第69話
身体を殴りつけるような嵐の中、ヤマトは駆け続ける。
荷物のように片腕で担ぎ上げられたノアも、最初は抵抗するように身をよじっていたものの、既に諦めたように、だらりと身体から力を抜いている。
「それで? いったいどうしたのさ」
「むっ」
ジトッと湿度の高い視線を至近距離から浴びせられて、ヤマトは思わずたじろぐ。脇に抱えていたノアの身体を下ろせば、ノアは身体をグッと伸ばしながら辺りを見渡す。
「レレイが連れ去られた。これから連れ戻しに行く」
「さっきの騒ぎはそういうことか」
ノアが言っているのは、リザードマンとの戦いの最中で突然起こった出来事のこと。
明らかに異質な気配をまとった“何か”が、戦いの隙間を縫うようにレレイへ迫り、そのまま何処かへと連れ去ってしまった。それ以外の被害は何もないから、“何か”がレレイのみを標的としていたことが分かる。
チラリと見かけたときの尋常でない速さから察するに、既に手遅れとなっている可能性もある。だが、だからと言って大人しく待っている道理はない。
見つけるのが早ければ早いほどいい。そのことを理解したノアが、視線で行き先を訪ねてくる。すっと指で示せば、そちらに向けて駆け始める。
「それで、犯人の特徴は?」
「……遠目でしか見ていないからな」
レレイが連れ去られた現場――異質な気配を放ちながら駆け抜ける“何か”を見たとき、ヤマトはなぜか「青い竜」を“何か”の影に見た。落ち着いて振り返ってみても、竜と思しき特徴は何も見られなかったから、きっと幻覚の類なのだろう。だが、無性に気にかかる。
「大きさは俺たちと変わらない。だが、速さは相当なものだった」
「どのくらい?」
「レレイと同等か、それ以上か」
「それは凄いね」
そのくらいの速さがなければ、尋常ではない戦士のレレイを連れ去ることなどできないだろうが。
先日、早朝に組み手をしたときや魔獣と遭遇したときのレレイの姿を思い起こす。その常人離れした速度は、身体能力を見れば自然界でも有数なはずの魔獣が、追いすがることもできないほど。傍から見ていたヤマトに、「気」を使った達人の身体強化を想起させるほどのものだった。
そして、“何か”はその速さを上回っている。
「じゃあ僕の役目は、その足を止めることか」
「話が早くて助かる」
自らの未熟を認めるようで癪だが、ヤマトでは“何か”と対峙したとき、その速さを前に手も足も出ないで終わってしまうだろう。レレイと相対したときですら、その速さへの対処にかなり苦労させられたのだ。その想像は容易い。
だが、ノアであれば話は別だ。幾ら相手が素早く動けるとしても、所詮は生き物が出せる速度止まり。弾丸の速度にかなうはずもない。加えて、先読みの技術と狙撃の精度が合わされば、最低限でも動きを制限することができるだろう。難点は決め手に欠けるところだが、そこはヤマトが補えばいい。
本音を言えば、一人で対峙してみたい気持ちはある。しかし、事態は急を要するのだ。意地を捨ててノアの助力を乞うてでも、確実に勝利しなければならない。
(……まだまだ未熟だな)
思わず、溜め息を漏らしそうになる。
散々に理屈を並べておきながら、ヤマト自身の感情は納得し切れていない。まるで子供のようだ。
「そろそろだよっ!」
ノアの声に意識を引き戻される。
目の前にそびえ立つ岩場。それを越えた先から、誰かが争っている気配を感じる。
「間に合ったか!?」
「まだ安心するには早そうだけどね!」
ひとまず、既に手遅れだったという最悪の事態は避けられた。
そのことを天に感謝しながら、ヤマトとノアは足を止めずに岩を駆け上る。雨で濡れた岩に靴裏が滑りそうになるが、それで足を止める余裕はない。
何度か膝を擦りむきながらも登りきった先で、ヤマトたちはそれを目の当たりにした。
「――レレイっ! 無事か!?」
レレイと“何か”の戦いは、レレイの劣勢で進んでいた。荒く息を乱したレレイが追い詰められ、砂浜に膝をついている。“何か”はレレイの眼前に立ち、手を掲げて何事かを唱えているようだ。
そこまでを確認して、ヤマトは一直線に岩場を滑り降りる。背後で銃声が響き、“何か”が素早く飛び退った。
「ヤマト……?」
「すまない! 待たせた!」
その応答の合間にも、矢継ぎ早に放たれたノアの銃撃が“何か”を狙い、ヤマトたちとの間合いをグングンと離させる。
ノアの支援に感謝しながら、ヤマトはざっとレレイの様子を伺う。見たところ、外傷の類はなさそうだ。だが、その顔色はいつか見たときのように青白く、ひどく衰弱している。
(戦える状態ではないか)
即座に、その結論を下す。
レレイはなおも気丈に立ち上がろうとしているが、その膝は小刻みに震えている。立っていることすらもやっとな状況。
「後は任せてもらおう。俺とノアでケリをつける」
「それは、無茶だ……!」
ヤマトを制止する声すらも弱々しい。
果たして、どんな技を使えばここまでレレイを弱らせることができるのだろうか。ヤマトは改めて、少し離れた場所に立つ“何か”の姿を見つめる。
背丈はヤマトと同程度。ずいぶんな華奢な体躯ではあるが、弱々しい印象は受けない。あたかも能面を貼りつけたかのような無表情の顔で、ジッと佇んでいる。大嵐の中にも関わらず、背中へ流れる銀色の髪は輝きを曇らせず、まるで月光のように仄かな光を放っていた。
その姿には、見覚えがある。
「お前は、アオと言ったか」
「………」
ヤマトの言葉に、“何か”――アオは無言を貫く。感情を伺わせない無機質な目で、ボーっとしているようにも見える。
ヤマトとノアがアオと対峙するのは、これで二度目。一度目のときは村の中で唐突に現れ、「嵐が来る」と意味深な予言を残して消えてしまったのだが。
(気配が違う。別人か?)
違和感が拭えない。
かつて相対したときには、飄々として底が全く伺い知れないながらも、悪意の類は感じられなかったのだが。
今目の前にいるアオからは、何事にも関心がないような超然とした雰囲気の他方で、吐き気がするほどの悪意を感じる。まるで、悪魔が人形の皮を被っているかのような佇まい。無機質な瞳の奥から、ギラギラと輝くような欲望の熱が伺える。
真意は分からないが、とても友好的に接することはできなさそうだ。そのことだけはヒシヒシと伝わってくる。
「ここで何をしていた。レレイに用があるにしては、ずいぶんと手荒そうだが」
「………」
「そのまま黙っているのならば、こちらにもやり方がある」
語気を強めたヤマトの問いに対しても、アオは何も応えようとしない。それどころか、ヤマトの姿が眼中にないような様子で、ただ一点――レレイのみを凝視している。
胸中に膨らむ嫌な予感に従って、ヤマトはレレイをアオの視線から遮るように立ち位置を変える。そこで初めて、アオはヤマトの姿を認めた。青い目に覗き込まれた途端に、言いようのない寒気がヤマトの背筋を走る。
「……っ!?」
「退け。貴様に用はない」
初めてアオが口を開いた。
無感情そうな表情とは裏腹に、その声にはゾッとするほどの殺意が込められている。
背後でレレイが身をすくませるのを感じながら、ヤマトは刀に手をかけ、腰の重心を落とした。
「何をするつもりだ」
「答える必要がない」
「レレイに何をしていた」
「貴様には関係のないことだ」
何があっても、ヤマトの問いに答えるつもりはないらしい。
「それは、私が答えよう」
「レレイ、無事なのか」
アオから視線を外さないままに尋ねる。
「先程よりはマシだ」と端的に答えたレレイは、そのまま話を続けた。
「対峙している間、私に宿る力が失せていくのを感じた。これまで自覚していなかったが、恐らくは生まれつきの、巫女としての力だ」
「巫女の力……」
レレイが務めているのは、水竜の巫女という。
ヤマトの中で、アオの正体についての憶測が生まれ始める。
「どのような技なのかは分からないが、奴は私から力を奪い、自分のものにできるようだ」
「……そうか」
普通に考えるならば、魔力や気に作用するような技で、レレイの体内を巡る魔力ないしは気を吸収したのだろう。だが、それをするならば、吸収した力との間に相当の親和性がなくてはならない。外物の異質な力を取り込んでなお平然としていられるほど、生物の身体は強くない。
ヤマトの推測が正しいならば、そのアオの技は、ヤマトとノアが警戒する必要はない。影響を受けてしまうのはレレイだけだろう。
(ならば、正面から斬るとしようか)
岩場の上で魔導銃を構えて佇むノアへ、チラリと視線を向ける。
それでおおよその意思を掴んだのだろう。ノアがコクリと小さく頷いてくれる。
「これ以上レレイへの手出しは認められない。すぐに立ち去るならば、見逃す。まだ立ち止まるならば、斬り捨てる」
「ふんっ、笑止」
アオの身体から、思わず目を見張るほどの闘気が溢れ出す。
だが、それに気圧されるわけにはいかない。
「シ――!!」
疾駆。
それと同時に、甲高い銃声が嵐を切り裂いた。大雨の中、一発の弾丸がアオ目掛けて飛来する。
「寄るな下等生物」
毒づくような言葉と共に、アオが右足で地面を小突く。砂浜が盛大に爆ぜ、巻き上げられた土砂が壁のようになってヤマトと弾丸の行く手を遮る。
(地中の魔力に作用したか!?)
かつて、勇者ヒカルが見せた技を思い出す。技の体裁も保てないほどに強引で力づくな行動だが、その効果は大きい。
土砂の壁で弾丸を受け止めるのと同時に、ヤマトの視界を遮る。足を止めたヤマト目掛けて、土砂を突き破ってアオの蹴りが飛んでくる。
「う、おっ!?」
咄嗟に後退り、蹴りの間合いから外れる。目の前を薙いだ爪先の威圧に、思わず脂汗を滲ませる。
「何を立ち止まっている。死にたいならば、首を出せ」
目を上げれば、アオは悠然とした立ち姿のまま片腕を空へ上げている。その周囲には、大雨に紛れるように、幾つもの水の刃が浮かんでいる。
アオが腕を振り下ろす。
「―――っ!?」
全身を駆け巡った怖気に衝き動かされるがままに、ヤマトはその場から横へ身体を投げ出す。直後に、数瞬先までヤマトがいたところを水の刃が斬り裂いた。その一つがヤマトの頬を掠めて、一文字の傷を残していく。
斬れ味もさることながら、嵐の中で放たれるがゆえに不可視なところが脅威。目で見て捉えようとすれば、相応の意識で凝視しなければならない。本人の身体能力もずば抜けているアオの前で、その行為は自殺に等しい。
「ふんっ、避けたか。面倒なことだ」
ふっと背後を振り返れば、岩場の上に陣取っていたノアが、滑り降りているところが目に入る。どうやら、アオの攻撃はヤマトのみならずノアをも捉えていたらしい。
この一瞬のやり取りで、否応なく理解させられてしまった。
(これは、厳しいな)
リザードマンなど比較にもならないほど、強大な力を感じる。
大して本気でもなさそうな現状でも、アオの一挙手一投足を全神経を集中させなければ対処できない。少しでも集中の糸が緩めば、その直後にヤマトの首は胴と分かれることになるだろう。
勝ちの目は薄い。希望があるとすれば、ヤマトとノアの連携だろうか。それにしても、この大嵐の中では相応の困難を伴う。
だが。だからこそ。
「――面白い」
腹の奥で炎が灯る。ふつふつと全身の血が沸き立ち、意識が冴え渡る。視界がかつてないほどに広く鮮明になり、脳の回転が速くなる。
通常ならば勝ちを拾うことも難しい相手。せいぜい逃げ惑うので精一杯な難敵。――だからこそ、面白い。
鞘から刀を抜き払う。正眼に構え、脳裏で戦術を練る。身体に叩きつけられる雨風すらも、もはや気にならない。
「………」
ヤマトの雰囲気が豹変したことを感じ取ったのか、アオも目をすっと鋭く細める。そのことに、薄っすらと笑みを浮かべる。
リザードマンとの戦いは不完全燃焼に終わった。だが、ここでならば、もしかしたら。
(まずは本気を引き出すところからだな)
神でも気取っているつもりなのか。アオの超然とした態度が気に入らない。その仮面を無理矢理にでも引き剥がして、素の感情を見せてもらうとしよう。
身体の調子は確かめるまでもない。リザードマンとの戦いで多少は温めたから、準備万端だ。
刀を大上段へ。重心を前に寄せ、意気を高揚させる。
勝機は死地にこそある。攻めて攻めて攻め続けて、その果てに勝利を掴め。
「――いざ、参る!!」