとんどだと思いますが」
一般に、スライムの魔力は塵同然。生き物であればほぼ全員が上回り、魔力を宿さない獣であっても、スライムよりは多くの魔力を有しているほどだ。
少し考え込む素振りを見せたノアが、次第に険しい表情になっていく。
「極めて魔力の少ないスライムがほとんど。とは言え、何事にも例外というのはありまして」
「まさか……」
「現存する最高レベルのスライム――黒竜は、かの至高の竜種に匹敵する魔力量を持っているそうですよ?」
思わず、ヤマトは自分の耳を疑う。
至高の竜種。かつて竜の里を発見した者が伝えた、大陸に住む最古の竜種のことだ。その威容は並大抵の竜を凌駕し、島一つを沈める程度ならば容易に可能なのだとか。
ザザの島でその片鱗を目の当たりにしたヤマトからすれば、到底信じがたい――否、信じたくない話だ。
「幾ら莫大な魔力を得ようとも、その実態はスライム。食欲に忠実に、大陸を渡り歩くだけの単純な魔物です。――ゆえに、誘い出すのも容易い」
「………っ」
「至高の竜種に匹敵する、魔王の魔力。きっと、彼にすればご馳走にも見えるでしょうねぇ」
クロからすれば、封印をほんの少しだけ解いてやった時点で、目的は果たされたも同然だったということか。
それで生まれた綻びから、心臓の魔力が溢れ出る。その濃密な魔力に惹かれて、黒竜なるスライムがやって来て、魔王の心臓を捕食する。幾ら退魔の聖剣を有するヒカルと言えど、かの至高の竜種に匹敵する存在と渡り合えるとは、流石に思えない。
この場にヒカルを誘い込んだのも、黒竜とヒカルを遭遇させるためだろう。まだ完成には遠いとは言っても、ヒカルの魔力量は相当だ。相対すれば、黒竜はヒカルを喰らおうとするに違いない。
「まずい、すぐにヒカルのところへ――」
焦りを表情に浮かべて、ノアが口を開く。
その直後に、足元で何かが蠢く感覚をヤマトは覚えた。絶えず溢れ出ていた邪気が爆発し、ヤマトたち全員の身体を蝕むような錯覚。膝が勝手に震え、脂汗が背筋を伝って止まらない。
「これは――!?」
「あぁ、封印を開けたみたいですねぇ」
劇を楽しむようなクロの言葉に、思わず苛立ちが込み上げる。
目に殺気を乗せてクロを睨めつければ。クロは手にしていたナイフを仕舞い、降参するように両手を上へ上げるところだった。
「これにて私もお役御免です。さっさと退散するので、皆さんも早く逃げた方がいいですよ?」
「逃さないッ!!」
レレイが踏み込み、固めた拳を振りかぶる。
それを目前にしたクロは、避ける素振りも見せず、優雅に一礼。
「それでは皆さん、ご機嫌よう。また会えることをお祈りしてます」
足をタンッと踏み鳴らす。
その直後に、クロの姿が霞のようになって消え去る。
レレイの振った拳は、真っ直ぐに霞の中を突き、そのまま通り抜けた。
「くっ! 逃した!」
「別にいい! それより、来るぞ!!」
叫ぶヤマトに、レレイは小さく頷く。
足元からは、その凄まじさを増した魔力が感じられる。相変わらず動きはないが、そこにあるだけで身が竦むような威圧感。
それに加えて、もう一つ。今度は頭上から、“何か”が急速に近づいてきてる。魔王の心臓から溢れ出る魔力が可愛く思えるほどの、圧倒的な力強さ。
「これが……!?」
呆気に取られた様子で、ノアが天井を見上げる。
天井がミシリときしむ音が耳に入った。小さな破片が崩れ、鍛錬場全体がグラグラと揺れるような錯覚。
その直後だ。
「―――――!?」
天井を“何か”が突き破り、ヤマトたちの誰もが認められないほどの刹那で、床を突き破って地下へ入り込んだ。
その姿を見たわけではない。だが、僅かに垣間見ただけで、その正体が嫌なほど分かる。
「これが、黒竜……!」