第72話
「ぐ……っ」
全身を打ちつける雨の感覚に、落ちかけていた意識が浮上させられる。
口に入り込む泥の味に顔をしかめながら、ヤマトは痛む身体を起こした。
記憶の最後に映っているのは、アオは途方もない威圧を放ちながら叫んでいる光景。気か魔力かは分からないが、何かが解き放たれてヤマトたちを吹き飛ばしたことは分かる。
(叫ぶ行為がトリガーになっているのか?)
思えば、グランダークで対峙したバルサも、クロからもたらされた宝石で変貌する際に叫び声を上げ、その魔力を爆発的に上昇させていた。
気も魔力も、人の精神なる不可思議なものと密接に関わっている。ならば、意気を高揚させる行為をトリガーとするという解釈は、それほど無理あるものではないのかもしれない。
(試すのは、後にするべきか)
今は、やるべきことがある。
刀は手元に残っている。その刃も歪んでいない。身体は痛むものの、動きは鈍っていない。――問題はない。
「ヤマト! 無事か!?」
「レレイか。ひとまずはな」
見れば、レレイも身体中を泥で汚しながらも、ひとまず傷らしい傷を負ってはいないらしい。そのことを目で確かめられて、ヤマトは安堵の溜め息を吐く。
「……ノアも無事か」
「分かるのか?」
「あぁ、気配がある」
雨に紛れているから分かりづらくはあるが、確かにその存在は感じられる。ともすれば戦線が崩壊したかのような状況の中で、ヤマトたちの無事を信じ、己の役割に徹したことには頼もしさも覚える。
こちら側の被害は軽微。せいぜい、ヤマトとレレイが打撲傷を負った程度だ。
(だが、まだ喜ぶには早いな)
戦いはまだ終わっていないのだから。
改めて表情を引き締めて、眼前の敵――更なる変貌を遂げようとするアオの姿を見据える。
出会ったときには、人の姿を取っていた。銀色の髪と華奢な身体つきから醸し出される雰囲気は幻想的で、まるで深窓の令嬢ならぬ貴公子の如き風体だった。そんな儚げな印象とは裏腹な身体能力を見せつけられたが、それでも、まだ人なのだと理解できる範疇を越えてはいなかった。
続けて、先程までの姿に変貌する。さながらリザードマンのような青い鱗を全身にまとった筋骨隆々の姿は、人の形を取っていたときの儚い空気とは正反対の、力強く荒々しい空気を感じさせた。その風貌の変化に比例するように跳ね上がった身体能力は、銃撃を発砲から着弾の僅かな間で反応し、手で掴んでみせるという人間離れした技さえも可能にさせた。そんなアオに一太刀入れられたのは、アオ自身の慢心と、レレイとノアの支援があってこそ、辛うじて成し遂げられたことだ。
そして、今ヤマトたちの目の前にいるアオの姿は。
『―――――ッッッ』
「……竜?」
「そんなまさか」という思いを乗せて、レレイが呟いた。
ヤマトとしても、できればそんなレレイに同意したいところであったが、アオの姿は確かに竜の名が相応しいものへ変じようとしていた。
両足のみならず両手をも地面につき、低い唸り声を上げている。全身に紫色の稲光を駆け巡らせながら、アオの姿は徐々に巨大に、屈強に変化していく。筋肉がメリメリッと音を立てて膨張し、身にまとっていた着物を裂く。背中からは透明な翼が出現し、徐々にその色合いを鮮やかなものへ。口端から覗かせていた牙さえも徐々に強靭なものになっていき、眼光からも理性が失われていく。身体の変貌に伴って、その身から放たれた魔力の濃度もまた跳ね上がる。
人であった頃の名残を捨てて、その姿を完全に魔獣のそれへ。
「これは、参ったね」
ノアが肩をすくめながら、ヤマトたちの傍に不意に現れる。
流石に手持ちの魔導銃では竜鱗を貫けないと判断したようだ。リザードマンに似た第二形態のときでさえ、その鱗を貫くことができずに苦労していたのだから、更に強靭な身体へ変身を遂げた今、その判断も無理ないと言えよう。目や喉奥などの急所を狙撃することができれば、手傷を負わせることも可能かもしれないが――逆に言えば、手傷を負わせる程度で留まってしまうのだ。
かく言うヤマトも、竜の姿に変じたアオへ有効打を与えられるかと言えば、少々疑問の残るところではあった。
「手立てはあるのか?」
「なくはない、というところか」
「望み薄ってことね……」
レレイは無言のまま顔をしかめ、ノアは疲れたような溜め息を吐く。
刀が届く間合いにさえ入れば、『斬鉄』で斬ることは可能だろう。幾らアオの鱗が硬く強靭なものになろうとも、現実に存在するものである限りは、この刀で斬るという自信はある。ゆえに、問題はどのようにして刀の間合いへ入るかに集約される。
正直に言えば、絶望的だ。
(だが、それでいい)
腹の奥底から闘志が湧き上がってくる。全身を熱い血が駆け巡り、興奮で意識が冴え渡る。
(惜しむらくは、奴に理性が失われたことか)
先程までのアオは完全に理性を保っていた。戦闘経験の浅さこそ伺える他方で、ヤマトたちの連携を喰い破ろうと手を打つ策謀が感じられた。
だが、今の姿はどうだろう。強大すぎる力の代償なのか、理性が吹き飛んでしまっているように見える。これでは、魔獣を相手取るのと何ら変わりない。対魔獣ならば対魔獣で面白さはあるが、先程までと同じ相手だと思うと、調子は狂う。
さてどうしたものかと頭を悩ませたヤマトだったが、ふと覚えのある気配が近寄ってくることに気がつく。
「お前は――」
「相変わらずいい勘してるね。僕に気がつくなんて」
ヤマトに遅れて、レレイとノアもその声の主に気がつく。そちらへ目を向けて、二人共驚いたように目を見開いた。
「やはり、お前は奴とは別人だったか」
「まあね。分かりやすかったでしょ?」
「そうだな」
やや投げやりに頷きながら、ヤマトはその声の主を改めて観察する。
大陸の東方でよく見られる着物を身にまとった、銀髪の青年だ。得体の知れなさすら感じさせる飄々とした態度を取り、荒れ狂う大嵐の中にいるにも関わらず、その男の周りにだけは雨も風も入り込んでいないような錯覚に襲われる。
その青年の姿は、アオが人の姿を取っていたときのものに瓜二つ。むしろ、同一人物だと言われた方が納得できそうなほど。
ヤマトとノアが村の散策をしたときに出会い、不可思議な言葉を残して消えていった男。明らかに村人に受け入れられているアオとは異なる雰囲気を放ちながらも、その風貌自体は瓜二つで、浅からぬ事情が察せられた。
「何の用だ」
「ふふっ。どうやら君たちは、もう僕の期待以上の働きをしてくれたからね。そろそろ休んでいいよって言いに来たって感じかな」
「お前は、何を言っている」
あからさまに上から目線な物言いは、レレイの琴線に触れたらしい。不可思議なものを見るような目つきから一転して、ひどく険のある視線を男へ向ける。
敵意を剥き出しにしたレレイの様子に、男は気分を害するどころか、どこか慈しむような視線を返す。
「言葉通りの意味さ。君はいなかったから分からないだろうけど、僕は二人にある予言をした。嵐が来るってね」
「嵐……?」
呟き、レレイは辺りを見渡す。確かに、一面気が遠くなるほどに激しい雷雨に見舞われている。
「あぁ嵐さ。嵐が島を襲い、巫女が危機に晒される。だから、何とかしてみせろってね」
「それで。俺たちはお前のお眼鏡に適ったというわけか」
「その通り」
頷き、今にも拍手をし始めそうな雰囲気になる。
ここが戦場であったことを忘れさせるような、呑気極まりない態度だ。これが常人であったならば、戦場の空気に当てられて気が狂ったかと心配するところだが、この男にとっては違うのだろう。きっと、ここはもはや戦場ではなくなった。
現に、先程まで息を呑むほどの威圧感を放っていたアオは、自らと瓜二つな姿をした青年の登場に惑い、対処に悩まされているようだ。青年から放たれた理解不能な雰囲気に呑まれているのかもしれない。
ヤマトの推測が正しければ、それも無理ないことだと思われる。
「あいつは僕の手下みたいなものでね。この結界の中で何ができるのか見物してたんだけど、もう打ち止めみたいだから。幕を引こうかなって」
「……ほぅ」
言っていることの全てを正確に理解できたわけではない。
結界というのは、アオも言っていた、アオの力を制御する原因とも言えるものだろう。島の奥地に眠る古代遺跡か、はたまた古の契約かが生み出したものだと推測できるが、正確なところは分からない。アオの力が打ち止めだとも言っているが、ヤマトたちからすれば、今のアオから感じられる並々ならぬ力は、相当な脅威になるほどのものでもある。
竜の姿を変じたアオのみならず、目の前の男からも、尋常ではない雰囲気が感じられる。ヤマトのような一般人に等しい冒険者が立ち入っていい領域ではないのかもしれない。
それでも、一つだけ気にかかることがあった。
「手を引け、と言いたいのか」
「あぁ、そうさ」
表情を崩さないまま、男が頷く。
ヤマトの言葉に含まれた険に、小首を傾げるレレイに対して、ノアは諦めたような溜め息を吐く。
刀を握る手に力を入れ直す。腕を持ち上げ、刀の刃を一点に――男の顔へ向ける。
「……何のつもりだい?」
「分かるはずだ。――余計な水を差すな」
言いながら、本気の殺気を叩きつける。
ここからが正念場。竜としての力のおよそ全てを解放したアオへ、死力を尽くして挑む戦が始まろうというのだ。
それを、ここで打ち止めだと? これまで全く出てこなかった他人に、せっかくの舞台を台無しにされると言うのか。――冗談ではない。
「必要ならば、貴様から斬るぞ」
虚仮ではない。本気だ。
叩きつけられた殺気からそれを実感したのだろう。男は飄々とした態度を崩して、心なしか不機嫌そうにヤマトを睨めつける。
「ずいぶんと威勢がいいな」
「退くならば早くしろ」
レレイとノアが固唾を呑んで見守る中。
不機嫌そうに眉をひそめた男だったが、やがて溜め息を漏らす。
「強情な人間だ」
言いながらも、この場は譲るという意思を表明するように、男は一歩退く。
「ならば見せてみろ。その言葉が、ただの強がりではないというところを」
「無論だ」
降りしきる雨の中、ヤマトは変身を終えたアオと対峙する。
「―――」
『―――』
相変わらず、人の身では足元にも及ばないのではないかと思わせるほどの力を感じる。その吐息一つで大気が震え、身動ぎだけで風が起こる。神話に出てくるに相応しい、圧倒的なまでの威容。
だが、なぜだろうか。想定していたよりも、心が恐怖を叫ばない。
「――あぁ、そうか」
刀の切っ先をアオの額へ向けた途端に、疑問が氷解する。
なぜ、溢れるほどの力を放つアオに恐怖心が湧かないのか。
「お前、アルスを守護していた竜か」
『―――――――ッッッ!!』
その言葉に、理性を失っていたはずのアオが激昂した。
天空に大地も裂けよというほどの怒号。辺りを魔力を伴った猛風が吹き抜け、一瞬だけだが嵐を吹き飛ばす。
それを全身で受け止めながらも、ヤマトは身動ぎ一つしない。堂々たる構えで、静かにアオの様子を伺うばかりだ。
「その姿、確かに見覚えがある。あのときは結局、お前と刃を交えることは叶わなかったが――」
アルスでの騒動の折には、ヒカルが竜――アオを単騎で撃退してしまった。その武勇には誇らしい気持ちになる一方で、一人の冒険者であり武人である身としては、戦いに参加できなかった口惜しさも感じていたのだ。
ならば、今はそれを晴らす好機と言えよう。
(相手にとって不足はなし)
先に分析した通り、ヤマトでは――人間の身では、規格外を体現するような竜種に打ち勝つことは難しい。身体能力のみならず、魔導適性を始めとするおよそ全ての分野で、人は竜に大きく劣っている。
それでも、不可能ではない。
竜の鱗がいかに強固であろうとも、斬り捨てる自信はある。ならば、あとは刀の間合いへ入るのみ。
(ぶっつけ本番にはなるが――)
時間はあった。既に戦術は組み立てている。
島に来てからしばらく、手探りの状態で鍛錬を続ける日をすごしてきた。その成果が問われると言って、過言ではないだろう。
ヤマトとアオとの間に緊迫した空気が流れる。人の身から放たれる剣気に威圧されたか、圧倒的に優位なはずのアオは、油断ない目つきでヤマトを睨めつけている。その敵愾心に満ちた視線を心地よく思いながら、ヤマトは一歩踏み出した。
「奥義――」
刀を上段へ。
まだまだ刀の間合いには遠い位置から、『斬鉄』の一歩手前の構えに入る。
傍から見れば不可解な光景であっただろう。到底届きそうにない攻撃を前に、それでも何かを感じたのか、アオが咄嗟に後退ろうとする。
(――遅いッ!!)
二歩目を繰り出す。その刹那に、身体を巡る気を爆発させた。
『―――ッ!?』
到底技と言うには及ばないほどの、荒削りで稚拙な歩法。ただ身体の気を無理矢理に爆発させただけの、幼稚極まりない技。故郷の師が見たならば、呆れ混じりの溜め息を漏らされてしまうだろう。
だが、今はそれで充分だ。
先程まで散々対峙していたのが仇となったか。アオの予想を遥かに上回る速度で、ヤマトは肉薄する。アオが気がついたときには既に刀の間合いへ入り、『斬鉄』のモーションに入っている。
回避不可能。
即座にその結果を導いたアオは、退く選択肢を即座に捨て、その強靭な牙を剥いてヤマトへ襲いかかろうとする。最悪、刺し違えてでもヤマトを仕留めようという殺意。
(敵ながら見事かな)
思わず、その胆気に感嘆する。さりとて、剣筋を乱すような真似はしない。
反撃をしようというのならば、それすらも斬ってみせよう。
「――『斬鉄』ッッッ!!」
振り切る。
嵐の雷雨すらも置き去りにして、研ぎ澄まされた斬撃がアオの顔面を奔った。
牙を剥いていたアオは、その殺意の片鱗すらも感じさせないほどの穏やかな瞳でヤマトを見下ろす。
数秒にも、数十秒にも思える時間が流れる。
やがてヤマトの耳に雨音が戻るのと同時に、ヤマトは残心を解き、刀を鞘へ収める。アオの額に一筋の傷が浮かび上がり、ジワリと血が滲み始める。
『………』
「見事だ」
ポツリとヤマトが呟いたのを聞き届けるようにして。
アオは斬撃痕から赤い血を噴き出しながら、どうっとその場に倒れ伏した。