第89話
少し、ときを遡る。
聖地の大聖堂内部。普段は礼拝をするために使われている場所で、ヒカルとリーシャは一人の男と対峙していた。
およそ戦士らしくない痩躯の青年は、顔面は憤怒の表情を浮かべた鬼の仮面で覆い隠していた。腰元には、二人の仲間であるヤマトのものと似通っている、極東由来の長刀が下げられている。健康状態が不安になるほどの痩身だが、その身体から放たれる威圧は、並みの魔獣では比較できないほどに強烈だ。
そんな青年――赤鬼と相対するヒカルとリーシャの姿からは、余裕が感じられない。ビリビリと空気が震えるほどの殺気を前にして、リーシャは額に脂汗を滲ませる。
(いったい何なの、この強さは!?)
赤鬼は、その身体能力を見れば、加護で強化されているヒカルは無論、聖騎士リーシャにも及ばない程度のものでしかない。その身に宿している魔力も皆無に近く、ろくな魔導術を使うこともできない。
にも関わらず、戦況は赤鬼が圧倒的に優勢であった。二人がかりで仕掛けるヒカルとリーシャに対して、一切動じることなく、ただ刀術のみで抗する。
「――もう終いか?」
腹の底から込み上げる恐怖に、足が竦む。
そんな二人の様子に気がついていたのか、赤鬼は仮面の奥から冷たい声を放つ。激情を露わにする仮面とは裏腹に、赤鬼本人の性質は、ゾッとするほどに冷徹だった。
「戦意が失せたのならば、消えてもらおうか」
「………っ! 行かせない!」
赤鬼の迫力に呑まれかけていた心を、リーシャは叱咤する。萎えかけていた腕に力を入れ直し、長剣の刃を真っ直ぐ赤鬼へ向ける。
リーシャの精神を支えてくれているのは、聖騎士としての責任感と、仲間のヤマトたちが今も戦っているはずだという推測だ。彼らが戦っているのに、自分が先に倒れてしまうわけにはいかない。そんな負けん気が、折れそうな心をギリギリのところで奮い立たせてくれる。
その思いは、ヒカルの方も同様なのだろう。兜の奥から動揺を漏らすことなく、毅然とした態度で赤鬼に聖剣を向けている。
「リーシャ。全力を出すよ」
「それは……」
赤鬼に聞こえないよう、小さな声でヒカルから告げられた言葉に、リーシャは一瞬だけ考え、頷く。
「それしか、ありませんか」
「うん。正直、それでも難しいと思うけど」
勇者ヒカルが素で発揮する身体強化に、経験豊富なリーシャの援護。これがあれば、並大抵の襲撃者を退けられるという自負があった。
だが、それはつい先程に打ち砕かれてしまった。
(悔しいけど、それしか……!!)
血が滲むほどに唇を噛み締める。
口の中に苦い味が広がるのを自覚しながら、道を譲るようにリーシャは後ろへ一歩下がった。入れ替わりで、ヒカルが前へ出る。
「ほう?」
「ここからは手加減はできない。死ぬ覚悟をしてもらおうか」
レレイとの模擬試合のときには、全力に近い力を出しながらも、死には至らないように加減する余裕があった。その理性のブレーキを外して、正真正銘全力で戦おうという宣言。
それを受けた赤鬼は、仮面の奥からクツクツと愉快そうに笑い声を上げる。
「クククッ! それこそ本望というもの。死を間近にしなければ、戦場とは呼べまい?」
「ふんっ」
文字通りの死闘を目前にして、臆するどころか高揚する始末。
戦狂いのような赤鬼の姿に、ヒカルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「後悔するなよ――」
(来るッ!!)
リーシャが確信する直後に、ヒカルの姿がぶれた。
時空の加護の一つ、瞬間移動。文字通り瞬間的に赤鬼の背後へ立ったヒカルは、聖剣を頭上に掲げている。
「ふんっ!!」
「『柳枝』」
剛剣。
一直線に振り下ろされた聖剣を目前にして、赤鬼は鞘を盾にするように掲げる。とてもヒカルの一撃を防げるとは思えない、極めて普通な木製の鞘。
鞘ごと脳天から真っ二つになる赤鬼を幻視したリーシャは、直後の光景に目を剥いた。
「捌いたっ!?」
傍目から見て、これ以上に奇妙な光景があるだろうか。
岩をも砕くほどの剛剣が、赤鬼の鞘に触れた瞬間に、ぐにゃりと軌道を曲げたのだ。赤鬼本人の身体を一切傷つけることできずに、聖剣が空を斬る。
縦一文字に振っていたはずの剣が、真横へ通り抜けていく。異様としか思えない現象を前にして、ヒカルの動きが一瞬硬直する。
「二の太刀――『竜尾』」
完璧にいなしたとは言え、ヒカルの振った一撃の威力は、まだ赤鬼に伝わっていたらしい。
衝撃で上体を泳がせた赤鬼は、そのまま身体を一回転。先の剛撃の威力をも乗せて、鞭のようにしなる腕から回転斬りが放たれる。
固まっていたヒカルは、未来視で真っ二つにされる自分を幻視したのだろう。再び瞬間移動を行使して、赤鬼の必殺の間合いから逃れる。
「はぁっ、はぁ――っ」
「避けたか」
赤鬼とリーシャの間に転移したヒカルは、兜の奥から漏れ聞こえるほどに、荒く息を吐く。
必殺のカウンターを回避された赤鬼の方は、少しも動じた様子はなく、ゆらりと刀を構え直す。
(む、無茶苦茶でしょ!?)
カウンターの一撃に秘められた威力もさることながら、リーシャが目をつけているのは、ヒカルの奇襲を完璧に受け流してみせた技――『柳枝』の方だ。
理屈は、盾使いが常用するパリングと同様のものだろう。硬質な防具で攻撃を一瞬だけ受け止め、任意の方向へ衝撃を逸らす。だが、赤鬼が見せてみた『柳枝』は、あまりにその精度が高すぎる。加えて、ヒカルの奇襲は間違いなく成功していた。その証拠に、赤鬼の視線は寸前までヒカルの場所を捉えられていなかった。だから、咄嗟の判断であれだけの高度な真似をしてみせたことになる。
これが意味するところは。
(生半端な攻撃は、全部受け流される……!?)
リーシャの頬を冷や汗が流れる。
先のヒカルの一撃も、決して生温い一撃ではなかった。指導したリーシャも頷けるほどに、その刃は高レベルで完成されていた。――なのに、受け流された。
これでは、迂闊に手出しすることもできない。少なくとも先の一撃を上回る攻撃でなければ、全て赤鬼が対処できると示されたようなものだ。
そのことを理解しているから、ヒカルも今や身動きが取れなくなっている。
なら、自分の役割は何か。
「ヒカル様! 支援します!」
「―――! 分かった!」
声をかけながら、体内の魔力を練り上げる。魔導術の用意。
ヒカルはその時間を稼ぐように、赤鬼の前へ躍り出る。攻撃を加えることではなく、リーシャの魔導術完成までの時間稼ぎが目的。
「ふむ」
対する赤鬼は、迫るヒカルに目もくれず、ジッとリーシャの方を見やる。
――嫌な予感。
「どこを見ている!」
「そう焦ることはない」
ゆらりと幻惑するような足取りで、赤鬼はヒカルとの間合いを離す。視線は常に、リーシャを捉えている。
クルクルと舞いながら、赤鬼は納刀。居合斬りのような体勢に入り、遠く離れたリーシャに向き直る。
「いったい何を――」
「いざ、『疾風』」
目を疑うリーシャの遥か先で、赤鬼は抜刀。
直後に、無数の鎌鼬が赤鬼の斬撃をなぞるように、リーシャ目掛けて殺到する。
「なぁっ!?」
視界を埋め尽くすほど広範囲に放たれた鎌鼬を前に、即座に回避の選択肢を捨てる。
展開中だった魔導術を書き換えて、発動。
「『障壁』ッ!」
間一髪で、魔導術『障壁』が間に合う。
半透明な壁がリーシャとヒカルの前に展開されて、風の刃を受け止める。
(厚さは充分、受け止めることはできるはず!)
一撃ごとに『障壁』が削れる感覚はあるが、防御力重視で組み上げた術だ。そう易々と破壊はされない。
思わず安堵の息を零しそうになったリーシャの背筋を、氷のような恐怖が駆ける。
「奥義――『神風』」
直感に衝き動かされるがままに、身体を『障壁』の範囲外へ飛ばす。
鎌鼬が身体を斬り裂き、鋭い痛みが全身を包む。――その直後。つい先程までリーシャがいたところを、巨大な刃が斬り裂いた。
「嘘――!?」
まるで紙を裂くが如く、その斬撃は『障壁』を斬り、礼拝堂の床を断つ。
鎌鼬の嵐が収まった後に、視線を上げれば、目を疑うような光景が広がっていた。
ずいぶんと離れたところにいる赤鬼から、リーシャが『障壁』を張っていたところまで、一直線に深い亀裂が刻まれている。まるで神話に登場する一撃のような、あまりに規格外な一撃だ。
(もし、あれを避けていなかったら――)
背筋がゾッとする。恐怖で足が震えて、手から剣が滑り落ちそうになる。
魔導術を駆使したとしても、リーシャではこの一撃を再現することはできない。聖剣の力を解放したヒカルならば、もしかしたらというレベルだろうか。
思わず無言になるリーシャとヒカルに対して、赤鬼は何事もなかったかのように、刀を素振りしながら体勢を元通りにする。
「ふむ、少々見くびっていたようだ。戦を知らぬ未熟者かと思いきや、存外に思い切ったこともできたらしい」
「……それはどうも」
今更ながら、全身の裂傷から痛みを感じる。
致命的な傷にはなっていないが、絶えず身体から血が流れ出ているような状況だ。すぐに手当てしなければ、出血多量で命に障るかもしれない。――それでも、『神風』なる斬撃を喰らうことに比べれば、百倍もマシな結果だっただろう。
密かに治癒の魔導術を用意しながら、リーシャは必死に頭を回す。
(どうする!? いったいどうしたら、ここを切り抜けられる!?)
既に、勝利の目は潰えているように見える。
ヤマトとノアが加勢してくれたならば、まだこの状況を引っ繰り返せるかもしれない。負傷中のレレイでもいい。リーシャの魔導術で応急処置を施せば、ヒカルと連携して赤鬼と戦えたはずだ。今更ながら、レレイを医務室に半ば監禁するように押し込んできたことが悔やまれる。
焦れば焦るほどに、思考が空回りする。ろくな結論を出すことなく、ただひたすらに焦りばかりが積み重なっていく。それはヒカルも同様らしく、赤鬼の姿を油断なく見つめながら、身動きが取れていない。
目をグルグルと回していたリーシャとヒカルの前で、赤鬼が「ふむ」と頷き、刀を鞘に収める。
「………? いったい何の真似ですか」
「惜しいが、ここで任務完了だ。俺は退散させてもらうとしよう」
その言葉に、リーシャは自分の耳を疑う。
「退散……? なぜ!?」
「元より、俺に与えられた任はここに居座ることのみ」
「つまり、時間稼ぎか」
兜の奥から、ヒカルが苦々しい声を漏らす。
表で暴れている侵入者の存在には気がついていたから、こっそり忍び入っていた赤鬼こそが、侵入者の本命なのだとばかり思っていた。
表の侵入者も、青鬼も陽動。では、本命はどこにいるのか。
「お前たちの目的は何だ」
「守秘義務はないが、積極的に明かす趣味もない。だが、そうだな」
言葉を続けながら、赤鬼は細い指で地面を示す。
「軽い誘導はしろという指令だ。――地下に行け。そこに、真相は眠る」
「地下……?」
言われて、リーシャは聖地の見取り図を思い浮かべる。
地上部分に大聖堂が座して、聖職者や騎士たちが生活する居住区などが広がる聖地。地下には、リーシャたち聖騎士が利用する鍛錬場があるだけのはず。
「ではな、勇者に聖騎士。なかなか楽しい時間だったぞ」
考え込んだリーシャとヒカルに対して、赤鬼はくるりと背を向ける。
咄嗟に追いすがろうとしたリーシャたちに対して、「次会うときは、更に腕を上げておけ」という言葉だけを残し。赤鬼は忽然とその場から姿を消した。