第70話
雷雨の中へ紛れ込むように、気配を薄めながら駆ける。
(この戦い、主役はノアにあるか)
忸怩たる思いとは一歩離れた客観的な視点から、ヤマトはその結論を下す。
アオの力は強大だ。それこそ、ヤマト一人では手も足も出ないで敗北することが容易に想像できるほどに。その最たる原因には、アオの尋常ではない身体能力もさることながら、まるで前兆を伺わせない魔導行使にある。ただボーッと突っ立っているだけの状態から、ヤマトを追い詰めるだけの魔導を容易に行使してくるのだ。
ヤマトとて魔導士と戦った経験はあるが、これほどに卓越した力を持つ者と対峙した経験は少ない。息を吸うように大魔導に匹敵する技を繰り出すアオと、どのように戦えばいいのか。見当もつかない。
「―――ッ!!」
息を吐く。それと同時に、アオの意識の間隙を縫うように、一気に踏み込む。
アオがヤマトの接近に気がついたときには、既に遅い。アオの胴は既に刀の間合いにあり、到底避けられるような状況ではない。
胴を捻り、刀を横薙ぎに払おうとして――飛び退った。直後に、ヤマトがいた場所を土の杭が地面からせり上がり、貫く。
「くっ!」
ヤマトの中で焦りが募る。
魔導でヤマトの攻撃を迎撃してみせたアオだが、その意識は依然としてノアにばかり向けられている。まるで、ヤマトの攻撃など気にする必要もないと言っているかのような傲慢。事実として、ヤマトの斬撃のことごとくが、咄嗟に放たれた魔導で退けられているのだから、忸怩たる思いが増すというものだ。
一度間合いを離す。刀は届かず、魔導行使も見てから対処可能な距離。刀を鞘に収め、重心を落とす。
何かを悟ったのか、アオがふっとヤマトの方へ視線を向けた。
「奥義――『疾風』!」
抜刀。同時に、刀に気がまとわりつき、放たれる感覚。
鋭い斬撃と気が無数の鎌鼬を生み出し、豪雨を切り裂きながらアオへ殺到する。さしものアオも、『疾風』を無視することはできなかったのか、目を剥きながら片腕を上げた。
「上がれ」
その一言と共に、『疾風』をアオから遮るように、ぬかるんだ土砂が一枚の壁のようにそびえ立つ。強度はそれほど高くないようだが、鎌鼬一つ一つの威力も大して高くはない。無数の斬撃痕を残しながら、全ての鎌鼬が受け止められた。
奥義と言うべき技を片手間で防がれたことに、うんざりとした気分になる。だが、ここで立ち止まっている暇はない。
「―――っ!」
銃声。
ヤマトが作り出した一瞬の隙目掛けて、ノアの射撃がアオを狙う。
人間離れした反射神経をもってしても、銃撃に魔導で応じることは困難らしい。アオは身体を捻って射撃を避けると、続け様に放たれた銃弾を防ぐため、二枚目の土壁を生み出した。
(好機っ!)
これで、土壁二枚がアオの前に立った。すなわち、アオの視界が遮られた。
すかさず駆け寄ったヤマトは、振り切っていた刀を大上段へ掲げる。気が身体を巡り、その斬撃を補うべく身体強化をもたらすことを自覚。
「『斬鉄』ッ!」
「なっ!?」
斬り下ろし、続け様に横薙ぎへ。
我ながら惚れ惚れするほどの斬撃が、アオの生み出した土壁二枚を斬り捨てる。それで制御できなくなったらしく、大量の泥になって崩れた。
少し間を離したところに、アオの姿がある。この状況は流石に想定していなかったのか、驚愕で目を見開いている。
「シ――っ」
気迫の声と共に踏み込む。同時に、発砲音。
咄嗟に反応して銃弾を避けたアオ目掛けて、刀の切っ先を真っ直ぐに向ける。
「ふっ!」
渾身の刺突。必中の確信と共に放ったその一撃は、狙いと寸分違わずアオの腰に吸い込まれる。直後に、まるで鋼に刀を打ちつけたかのような硬い感触が返ってくる。
肉を裂き、血を噴き出させる。その光景を幻視したヤマトだったが、目の前の現実に息を呑んだ。アオの服を斬り裂いた刀の刃だったが、その肌を貫くことができず、表面で止められてしまっている。
「な、ん……!?」
「この、下等生物がぁっ!!」
激情を露わにしたアオの前蹴りを、為す術なく腹に喰らう。
肺から空気が吐き出され、息が詰まる。足が地面から離れて、浮遊感が全身を包んだ。
「ヤマトっ!?」
レレイの叫び声が耳に届く。やけに声が近く聞こえるなと、場違いなほど呑気な感慨が浮かぶ。
直後、身体が地面へ叩きつけられた。
その衝撃で、喉が詰まったように呼吸ができなかった肺が再起する。雨まじりの空気が肺へ入り込み、全身にそれを運んでいく。叩きつけられた背中が痛むが、それに構わず必死に空気を吸い込む。
「ぐ、はぁっ……!」
「ヤマト! 大丈夫か!?」
目尻に涙を滲ませたレレイが、顔を覗き込んでくる。
息を荒げながらもそれに首肯したヤマトは、ゆっくりと身体を起き上がらせる。
(二十メートル、か)
それは、今ヤマトがいる場所とアオとの間の距離。
それほどの距離を、蹴り一つで大の大人が吹き飛ばされた。そのことに改めて驚愕するのと同時に、未だ立ち上がれることに感謝する。きっと、アオも狙いを定めずに放った蹴りだから、充分な力が入っていなかったのだろう。
痛みと衝撃で小刻みに震える膝を殴りつける。どうにか立ち上がり、視線を上げてアオの様子を伺う。
「………?」
咄嗟に、アオが何をしているのかが分からなかった。
雨に身を打たれるに任せて、呆然と立ち尽くしているように見える。いや、よく見れば小声で何事かをブツブツと呟いているようでもある。言いようのない不気味さを覚えながら、刀を再び構える。
「やはり、斬れていないか」
アオの立ち姿に、そのことを確認する。
せっかくの好機を活かしきれなかったことや、まるで鋼のような硬さの身体には思うところもあるが、そうと分かればそれなりの対応をするだけだ。初撃こそ不意をつかれたが、もう同じ誤ちは繰り返さない。
雨の中に身を潜ませながらヤマトの様子を伺っていたノアへ、片手を振って応える。まだ蹴りを直接受けた腹部は痛むものの、それ以外は何ともない。動きにも支障はきたさないだろう。
「ヤマト。ここからは私も加わろう」
「もう体の調子はいいのか?」
「本調子とまでは言わないが、多少の手助けはできるはずだ」
今のレレイを戦列に加えることは躊躇われたが、規格外にもほどがあるアオの力を前に、猫の手も借りたい状況なのは確かだ。
小さく首肯すれば、レレイは満足気に「うむ」と頷き返す。
ヤマトたちが見つめる中、ブツブツと不気味に呟き続けていたアオが、ふっと顔を上げた。その表情には、先程までの超然とした様子はかなり影を潜めており、ヤマトとノアに対して憎悪にも似た憤怒の色を浮かべていた。
「ずいぶんと怒っているな」
「どうやら、こいつの一撃が気に入らなかったらしい」
手元の刀をゆらりと揺らす。
硬質なものに思い切り叩きつけてしまったが、運よく、刀が歪むようなことはなかった。多少の用心は必要だろうが、おおよそ普段通りに使えるだろう。
冗談めかしたヤマトの言葉が気に障ったのか、アオの視線が一層キツくなる。
「貴様……」
「俺たちは戦いをしている。その程度で怒るのは、筋が違うだろう」
「生意気な」
言いながら、まるで演説をするようにアオは両手を広げる。
魔力を使っている気配はない。何をするつもりなのか、読めない。それはノアも同様らしく、雨の中で銃を構えながら、ひとまず静観に徹するようだ。
「貴様ら下等生物が、私の前に立つことすら分不相応。だと言うのに、よもや私に刃を突き立てようとするとは。――万死に値するッ!!」
「無茶苦茶なことを言う。ならば、防いでみせれば――」
「口を慎めぇッ!!」
その怒気を孕んだ一喝で、辺りの雨がまとめて吹き飛ばされたような錯覚が生じる。ビリビリと空気が震え、耳の奥がキーンと高鳴る。
思わず口をつぐんだヤマトへ満足気に笑い、アオは再び口を開いた。
「だが、私は慈悲深い。私の威光を感じ、すぐにひれ伏すのであれば、その魂は救ってやろう」
「お断りだ」
「フハハッ! そう焦るな――」
言いながら、アオは天を仰ぐ。両腕を大きく広げ、全身で雨を受け止めるような体勢。
「忌々しい結界も、既にその力を弱まらせている。もはや、私の宿願は成ったも同然」
「何を言っている」
「そこで見ていろ」
「―――!?」
直後、アオを中心として辺りの空気が唐突に渦を巻き始める。それはまるで、天を貫く竜巻のようだ。
吹き荒れる突風に身を屈ませながら、ヤマトはアオから目を離さない。ノアが咄嗟に銃を撃ったようだが、弾丸は甲高い音を立ててアオから弾かれた。
「未だ不完全。なれど、私の威を貴様らに示すには充分であろう」
「こいつっ!?」
「恐れ慄けッ! そして、ひれ伏すがいいッ!!」
瞬く間にその強さを増した風に包まれて、アオの姿が見えなくなる。
同時に、竜巻の中から莫大な魔力が立ち昇るのを感じる。嫌な予感に本能が警鐘を鳴らすものの、強すぎる風で身動きが取れない。体勢が崩れないよう、身を屈ませるので精一杯だ。
見ていることしかできないヤマトたちの前で、竜巻が爆ぜた。
「ぐぅっ!?」
「いったい何が――!!」
身体が吹き飛ばされるほどの暴風が雨滴と共に吹き抜け、目を開くこともできない。あまりの風に、辺りの音すらもかき消される。
数秒か、数十秒か。時間の感覚も失せた頃になって、辺りの風が収まり始めるのを感じた。
風で滅多打ちにされた身体が悲鳴を上げる。それを黙殺して、ヤマトは目を開き――ある種の納得と共に、息を呑んだ。
「お前は……」
その姿は、傍目からはリザードマンに酷似しているだろう。すなわち、人型になったトカゲだ。
背丈も先程までのアオと寸分違わず、多少屈強な身体つきになっていること以外に特筆すべき点もない。全身から青い鱗が生え、瞳は金色。魔獣同然の姿をしながらも、その目には理性が宿っているように見えた。東洋の着物にも似た衣をまだまとっているからか、妙な気品も感じる。
率直に見るならば、理性を保ったリザードマンだろうか。その身に宿った威風は圧巻の一言に尽きるものの、外見だけはリザードマンに相違ない。
だが、ヤマトはその立ち姿を見て、別のものを想起した。
「なるほど、竜が人の姿を真似られるとはな。初めて見たぞ」
竜。
世界に蔓延る生物の中でも最高峰の能力を持ち、生態系の頂点に立つと言っても過言ではない存在。その繁殖力の低さという欠点さえなかったならば、世界は竜で満ち溢れていただろう。
竜と言えば、先日のアルスの騒動でヒカルに単騎討伐されていた姿が記憶に新しい。だが、あれはヒカルが規格外すぎたという事情も見なければならない。事実、あのときにヒカルの代わりに立っていたのがヤマトだったならば、為す術なく殺されるのが関の山だっただろう。
「そんな、竜が……」
「レレイの力を取り込めたことには、それが関係していそうだな」
アオから放たれる威圧に気圧されないよう、気を張りながらヤマトは言葉を続ける。
「いかなるカラクリかは知らないが、竜由来の力だから、お前はそれを喰うことができた」
「フハハッ、いい目をしているではないか」
普通に考えれば、絶望的な状況。
竜を相手に戦って生還を望めるのは、それこそ一握りの実力者だけだ。それ以外は、どうすることもできずに死を待つのみ。
「確かに、全力のお前を倒すのは難しそうだが」
「ほう?」
面白がるようにクツクツと喉を鳴らすアオに向けて、ヤマトは刀の切っ先を向ける。
「まだ全力には至らないのだろう? ならば、やりようはある」
アオは“忌々しい結界”と言っていた。恐らくは、それがアオが全力を出せない原因。
そんな結界があるとは全く知らなかったが、きっと、レレイが語ってくれた古の契約か、島の奥地に眠る古代遺跡が関係しているのだろう。
ともあれ、重要なのはそれがもたらした結果のみ。アオは竜としての力を十全に使うことはできないという点だけだ。
「まだ勝てるつもりでいるのか?」
「無論だ」
「クククッ! 無知というのはあまりにも罪深いな……!!」
途端に、アオの身体から放たれた威風がヤマトの身体を殴りつける。
生物としての格を思い知らせるような威圧に、身体が縮こまりそうになる。――だが、それまで。
「下らないことをする」
強敵を前にした、そのことに燃え盛る魂の熱は、未だ留まるところを知らない。むしろ、アオが力を解放したことにより、より一層の激しさを増しているほどだ。
引くつもりはない。
そんなヤマトの思いを感じたのか、アオもすっと目を細める。
「気に入らんな」
「知ったことではない」
背後のレレイと、気配を薄めているノアの戦意も上々。
そのことに薄く笑みを浮かべながら、ヤマトは再び刀を強く握り締めた。