第68話
「着いたっ! 早く降りるよ!」
舟の底が砂浜を擦る感触が、足裏に伝わる。
雨音にかき消されないように大声を上げたノアに頷いて、ヤマトとレレイは舟から飛び降りる。後ろを振り返る間もなく、即座に柵の後ろで得物を構える村人たちの方へ駆け寄る。
「巫女様にお客人! 魔獣共は――」
「すぐ後ろっ!!」
ノアの叫び声が届くのと、ほぼ同時に。
ヤマトたちの背後の海面が盛大に爆ぜた。
「な……っ!?」
「想定よりも数が多い! 気を引き締めろ!」
呆気に取られたように息を呑んだ男たちが、レレイのかけ声で我を取り戻す。柵の内側へ滑り込んだヤマトとノアも、一息つきながら後ろを振り返った。
土砂降りという名の相応しい大雨の中、海から続々と魔獣が姿を現す。
一目見た印象ではトカゲに近い。だが、全員が二つの足で大地の上に立ち、一メートル半ほどの強靭な肉体を隠すことなく晒している様を見れば、人に近しいものも感じられる。トカゲ人間、リザードマン。そんな名が合う魔獣たちが、両手指では数えきれないほどの大群になって海から姿を見せる。既に立ち上がった者だけでも、百を越えているだろうか。未だ海中にいる分も含めてしまえば、更に数は膨れ上がると思われる。
「リザードマンの亜種かな?」
「恐らく。海を住み処とした一種だろう」
大陸で一般的に知られるリザードマンは、そのほとんどが沼地に生息している。膂力が人間と同程度であり、魔獣の中では個体の戦闘力が低い種族であるものの、他の魔獣でも容易に立ち入れない沼地を縦横無尽に駆け巡る様は脅威とされている。理性を捨てて本能に忠実な生態を営む魔獣の中では、比較的理性を保った種族であり、そのほとんどが爪や牙に拳を振るうものの、ときに人から奪った武器を扱う個体が現れることでも知られる。
それでも、所詮は魔獣。リザードマン同士で群れるようなことはしないし、同族を見かけたならば、むしろ積極的に殺しに行くような連中だ。そんなリザードマンの亜種が大群を作っているということには、違和感を覚える。
(指導者か、イレギュラーがいるな)
本来ならば群れるはずのないリザードマンが、一つにまとまっている原因。そう言うべき、強大な魔獣がいるはずだ。それさえ倒すことができれば、リザードマンの群れは瞬く間に瓦解するだろう。
問題は、そのイレギュラーな個体の姿が見当たらないこと。いれば一目で分かる自信があるが、辺りを見渡す限り、そこにいるのは全てが同じようなリザードマンばかり。
「ひとまずは迎撃する他ないか」
「来るよ!」
ノアの叫び声と同時に、群れの先頭にいたリザードマンが、耳をつんざくような金切り声と共に駆け出した。続けて、群れ全体がドッと押し寄せる。
機先を制するようにノアが発砲、数体のリザードマンが血を流しながら倒れ伏すものの、群れの勢いは止まらない。目を血走らせて、まるで狂気の塊であるかのように駆け続ける。
「長物を持て! まずは奴らの勢いを削ぐ!」
レレイの指示に従って、村人たちが続々と手製の槍を手に持つ。穂先に鋭利な石を結びつけただけの原始的な作りであり、正直心許なくはあるが、彼らの膂力ならば魔獣を貫くことは可能だろう。
「引きつけろ! そう簡単に柵は越えられない!」
思わず息を呑みたくなるほどの勢いで、リザードマンたちが柵へ殺到する。
柵などまるで目に入っていないように、躊躇いのない足取り。衝突することなど構わないと言うような、全力の駆け足だ。
「――突けッ!!」
リザードマンの一体が柵に衝突する。
それと同時に、レレイの号令の下で男たちが次々に槍を繰り出した。石の穂先がリザードマンの胸元を次々に貫き、赤い血を溢れさせる。
『―――――ッ!?』
鼓膜が破れるような声量で、リザードマンが断末魔を上げながら倒れる。
それに構わずに殺到するリザードマンに、男たちは必死の形相で槍を突き続ける。瞬く間に数多の屍が作り出されるが、リザードマンの勢いは止まらない。それどこか、更に勢いを増して柵を乗り越えようとしてくる。
柵へしがみつきながらも、槍の刺突で死んだリザードマン。死体を踏み越えて柵を越えようとするリザードマン。柵へたどり着くこともできず、その直前で同じ仲間に踏み潰されたリザードマン。それら全てを受け止めた柵が、ミシリと嫌な音を立てる。
「まずいっ!?」
「下がれ! 後ろの柵でもう一度受け止めるぞ!」
その号令で、全員が一斉に柵から離れる。
抵抗がなくなったことで急速に傾き始めた柵を尻目にして、ヤマトたちは後方にも築き上げていた柵を乗り越えていく。
「遅れはないみたいだね!」
「できれば、もう少し粘りたかったところだが」
事前の予想を遥かに越えて、リザードマンたちの勢いが強すぎた。仲間を仲間とも思わない様は魔獣らしくもあるが、死の恐怖を意にも介さない姿は、どこか異様でもある。
急に決定した決戦に際して、こちらが用意できた柵は二段。急ごしらえとは言え、それなりに攻撃を受け止めた柵を二段作れたことは喜ぶべきだろうが、心許ないことには変わりがない。
「来るッ!」
レレイが叫ぶ。
同時に、一段目の柵が雷鳴のような音を上げながら崩れ落ちる。
その衝撃で体勢を崩した仲間を踏み殺しながら、リザードマンの群れが殺到する。相当の数を既に削ったはずだが、群れの姿は変わらないどころか、更に数を増しているようにすら思える。
「ここを破られたなら直接やり合う他ない! 各自、得物は持っておけ!」
その言葉に、村人たちは不敵な笑みを浮かべ、船員たちは怯え混じりの表情になる。
士気が今一つ上がりきらないところは気になるが、それをどうこうする時間も残されていない。
群れの先頭の一体が柵へ取りつき、即座に突き出された槍の一撃で死ぬ。その死体を足蹴にして、別の一体が柵へ駆け寄る。
「まったく! 学ばない奴らだね!!」
「そうでなければ、戦うことはできなかったがな!」
魔導銃を乱射してリザードマンを次々に葬るノアに、ヤマトも槍を片手に応える。
予想を遥かに越える狂乱振りで殺到するリザードマンに気圧されているものの、ここまでの成果は上々と言っていい。こちら側に負傷者はなく、対してリザードマンの方はかなりの数を削ることができた。船員たちは別として、日頃から魔獣との戦いに明け暮れている村人たちが、ヤマトとノアの想定を越えて成果を上げていることが要因だろう。
問題は、リザードマンの勢いを少しも削ぐことができていない点と、群れの数がまだまだ多い点だ。
「柵が破られるっ!?」
悲鳴混じりの声と同時に、ヤマトとノアの目の前の柵が、ピシッと音を立てて亀裂を走らせる。
「限界か!」
「前は任せるよ!」
魔導銃を構えながら後退するノアに頷きながら、ヤマトは槍を目前のリザードマンに向けて投擲する。直撃を確かめないまま、腰の刀を抜き払った。
柵に走っていた亀裂は瞬く間に深く大きくなり、グラグラと頼りなく揺れ始めた。
「下がれッ!!」
全員が一斉に下がり、各々の得物を手にする。
これから始まるのは、文字通りの乱戦。指揮系統などは存在しないも同然となり、全員が各自の判断で駆ける戦場となる。
(懐かしい気配だ)
辺りに漂うのは血と鉄の匂い。断末魔や鬨の声が雨に負けずに響き渡り、全員が狂乱の渦に呑まれる。
一人一人が眩いほどの生の輝きを放ち、そして散っていく。日頃掲げる理性も情念も失せ、ただ辺りに撒き散らされた死から逃れるために必死になる地獄絵図。頭がクラクラするほどの暴力の世界に、段々と視界が赤く染まっていく。
「崩れるぞ!!」
一瞬の静寂。
大嵐の中、ピキピキと悲鳴を上げる柵の音がやけに響く。
刹那。柵が一斉に倒壊し、辺りの砂がドッと巻き上げられる。
「――行けぇぇぇえええッッッ!!」
戦場の中にあってもよく響く、レレイの声。
それを合図に、一気に駆け出した男たちとリザードマンが衝突した。
途端に辺りを埋め尽くす、苦悶の声と血潮の匂い。噴き出した鮮血で空すらも赤く染まる。ドクドクと早鐘を打つ鼓動の音で意識が一杯になる。ヤマトを見据えたリザードマンの姿を視界に捉えた。
この気配はよくない。日頃は抑圧していた本性が剥き出しにされる。無自覚に口端が釣り上がり、血が沸き立つ。
「――いざ、参る!!」
至近まで駆け寄ったリザードマンの脳天目掛けて、刀を一閃。これまでも放った覚えがないほどの会心の一撃だ。何の抵抗もなくスルリと刃が抜ける感触と、空へ噴き上がる血飛沫に陶酔しそうになる。
「くっ、ははっ」
笑い声が喉奥から込み上がる。
「これはいけない」「抑えろ」と理性が必死に押し留める他方で、脳裏で言い訳めいた情が浮かび上がる。
ここは戦場。生の希望と死の絶望が同時に存在し、数多の人々を飲み込む場所。僅かな情が自分の命を奪い取るそこで生き残るには、修羅になる他に道はない。正義も悪もそこには存在せず、ただ力だけが場を席巻し、力ある者にも力なき者にも等しく死が振りまかれる。ゆえに存在する、狂気の魔力。戦場の空気は人を狂わせ、聖人をいとも容易く修羅へと変貌させる。
あぁ、ならば仕方あるまい。
『―――――ッ!?』
「温いな。あまりにも温い」
斬り捨てる。
視界に入った動くもの全てを斬り捨てる。正確で緻密な斬撃などはどこへやら、ただひたすらに目の前の敵を斬ることだけに執念を燃やす。斬れるならば斬る。斬れずとも斬る。向かう者は迎えて斬り、逃げる者は追って斬る。そこに敵味方の区別などは既に介在せず、間合いに入った方が悪いとばかりに刀を振り続ける。
血肉が空を舞い、嵐が血の雨を降らせる。辺りに死臭が振りまかれ、吐き気を催すほどにドス黒い情念が辺りを渦巻く。それすらも、心地よい。
これが正しく修羅の場。剥き出しになった命同士がぶつかり合い、一手間違えれば即死へ繋がる地獄。
だが、しかし。
「つまらんな」
逃げ惑う魔獣の首を斬り飛ばし、ヤマトは溜め息を漏らす。
追い求めていたのは、皆が修羅となる戦場。そこに覚悟が定まっていない者など不要であり、立つ以上は全てを斬り捨てるだけの自信を抱くべきだ。だと言うのに。
ヤマトが睥睨する。すると、辺りから怯えの感情が湧き上がるのが分かる。狂乱に呑まれていたリザードマンに、不敵な笑みを浮かべていた村人。その全員が、畏怖を目に込めてヤマトに見ていた。
辺りに漂っていた死臭が、大雨に洗い流される。空気が段々と清浄さを取り戻し、急速に現実味が戻っていく。
「茶番か」
ここは到底、戦場には遠いということ。
表面上は先程と同様に、戦いを繰り広げる村人たちとリザードマンの姿がある。だが、今ならば分かる。彼らは本気で命を輝かせるつもりなどない。片や狩りの延長として戦を捉え、片やただ生きたいだけで戦に臨む。そんな有り様では、戦場とは呼ぶことはできまい。
このまま刀を収めてしまおうか。そんな葛藤に苛まれながら、ヤマトは辺りを睥睨した。
「――む?」
一歩戦場から外れていたから分かったのだろうか。
手際よくリザードマンを処理していたレレイの元へ、急速に強大な気配が迫っている。そちらへ視線を転じれば、“何か”がヤマトの目に映る。
明らかに異質。リザードマンたちを隔絶するほどの力を感じさせる気配だ。体皮には青い鱗が無数に並び、戦場の中にあっても理性を失わない眼光が、ただレレイのみを捉えていた。
「青い、竜――?」
戦いの狂気が見せた幻覚だろうか。
その“何か”は、リザードマンと男たちの戦いの隙間を縫うようにしてレレイに接近すると、そのままの勢いでレレイに衝突した。何かもみ合うような雰囲気の後、二つ揃って戦いの場から弾き出され、嵐の中へ消えていく。
「あれは……」
距離が離れていたことや、嵐で視界が遮られていることが相まって、幻覚と片づけてしまいたいところだが。
突然駆け抜けていった強大な“何か”に、辺りの空気がざわめいている。何人かはレレイが消えてしまったことにも気づいたらしく、頻りに辺りを見渡していた。
「ヤマト!? 何かあったの!?」
迫るリザードマンを銃撃で散らしながら、ノアが駆け寄ってくる。どうやら、何も見ていなかったらしい。
ふらふらと近づいてきたリザードマンを斬り捨てて、ヤマトは一瞬だけ逡巡、すぐに決断する。
「ノア! 持っていくぞ!」
「へっ!? いったい何の――っ!?」
何かを口走っているノアの胴をむんずと抱え、“何か”とレレイが消えていった方へと駆け出す。
進路の邪魔になるリザードマンだけを斬り捨てて、今は移動を優先する形だ。
ふと、視界の端にゴズヌの姿を捉える。
「ゴズヌ!! ここは任せたぞ!!」
「むっ!? いったいどういう――」
「レレイを探してくる!」
ゴズヌもレレイと“何か”が共に去っていく場面を見ていたのか、それでおおよその事情は察したらしい。
力強い首肯が返されるのを一瞥して、ヤマトはノアを担いだまま、その場を後にした。