第79話
細身の剣を手に相対していた黒髪の冒険者――ヤマトの雰囲気が、突如変貌を遂げた。
多少腕に覚えがある様子であり、事実、その剣の腕前は聖騎士第二席たる自分に迫るほどではあった。それでも、技工や駆け引きの面ではまだ利があるとリーシャは踏んでいたのだが。
(これは……っ!?)
瞳の奥に確かな炎を秘めている以外に、特徴のない面のように無愛想な男。嘘や誤魔化しの類はしない、よく言えば誠実そうな――悪く言えば頑固そうな人物だとは思えたが、それ以外に特筆すべきところも見当たらない、至って平凡な者だったはずだ。
それが、今やその面影すらない。
北地に存在するという、絶対零度の氷。それを思わせるほどに表情から感情が抜け落ち、見ただけで思わず背筋が凍りつくような無表情を保っている。ハイライトすら失った瞳でリーシャを凝視する姿は、現世への恨みを募らせた幽鬼を思わせるほどに虚ろだ。唯一、全身から放たれる生々しい殺気ばかりが、ヤマトという存在を明確に浮かび上がらせている。
「なるほど。流石は勇者様と同行した者というわけですか」
とても人とは思えない。鬼が乗り移ったのだと言われた方が、今のヤマトの姿は納得できるだろう。
無自覚にじっとりと滲み出ていた脂汗を自覚しながら、リーシャは剣を構え直す。
(魔力に変化はない。ただ、気配が変わっただけ?)
自然と気圧されていた自分を叱咤する。気を抜けば震えそうになる腹に力を込めて、キッとヤマトを睨み返す。
あまりに急激な気配の変化に戸惑ったが、魔力自体に変動は見られない。つまり、身体能力までもが変化したわけではないということだ。
「あなたの動きは既に見切っています。何をしようと、無駄ですよ」
言いながら、リーシャはそんな発言をしている自分に驚かされる。自覚していた以上に、変貌したヤマトの雰囲気に自分は気を呑まれているらしい。
密かに歯噛みする。
「シ――ッ!!」
リーシャの視界の中で、ヤマトが踏み出した。
思わず感嘆するほどの、鋭い踏み込み。並の戦士なら――否、ここにいる聖騎士の多くですら、その速度に反応することは難しいだろう。気がついたときには既に肉薄され、一本を取られる。
「だが、まだ遅いっ!」
間合いが近ければ、リーシャとて危うかっただろう。だが、対処するために充分な間合い維持はできている。踏み込み一つで詰ませられるような位置ではない。
一歩下がりつつ、手にした剣の切っ先をヤマトの胸元へ向ける。リーシャの必殺の間合いの、一歩手前。
それ以上踏み込めば詰み。それを悟ったヤマトが足を止め――ない。
「なっ!?」
驚愕する思考とは裏腹に、鍛え抜いた身体は勝手に動いてくれる。
必殺の間合いへ入り込んだヤマト目掛けて、刃を突き出す。今更回避しようとしたところで、既に遅い。瞬く間に伸びた刃はヤマトの胸元へ吸い込まれ、そのまま――
「―――!?」
胸中で嫌な予感が爆発する。咄嗟に、突き入れようとしていた剣を引き戻した。
直後、リーシャの鼻先を一陣の閃光が駆け抜けた。
「避けたか」
何が起きたのかが判断できないままに、バックステップで一気に間合いを離す。
すぐにヤマトとの距離が五メートルほどにまで広がる。それを確認した直後に、かつてないほどに早鐘を打つ心臓と、全身から溢れる脂汗を自覚した。
「今のは……」
「勘がいいな。おかげで斬り損ねた」
言いながら、ヤマトはレレイが持つ剣を指さした。
やはり、先程のはヤマトの斬撃。少しでも判断が遅れていれば、この剣の刃を斬り落としたということか。
(無茶苦茶すぎるでしょ!?)
鋼鉄の剣で鋼鉄を断つ。
リーシャもその技を使うことは可能だろうが、あくまでも、静止した状態の鋼鉄の鎧を斬れるというレベルに留まる。リーシャの研鑽が不足していると言うより、それが普通だろう。幾ら斬れ味に優れた得物を握ったところで、それは変わらない。
つまるところ、それほどにヤマトが高度な剣術を修めているのだ。
(しかも、あの速さ……)
身体の動き自体は、特に速くなってはいない。確かに大陸の武人の中でも屈指の速度だろうが、それでも、人が反応できる程度の速さでしかなかった。
だが、斬撃の速さは別だ。刀を振る予備動作から硬直まで、あまりに速すぎてリーシャの意識にも残っていない。気がついたときには斬撃だけが走り抜けて、ヤマトは平然とした佇まいで刀を携えているのだ。
(これは、認めないとだめかな)
そう心の中で呟いてしまえば、すっと感情にも落ち着きが戻る。
「お見事です。もう、試合はこのくらいでいいでしょう」
「どういうことだ?」
「あなたの剣術は素晴らしい。きっと、私では太刀打ちできないほどに」
少なくとも、ヤマトが放ってみせた斬撃と同程度のものを、リーシャも放つ自信はなかった。
その一点だけを見ても、ヤマトの剣技が卓越しているのは明確だ。
「教皇様、これで構いませんか」
「えぇ。彼の実力は充分以上に伝わりましたから。ご苦労さまでしたね」
試合中に鍛錬場へ降りてきていたらしい教皇へ、リーシャは恭しく頭を下げる。
ひとまず、これでヤマトの実力を確かめるという目的は達せられたわけだ。これ以上の試合をする意味は薄い。
「……そうか」
その言葉と同時に、ヤマトの顔が能面を貼りつけたような無表情から、元々のむっつりとした無愛想なものへ戻る。全身から滲み出ていた殺気も収まり、手にしていた刀も鞘へ収めた。
殺気の重圧がなくなったことに、思わず深い息を吐く。
「見事な腕前だった」
「いや、そちらこそ。正直、想定以上でした」
教皇は何事かを勇者ヒカルに話しているらしい。ヤマトの同行者である少女二人も、ヒカルの傍でその話を聞いている様子だ。
手持ち無沙汰になったらしいヤマトの言葉に、ヒカルは首肯を返す。
「次があれば、全力で戦ってほしいところだ」
「………それは……」
思わず、言葉に詰まる。
「俺が剣士だと聞いていたから、それに合わせたのだろう? そのことに何か言うつもりはないが、次があれば、な」
「……そうですか」
「噂の聖剣術とやらも、まだお目にかかれていない。楽しみだ」
その言葉に、リーシャは苦虫を噛み潰したような表情になる。
純粋な剣士であるヤマトを相手に、全力を出して戦ったわけではないのは事実だ。実戦であったならば、遠距離から延々と魔導を撃ち続ければ、ヤマトを詰ませることは容易に思える。その戦法を採用しなかったのは、ヤマトの実力を測るという趣旨から逸脱してしまうからだ。
そして、もう一つ。聖剣術についてだが。
(流石に言えないか)
かつての聖騎士を体現する剣技であり、大陸全土で恐れられる所以ともなった力。
未だに聖騎士の代名詞と言えるほどに有名な剣術だが、実際のところ、その使い手はただ一人を残して失われてしまったということは。そしてその一人も、他ならぬ教会自身の手によって、遥か遠くの地へ左遷されてしまっていることも。
(……微妙に気が重いなぁ)
無愛想ながらも、ヤマトの表情の機微は少しだけ分かるようになってきた。今の彼が、期待感で胸を膨らませていることも、自然と伝わる。
教会と聖騎士の実態はそう立派なものではないという真実と、それを告げるわけにはいかないという規則に苛まれて。リーシャの胸中を、罪悪感にも似た黒い感情がチクチクと刺していた。
◇◇◇◇◇
辺りに広がるのは、聖地の名に相応しいのどかな風景だ。雄大な山脈が連なり、その下になだらかな平原が広がる。圧倒的な存在感を放ちながら、荘厳な大聖堂がそびえ立つ。
それを、人気のない駅からボンヤリと眺めながら、黒ローブで全身を覆い隠した男――クロは、面倒臭そうに溜め息を漏らした。
「やれやれ。これは完全に外れを引かされましたねぇ」
魔王軍の隠密として与えられた部下たちからの報告で、今の聖地に誰がいるのかを、クロは正確に把握している。
すなわち、数ヶ月前からずっと滞在している勇者ヒカルに加えて、彼と共に二つの事件を解決した冒険者がいるという情報を、既に掴んでいる。
「大聖堂勤めの神官多数に、それを守護する聖騎士多数。加えて希望の星たる勇者に、彼を支える冒険者二名が加わって。なかなか戦力差が絶望的だと思いませんか?」
問いかけるようなクロの言葉に反応して、駅のホームに突如として二人の人影が現れる。
「獲物が多いというのは、結構なことだ。歯応えがあるならば、なおよし」
「そっちはあまり期待できなさそうかな? ここ数年、騎士団の質は落ちる一方みたいだし」
一人は、鬼面を被った武者だ。仮面から除く黒髪や黄色がかった肌、そして腰元の長刀から、彼が極東の生まれであることが伺える。憤怒の表情を浮かべた赤鬼を模した力強い面とは裏腹に、本人の身体つきは華奢で、武人と言うよりも文学青年の方が似合うような有り様だ。
もう一人は、鬼面を被った騎士と言うべきだろうか。絹地のように滑らかな金髪と白い肌から、彼が大陸の生まれだと分かる。騎士が被っている鬼面は、武者が被っている鬼面とは真逆に、悲哀の表情を浮かべた青鬼を模している。彼も華奢な体躯ではあるが、武者よりも幾分か頑強そうな身体つきではある。
赤鬼と青鬼の仮面を被った二人の男に向けて、クロはニヤニヤとした笑みが浮かびそうな声で問う。
「確かに、最近の聖騎士は酷いらしいですねぇ。他方で、勇者殿は活躍目覚ましいのだとか。自信はいかほどですか?」
最初に、赤鬼の武者が感情をまったく揺るがさずに、ふっと息を漏らした。
「強ければ強いほどいい」
「答えになってませんよそれ」
「誰が相手だろうと、仕事分は働く」
「そうですか。では心配はいらなさそうですねぇ」
続けて、青鬼の騎士は肩をすくめながら応える。
「聖剣と聖鎧を手にしていると聞いてるから、そう楽観視はできなさそうだよね」
「へえ。では、自信はありませんか?」
「勇者が完璧に自分の力を使いこなせているなら。ただ、あいつらに従っているってことは、それはないのかな」
「なら大丈夫そうですか。これは頼もしい」
未だ活動を本格化していない魔王軍内部でも、既に勇者ヒカルに恐怖する者が現れ始めている。無理もない、第五騎士団団長バルサを撃破したのみならず、成竜の単独撃破にも成功した逸材だ。だが、その恐怖が許されるのは一兵卒まで。隊長格まで恐怖してしまうのは、情けないと言う他にない。
それと比べれば、目の前の二人の何と頼もしいことか。
「今回の作戦はお二人の活躍にかかっていますからね。私に楽させてくださいね」
「言ったはずだ。依頼分は働く」
「僕の方はちょっと個人的な事情もあるからね。依頼分に少しおまけした分くらい働こうかな」
無人の駅ではなく、人混みの中で繰り広げても違和感ないくらいには、緊張感に欠けた会話だ。武者と騎士の二人からも、そのまま街へ遊びに出てしまいそうな気楽さを感じる。
だが、クロはそのことを特に咎めたりはしない。
(こんな緩い方たちですが、紛れもない凄腕ですからねぇ)
表世界のみならず裏社会でも名の知られていない、無名の傭兵二人。最近になって魔王軍に雇われた新参者だ。
だが、その実力は一般の枠組みからは遥かに逸脱している。一国の騎士団長どころか、魔王軍の騎士団長に迫るほどだ。その事実を、クロは誰よりも深く知っている。なにせ、二人はクロの――。
(まぁ、それはいいとして)
思考を切り替えて、クロは眼前に広がる聖地を――正確には、聖地の地面を眺める。
「ここが聖地で、初代勇者の友たる騎士が祝福を授けた場所ですか。笑えますよねぇ」
本当に、笑うしかない。
この地に渦巻くのは聖騎士の祝福などではなく、―――の呪詛なのだから。
「ふふふっ! ここにも嵐が吹きそうですねぇ」
聖地の山々を抜ける風を身体で感じながら。
クロは口端を上げ、三日月のような曲線を描いた。