第67話
翌朝。曇天模様だった昨日の空は予想通り、大荒れの様相を呈していた。
大粒の雨雫が滝のように降り注ぎ、海に沈める勢いで島中を水浸しにする。あまりの雨量に、視界がぼやけてくるほどだ。更に横殴りの風は雨粒を伴って人の身体を叩き、ともすればそのまま上空へ吹き飛ばしてしまいそうな恐ろしさすら感じる。
そんな嵐を目の当たりにしながら、ヤマトとノアは思わず溜め息を零した。
「こんな嵐で外に出るとか、正気じゃないよね」
「同感だ」
普通ならば、こんな嵐の日に外へ出ようとは思わない。戦いともなれば、なおのことだ。
だが、ヤマトたちと同じようにどんよりとした空気を背負っているのは、大陸からやって来た船員たちばかりらしい。ザザの島に住む人たちは、全く嵐が気になっていないかのように、意気揚々と戦いの準備を整えている。
「ヤマトはちゃんと戦えそう?」
「ふむ」
この嵐の中で、ということだろう。
雨と風の具合を改めて確認してから、ヤマトは小さく首を傾げる。
「できなくはないという程度か。だが、あまり好んで出るような天気ではないな」
「えぇ? 泥で足取られたりしない?」
「鍛錬したからな」
武術の基本は歩行術と走行術。何をするにしても、まずは効率的な歩きと走りを会得しないことには始まらない。
ヤマトの故郷にはそんな信条があったから、ひとまずどんな戦場でも動ける自信はある。動けるだけで、満足に戦えるわけでもないのだが。
「そっかぁ。正直、僕の方はあまり嬉しくないんだけど」
「だろうな」
ノアの得物は魔導銃だ。その強みは、他のどんな武器にもない長射程と弾速に集約されている。開けた場所や視界が確保された状況であれば無類の強さを誇るものの、ジャングルの中や大嵐の下では、その強さは半減してしまうのだ。
その点からすれば、ザザの島という地はノアにとって都合の悪い場所だっただろう。ジャングルの中では木々に弾道が遮られ、降りやすい雨の下では弾が逸れやすい。持ち前の正確無比な射撃技術を駆使すれば問題なく戦えるだろうが、そこに労力を割かなければならない段階で、厄介な戦場であることに変わりはない。
「戻るか?」
「冗談。ついていくよ」
笑い混じりで言ってみれば、ノアは即座に否定する。
ヤマトとノアの二人だけの事情であるならば、間違いなく撤退や保留を選択しただろう。だが、今回は二人のみならず、ザザの島にいる全員――特に、レレイの身に関わることだ。
そんなレレイは今、浜辺に置かれた小舟を前に、村人たちと最後の打ち合わせをしているらしい。
「じゃあ僕たちも行こうか」
「おう」
頷いて、ヤマトはここへ来た目的を思い返す。
島の近くにたむろしている魔獣との決戦に参加する。無論それもあるが、本題は別のところにある。すなわち、レレイの護衛だ。
聞けば、ただでさえ危険な今回の戦いの中でも、とびきり危険な任務――魔獣の囮役をレレイは買って出たらしい。決行は間近で止める暇もなかったため、やむなくヤマトとノアは彼女の護衛役を引き受けることにしたのだった。
ちょうど打ち合わせが終わったのか、レレイの周囲から村人たちが去っていく。
「もう話はいいの?」
「ノアか。あぁ、とりあえずここの準備は直に終わるらしい」
ヤマトとノアの顔を見た瞬間に、レレイはどことなく複雑そうな表情を浮かべる。
当初、ヤマトとノアが手伝いを申し出たときにレレイは固辞していたのだ。客人に迷惑をかけるわけにはいかないという話だったが、強引に説き伏せようとした二人の勢いに呑まれて、結局は渋々と頷かせることに成功した。未だに納得し切れていない様子だが、同時に本気で迷惑そうなわけでもないため、あまり気にすることはないだろう。
レレイが顎で促した方を見てみれば、普段は白い砂浜が広がっている浜辺に、村人と船員たちの手によって丈夫そうな柵が幾つも並べられている。船員たちを通じてヤマトが伝えた通りに、彼らは準備を進めているらしい。これで、集団戦で圧倒的な敗北を喫するということはなくなるはずだ。
「じゃあ後は僕たちが魔獣を連れてくればいいってわけか」
「そうなる。船を出そう」
頷いて、ヤマトは浜辺に転がしていた小舟を押し出す。
魔獣との戦いに備えて、船員たちが急遽組み上げた船だ。その大きさこそ心許ないものの、嵐の海でも簡単に大破しないだけの頑強性は持っているという。魔獣の下まで船を漕ぎ出せるかが心配の種の一つだったから、彼らには素直に感謝したいところだ。
雨風で荒れる海へ、小舟が浮かぶ。即座に飛び乗り、オールを手繰り寄せる。
「出るぞ!」
ヤマトの声に従い、レレイとノアも船に乗り込む。三人分の重量を受けて舟がグラリと揺れるが、中に水が入り込むこともなく、ひとまずの安定性を保ってくれている。
オールを必死に操って舟を操縦しようとするものの、あまりに荒々しい波がその抵抗を押し流す。波が打ち寄せるたびに、舟は大きく揺れて岸辺から遠ざかる。
「片方貸してくれ。手伝う」
「すまない、頼んだ」
当初は二本を手にしていたヤマトだったが、一人の力では波に抗えない。それを悟ったレレイの手へ、即座に片方のオールを差し出す。
ヤマトとレレイが渾身の力でオールを漕ぐことで、ひとまず舟が荒波に抗い始める。それでも、少しでも意識を逸らせば舟が流されてしまうような拮抗だ。
「これは……っ!?」
「流石に無茶だったな!」
全身でオールを扱う都合上、自然と語気が荒々しくなる。
二人がかりでこの有り様なのだから、レレイ一人では波に抗いようがなかったように思える。
額に汗を滲ませてオールを操る二人を尻目に、ノアは望遠鏡で周囲を見渡している。大粒の雨に遮られて先が満足に見通せない状況だが、何か見えているだろうか。
「もうちょっと沖に出よう。この辺りには見当たらない」
「了解だ!」
応えて、グッとオールを漕ぐ。
波の力に押されて、舟はヤマトの思惑を越えて沖へ進み始める。すぐに舟の位置を調整するようにオールを操るが、抗いがたい。
「くっ!?」
「ノア、まだ見えないか!」
吠えるように問いかけるが、ノアからの返答はない。口を閉ざしたまま、冷たく切り裂くような空気をまとってジッと望遠鏡を覗き込んでいる。ザザの島に来て以来は見ていなかったが、本気になったらしいノアの姿だ。
レレイは初めて見るノアの姿に息を呑んでいる。ヤマトも、ノアに声をかけることを諦めて口を閉ざす。
無言のまま、一分ほどが経った。
必死にオールを漕いだ甲斐あって、舟はそれほど沖に流されてはいない。まだ、戻ろうと思えば戻れる場所だろう。だが、問題は別にある。荒波だけでなく雨粒が舟の中に入り込んで、舟の中にそれなりに水が溜まってしまっている。ヤマトとレレイは手が離せないからどうしようもないが、このままでいたら、いずれ舟が沈んでしまう。
陸地へ戻るべきか。
ふっとヤマトが逡巡した瞬間に、ノアが望遠鏡から目を離した。
「――見えたっ!」
「なにっ!」
「本当か!?」
ヤマトとレレイは思わず問い返す。
ノアの目を疑うわけではないが、嵐でろくに視界が確保できていない状況だ。
「ちゃんと確認できたよ、魔獣同士で小競り合いしてるみたい!」
言いながら、ノアは魔導銃を取り出す。
何をするつもりかと思わず見守る前で、ノアは銃の引き金を引く。
甲高い銃声が雨を切り裂く。
その一瞬後に、かなり距離が離れたところの海の水面が爆ぜるのが分かった。そして同時に、海面から黒い影が飛び出るのも見える。
「あれは……っ!!」
「これで魔獣も僕たちに気がついたはずだよ! 急いで戻ろう!」
思わず呆けたところで、ノアの声に叱咤される。あまりグズグズしていては、魔獣たちに追いつかれてしまう。
慌ててオールを握る手に力を込め直し、海をかく。あまりに強すぎる波の力に舟が流されそうになるが、レレイと二人で歯を食いしばりながら、それに抗う。ノアは舟の中に溜まった水をかき出して、少しでも軽くなるように努めている。
ゆっくりと舟が陸に向かって動き始める。
ノアが遠距離で仕掛けてくれたから、まだ魔獣との距離に余裕がある。だが、それもいつまで保つことか。共に嵐に翻弄されているとしても、こちらが小舟を必死に漕ぐしかないのに対して、魔獣たちは強靭な肉体で海を泳いでくる。あまりモタモタしていては、陸にたどり着く前に追いつかれてしまう。
舟の進む遅さをもどかしく思いながら、それでもオールを漕ぐ手は休めずに、ヤマトは雨の向こう側に見える陸地を睨めつけた。