第73話
嵐が吹き荒れていたことなど想像もできないような、雲一つない青空が広がっている。
ジリジリと照りつける太陽の光に汗を滲ませながら、ヤマトとノアは広大な海を眺めていた。
「平和だねぇ」
「そうだな」
本当に、数日前までは島全体を巻き込む決戦が行われていたなどとは露にも思えない、平和な光景だ。
海の波風も穏やか。その水面にはつい先程完成したばかりの船が浮かべられ、何か不備が生じていないか、船員たちが駆け回っている。とは言え、彼らの表情も穏やかそのものであり、仮に問題があったとしても、笑って対処してくれそうな安心感を覚える。
一応は忙しく働いている船員の男たちに対して、村人たちは手持ち無沙汰な様子で彼らの働きぶりを眺めている。名目上は護衛役なはずだが、こうも人が多い場所に現れる魔獣は滅多にいない。やることもなく、実際に暇なのだろう。
「今のところ、問題はなさそうだね」
「順調なのはいいことだ」
「魔獣の駆除もできたし、航路もひとまず確保できた。となれば、後は出航を待つだけか」
無論、ノアが言うほどに容易な道のりではないだろう。何事も起きない航海であったとしても、そこに付随する苦労は相当なものになる。ひとまず船員たちの手によって修繕が施されたとしても、結局急ごしらえなことに変わりはないから、問題が起きないと考えるのは楽観的すぎる。
それでも。
予期せぬ嵐と魔獣の襲撃に見舞われ、命の危険に晒された。船は原型を留めぬほどに大破し、原住民が住むばかりの名も知らぬ島へ漂着。そんな絶望的な状況から、ここまで持ち直すことができたのだ。心が浮き立つとしても、無理のない話であろう。
(かく言う俺自身も、か)
半ば傍観者のように彼らを眺めていたヤマトだったが、自身にもその気があることを自覚する。
きっかけは、竜の姿を解放したアオに競り勝てたことだろうか。あれを勝利と言っていいのかは少し疑問の残るところではあるが、一つの区切りになったことに違いはない。
「出航がいつになるかは決まっているのか?」
「今日の点検で問題がなかったら、今日明日で荷物の積み込みをして、明後日に出航かな」
「また退屈な日が続くか」
「ここにずっといるよりはマシでしょ。そろそろ、ヒカルの方も気になるし」
それは、確かにその通りだ。
アルスの騒動からヒカルと別れて、既に一月ほどが経過している。帰りの航海が順調に進んだとしても、アルスに到着するのは更に一ヶ月後になるか。
およそ二ヶ月の空白期間。ヒカルはまず聖地へ行っているという話だったが、今はどうしているのだろうか。ヤマトたちがアルスに着く頃には、新しい勇者の武具を回収し終えているかもしれない。
「今頃何してるかなぁ?」
「さて。俺たちは、どこに勇者の武具があるかも知らないからな」
「面白そうな場所だといいよねぇ」
ノアの言葉に、ヤマトも思わず首肯する。
大陸は広い。西方に広がる砂漠地帯に、北方へ続く絶対零度の地。東方へは異文化と呼ぶに相応しい街並みが立ち並び、他にも人が立ち入ることのできないほどに険しい山脈地帯もある。今いるザザの島も秘境の一つと言っていい地だったが、それに劣らぬ秘境はまだまだ存在するのだ。
「何やら面白そうな話をしているな」
「あぁ、レレイ」
船員たちの護衛集団を視察していたレレイが、ヤマトたちの方へ歩み寄ってくる。
彼女も、今回の戦いの功労者の一人だ。レレイの助太刀がなければ、ヤマトとノアではアオを相手に勝ちを拾うことはできなかっただろう。
「護衛の方はもういいの?」
「あぁ。もっとも、私の目はもう必要ないようだがな」
その言葉に、ヤマトとノアは納得の頷きを返す。
個々が独立していた印象の強いザザの村人たちだったが、海の魔獣との激戦を経て、一つの共同体としての意識が芽生えたらしい。そして、その旗頭として皆に認められているのが、戦いの陣頭指揮を取っていたゴズヌだ。元々は島でも一番貧弱な者だったという話だったが、大陸での経験が彼を一端の男に育て上げたらしい。魔獣の襲撃にも臆さず、仲間を鼓舞しながら奮闘した姿に、村人全員が信頼を置くようになったのだとか。
かつては、ただ家が集まっているだけという風情だった村において、ゴズヌは村長のような役回りをこなしている。水竜の巫女として頭領の真似事をしていたレレイが、その役割から退いていることも、それを助長していると言う。
そんなレレイだが、村人たちを複雑な思いを秘めた目で眺めた後、何かの決意を固めるように息を吐いた。
「ゴズヌは立派になったな」
「……まあ、そうなのかな」
確かに、村人たちから頼られ、拙い言葉ながらも彼らを鼓舞するゴズヌの姿は、初めて出会ったときとは大きく違っているように見える。
ゴズヌとのつき合いが浅いヤマトとノアですら、そう思えるのだ。幼少期のゴズヌを知るレレイからすれば、その感慨はひとしおなのかもしれない。
「あいつに言われてしまった。私は、外へ出たがっているとな」
「それは……」
「誤魔化したりはしない。確かに、私は外の世界へ出てみたい」
だが、それは叶わない願いだ。
水竜の巫女として、島の奥地に眠る鏡を守護するという契約を祖先に結ばれたレレイには、この島から出ることは許されない。出ようとしても、契約の強制力で引き戻されてしまう。
そのことを聞かされているから、ヤマトは何も言えない。ただ、腰元の刀を密かに握るだけだ。
(やはり、やるしか――?)
覚えのある気配が現れる。
一瞬だけ剣気を解放しようとして、即座に中断する。
「またお前か」
「あらら、やっぱり気づいたんだ」
銀色の髪に華奢な体躯。東洋風の着物をまとった男。
人の姿を取っていたときのアオに瓜二つでありながら、確かに別人物だと思えるほどの気配をまとっている。
「あなたは……」
「僕のこともとりあえずアオって呼んでよ。あいつはしばらく、こっちに顔は出せないようにしてるから」
その言葉に、ヤマトは無言で鼻を鳴らす。
嵐の日、ヤマトたちが戦ったアオの正体は、かつてアルスの近隣一帯を守護していた成竜だった。最後にヤマトの刀で顔面を斬り、勝負は決着したのだが、流石は竜種と言うべきか。顔中を血飛沫で赤く染めながらも、少し経った頃には意識を取り戻したのだ。
怒りのままに暴れ回ろうとしたアオを止めたのが、目の前の男。どう見ても人間そのものだというのに、その身体一つで暴走するアオを押さえ込んでしまい、そのままどこかへと連れ去ってしまった。
竜種だったアオと瓜二つの力。それでいて、成竜のアオを遥かに上回る力を持ち、この島の事情にも精通した様子の言動。
(こいつは、まさか――)
ヤマトの胸中に一つの疑念が生まれる。が、それは口には出さないでおく。
「それで。何の用だ」
「ちょっと面白そうな話が聞こえたから。あと、言わなくちゃいけないことがあって」
また胡散臭い予言でもするつもりなのか。
ノアと密かに目を見合わせて、ヤマトは顔をしかめる。
「そう嫌そうな顔はしないでよ。そう大層なことでもないんだし」
「なら何だ」
「この島には久々に来たけど、もう役割が果たせる状態でもないみたいだからね。昔の約束は、もういいかなって」
「………そうか」
ノアは不可解そうに首を傾げているが、レレイは何かに思いが至ったのだろう。ギョッとしたような目つきで男を見つめている。
ヤマトとしても、その心境はレレイと同じだ。加えれば、こいつはもう正体を隠すつもりも失せたのかという思いもあるのだが。
「だが、なぜ急にそんなことを?」
「言ったじゃん、もう役割を果たせなさそうだって。放っておいてもよかったんだけど、そしたら怖いお兄さんが何か壊しそうだったから」
「ほう」
思わず、刀の柄から手を離す。
そんなヤマトの様子にニヤリと笑みを浮かべながら、男はくるりと踵を返す。
「それじゃあ僕はこの辺で。気をつけて帰りなよ」
「余計なお世話だ」
何事もなかったかのように、スタスタと男は森の中へ消えていく。
その背中を見送ったヤマトは、レレイがどこか上の空な様子でいることに気がつく。
「昔の約束、役割が果たせない……? それは――」
「レレイ。一つ、提案がある」
言いながら、ノアの方に視線を向ける。
突然現れた男に訝しげであったノアだが、ヤマトの方を見ると、小さな笑みをたたえながら頷いてくれた。
ならば、もう懸念はない。
「提案? いったい何だ?」
「俺たちと一緒に、外へ出てみないか」
「………それは……」
嬉しさと戸惑いが入り混じった表情で、レレイはヤマトの顔を見る。
「だが、だな。それは」
「障害があるならば、俺が斬る。この島を放っておけないというわけでもないのだろう?」
「昔の約束は撤回するらしいからな」と小声でつけ加える。
「……迷惑ではないか?」
「迷惑なものか。気心の知れる仲間が増えるのは、いいことだ」
「ずいぶん情熱的だね」と小声で揶揄するノアは、爪先を踏み抜いて黙らせる。
しばらく黙ったまま迷っていた様子のレレイだったが、ヤマトの目を覗き込んで、それが本気であることを気づかされたようだ。やがて、諦めたように溜め息を吐く。
「ヤマトたちも、あいつと同じことを言うのだな」
「あいつ?」
「ゴズヌだ。村は任せて、私は外へ出てこいとな」
どことなく嬉しそうに、レレイはそれを教えてくれる。
「最後に確認するぞ、本当にいいんだな? 私はこの島しか知らない世間知らずだ。きっとヤマトたちには迷惑をかけ続ける。途中で飽きて捨てようとしても、無理矢理にでもついていくぞ?」
その言葉に、思わず吹き出しそうになる。
隠しきれない笑みを覗かせながら、ヤマトはノアと共に頷き合う。答えなど、最初から一つに決まっている。
「望むところだ」
「歓迎するよ。一緒に大陸を見て回ろう」
「……そうか」
年貢の納め時か。
それを確信したレレイは、一瞬だけ俯いた後、気を取り直したように顔を上げる。その表情に戸惑いの色はなく、固い決意の色ばかりが浮かんでいた。
「ならば、お願いしよう。私をここから連れ出してくれ」
それを皮切りに、三人の表情に笑顔が浮かんだ。
空は果てしなく青く透き通り、新たな旅立ちを祝福するように暖かな陽射しを降らせる。
確かな絆を感じさせる三人を見つめるように、穏やかな波が水面を揺らす海を、青い竜が静かに泳ぎ去っていった。