第9話
森の中を歩くことしばらくして。
初めこそは平穏そのものといった雰囲気だった森も、徐々に怪しい雰囲気を醸し出すようになっていた。
奥深くまで入り込むにつれて木々が深く生い茂り、陽の光も差し込まない薄暗さが辺りを包んでいる。相変わらず獣の鳴き声のない静寂が、どんよりと空気をよどませていた。そして、草木の間から流れてくる、鉄錆の臭い。
「……ここか」
緊張した表情のノアも小さく頷く。
背の折れ曲がった低木が重なって、天然の壁のようになった場所がある。葉に隠れて奥の様子は伺えないが、隙間からは一際強い鉄錆の臭いが溢れ出している。心なしか、周囲の空気すらも暗くよどんでいる気すらしてくる。
「私が先に行こう」
勇者ヒカルが声を上げる。確かに、三人の中で最も頑強そうなヒカルが先頭に立つのが合理的だ。
ヒカルが低木を斬り払い、草をかき分けて進んでいく。一歩ごとに強くなる臭いに、思わずヤマトは顔をしかめた。
最後に大きな木を払うと、一気に視界が開けた。
「これは……ッ!?」
こんもりと木々が茂る森の中で、そこは広場のようになっていた。――いや、されていた。
元々生えていたはずの木は根こそぎ倒され、あちらこちらに散乱している。草や土も散々に荒らされ、原型を留めていないほどの有り様だ。そして極めつけに、広場を埋め尽くすほどの、獣の死骸。
魔獣やただの獣の区別もなく、そこにはありとあらゆる生物が死に絶えていた。身体に傷一つ無いままに息絶えたものや、逆に、元の姿が分からないほどにぐちゃぐちゃに潰されたもの。まさしく地獄絵図のような光景。
「ひどいものだな」
むせ返るほどの死臭に、顔をしかめる。
「ヒカル、大丈夫?」
「あ、ああ、問題ない……」
ちらりと二人の様子を伺う。
ノアは顔色を相当悪くはしているが、前後不覚とまではいっていない。どうにか辺りを検分できる程度の余力は残しているようだ。一方のヒカルは、少々問題だと言える。兜で隠していても分かるほどに、気力が落ち込んでいる。ノアが支えてやらなければ、その場で崩れ落ちていたかもしれない。
「ここは俺が調べる。二人は外で待ってろ」
「……分かった、気をつけてね」
ヤマトの意図を察したノアが、ヒカルを連れて広場から離れていく。ヒカルは少し抵抗する素振りを見せたが、明らかに弱々しい。結局、ノアに連れられるまま大人しく去っていった。
その背中を見送ったヤマトは、改めて広場を見渡し、目つきを鋭くする。
「生き残りの気配はなし。付近に魔獣の気配もなしか」
恐らく――いや、間違いなく、ここでの騒動が今回の事件の原因だろう。そして、この惨劇を引き起こした何かは、まだどこかで活動していると考えていい。
「全て打突による傷。刃物の類は使われていないか」
死体に残された傷を検分していく。その全てに、何かに殴られたような傷跡がある。外傷が何もないように見えた死体も、内臓の方はぐちゃぐちゃに崩れてしまっているのが分かる。例えば剣を使ったとしても、こうした傷はできないだろう。得物を使ったとするならば、メイスのような鈍器しかありえない。
脳裏で疑っていた、森の中で出会った『剛剣』を名乗る男について思いを馳せる。彼は見たところ、背に巨大な剣を背負っていたのみで、他に武器を持っているようには見えなかった。となれば、この惨劇を彼が直接引き起こすためには素手で殴る他ない。
「どうやら、外れらしい」
人の拳を遥かに越える大きさの鈍器でなければ、一撃で魔獣の頭を潰すような真似はできない。
頭だけを失って倒れている魔獣の死骸を見やって、密かに溜め息をつく。
気を取り直して死骸を検分していくが、どうにも特徴が掴めない。数体は似通ったやり方で殺されている一方で、全てに共通した殺され方がない。内臓だけを破壊するように殴られたものから、執拗なまでに身体を破壊されたもの。身動きできないように機能を破壊されたものに、一撃で命を絶つように攻撃されたものまで。せいぜい、鈍器で殺られたらしいというくらいしか共通点がない。これでは、主犯格の魔獣の特徴が掴めない。
「………?」
何かが、頭の片隅に引っかかる。
要領を得ない違和感を掴もうと頭を巡らせたところで、ヤマトの肌が一気に粟立った。
「来たか」
いずこからか、草がかき分けられる音が聞こえる。加えて、地面が小さく揺れるような感覚。
それらを確かめたヤマトは、即座にノアたちが消えていった方へ走る。
「――ヤマト!」
「魔獣だ! 戦闘態勢用意!」
そちらの方でも察知していたのか。飛び出してきたヤマトに驚く様子もなく、ノアは静かに腰を落とす。続いて、先程よりも気力を回復した様子のヒカルも、腰元の剣を抜き払う。
ノアの近くに陣取ったヤマトも、腰の刀を抜く。切っ先を地面に向けたまま、耳を澄ませて、気配が迫る方向を探る。
「――右だ!」
ヤマトが叫ぶのと、それが突っ込んでくるのはほぼ同時だった。
ヤマトとノアが咄嗟に飛び退るのに対して、ヒカルはその場に立ち止まったまま右方へ向き直る。
木々をへし折りながら突っ込んできたのは、巨大な熊のような魔獣だ。身の丈は三メートルに近いだろうか。巨躯の額から生えた一本の角が、それが魔獣であることを示していた。血走った目からは正気は感じられず、ゴワゴワの茶色い毛で包まれた身体からは濃厚な血の臭いが漂ってくる。
名はキリングベア。単に殺人熊とも呼ばれ、辺境の地であれば稀に見かけられる魔獣だが、これほどまでに大きくなったキリングベアはそういないだろう。無論、グランダーク周辺で見られたという報告はない。
キリングベアは飛び込んできた勢いのまま、右腕を振り上げる。その拳が向かう先は、ただ一人その場で立ち止まったヒカルだ。
「避けて!」
「ぁああああッッッ!!」
ヒカルは叫びながら、剣を横に構える。華奢な剣の腹でキリングベアの拳を受け止めようというのか。
剣が真っ二つに折られる光景を幻視したヤマトは、そこで繰り広げられた光景に目をむく。
「受け止めたっ!?」
山のようなキリングベアの身体を、大して屈強でもないヒカルが受け止めている。目の方を疑いたくなるような光景に、キリングベアの方も戸惑いを隠せなかったらしい。
力が緩んだ隙を突いて、ヒカルは剣を振り抜く。その勢いに押されてたたらを踏むキリングベアの上体目掛けて、そのまま切り返された剣の刃を滑らせる。傷口こそ浅いが、その一撃は確かにキリングベアの体皮を斬り裂き、鮮血をほとばしらせた。
「……無茶苦茶すぎるよ」
「同意だ」
化け物じみている、という評価を下さざるを得ない。
見るからに体格で劣っているキリングベアに対して、ヒカルは技巧を凝らさず力押しで戦っている。振り抜かれたキリングベアの拳を正面から受け止め、斬撃を防ごうとする腕ごと叩き落とす。どちらが魔獣かも分からなくなるような戦い振りだ。
その壮絶な光景に思わず気を呑まれた二人であったが、すぐに考えを正す。魔獣が自然災害と同様に恐れられているのは、何も圧倒的な身体能力を持つからだけではない。
「攻撃が追いついていないか……!」
「一人でキリングベアと立ち会えるだけで相当なものだ」
攻めと守りの応酬を見れば、押しているのは確実にヒカルだ。キリングベアの攻撃をいなしながら、逆に攻撃を与えることができている。だが現実として、戦況は徐々にではあるが、キリングベアの優勢に傾いている。
そもそもの体力に差がありすぎるのも、原因の一つだろう。だが、それよりも問題なのは、キリングベアが持つ超回復能力だ。
ヒカルが与えた攻撃の全てが、数秒もすれば快癒してしまっている。対するヒカルは、未だに傷らしいものを負ってはいないが、徐々に体力を消耗し始めている。このままでは、戦況が覆るのも時間の問題だろう。
元来、キリングベアには複数人で一気に畳みかける戦い方が推奨されている。単にキリングベアの攻撃をいなすためでもあるのだが、それ以上に、キリングベアの回復能力を上回る攻撃を与える必要があることがその理由だ。
「僕も加勢するよ!」
「ああ、俺も――」
言いかけて、ヤマトはキリングベアがやって来た方へ視線を飛ばす。
一度は収まっていた肌が粟立つ感覚が、再び戻ってきている。加えて、地鳴りのようなものまで聞こえてきた。
「……これは、ちょっとまずいね」
脂汗を流したノアが呟く。
ヒカルに加勢することも忘れて、二人は森の奥を見やる。徐々に地響きが大きくなるのにつれて、それを起こした張本人が姿を現す。――二頭目のキリングベアだ。
一頭目よりは少し小柄だが、額の角はかなり巨大。それだけで一つの凶器と言えるだろう。新しく現れたキリングベアは辺りを睥睨すると、己の存在を誇示するように高らかに遠吠えをした。
「―――――ッッッ」
森全体が震えるような錯覚すら覚える。
遠吠えを終えた後もビリビリと空気が震えているのを感じながら、ヤマトは脂汗で湿った手で刀をもう一度握り直す。
「――ノア」
「なんだい?」
二頭目のキリングベアの視線をひしひしと感じながら、隣で同様に構えているノアに声をかける。
「このまま俺とノアがあいつと戦うのは、少しまずい。それは分かるな?」
「……うん。倒すことはできそうだけど、それじゃあヒカルの方に加勢できない」
実際、ヤマトとノアが二人がかりで戦えば、キリングベア一頭だけを倒すことはそう難しくはない。それなりに冒険者としての経験を積んできたから、キリングベアの行動パターンも大体分かる。動きが分かるのだから、上手く行けば完封すら可能だろう。――だが、それは時間がかかりすぎる。
ここの戦いで肝となるのはヒカルの存在だ。勇者として圧倒的な加護を有しているとは言え、ヒカルは戦いについてはまだ素人同然。彼一人にキリングベアを任せてしまうのは、心もとない。
「なるほど。ヤマトは一人であいつと戦うつもりなんだ」
「察しがよくて助かる」
ヒカルに加勢したノアがキリングベアを倒せればよし。経験を積んだノアが加われば、加護としては最上級のものを持ったヒカルを補佐してキリングベアを倒すくらいは、造作も無いだろう。
ヤマト一人でキリングベアを倒せるとまでは思っていないが、時間稼ぎくらいならばできるはずだ。
「無謀ではないつもりだ」
「……確かに、それがいいかもね」
ノアが横目でヒカルの様子を伺っている。既にかなり消耗し始めているのか、見るからに動きが鈍くなり始めている。
「じゃあこっちは任せる。無理はしないようにね」
「さてな。成り行き次第だろう」
小さく嘆息したノアだったが、すぐに様子を戦闘時のそれに切り替える。ヤマトの背中に隠れ、静かに距離を取っていく。
その気配が十分に離れたことを確認して、ヤマトは深呼吸をする。腹の底に力を込めながら、身体を脱力させる。意識はひたすらに研ぎ澄まし、目のみならず耳や肌も使ってキリングベアの様子を探る。
「――では」
目の前のキリングベアは、まともな力比べではヤマトを上回る存在だ。
そのことを心の中で密かに――歓喜しながら、徐々に思考を削いでいく。ただの人が瞬間の領域へ踏み入るために、感情を惑わし思考を巡らせる余地などない。身体や魂に刻みつけた技を頼りにする他ない。
ヤマトのまとう空気が一変したことを身体で感じ取ったのか、キリングベアの殺気が溢れ出す。技などなく、ただ本能のままに溢れ出した殺気は、濁流のようにヤマトを押し潰そうとする。
獣であれば恐怖せざるを得ない殺気だが、今のヤマトにとっては無いに等しい。その恐怖程度を削げないでは、武人の端くれとはとても呼べまい。
刀は正眼から上段の位置へ。最大の攻撃を最速で放つための構え。
「――いざ、参る!!」