第66話
夜。
日中は分厚い雲が覆っているだけだった空模様だが、今や雨が降り出している。まだ小雨程度ではあるものの、ただでさえ湿気の高いザザの島の空気が更に不快なものへとなってしまっている。
むわっとむせ返るような生暖かい空気に顔をしかめさせながら、ヤマトとノアは空を見上げた。
「雨だねぇ」
「嵐になりそうだな」
先日にアオから言われたから、そう思ったわけではない。
それなりに長い間旅してきたからこそ分かる、勘のようなものだ。西の空から吹きつけてくる風は湿り気と熱気を豊満に含んでおり、まだまだ雨が続くであろうことを予感させる。こんなときはしばらく街の中にこもってしまうのが、いつものヤマトたちの行動パターンなのだが。
「魔獣退治、本当に明日やるのかな?」
「意思は固そうだった」
ヤマトとノアの話題の焦点は、自然とその場にいないレレイのこと――正確には、レレイが告げたことに移る。
村での集会から戻ったレレイは、明日に海の魔獣との決戦を行うよう決まったと口にした。正直、雨の中で魔獣と対峙するのはあまり推奨できないというのがヤマトとノアの意見であったのだが、レレイたちからすれば、嵐の影響で魔獣が行方を暗ませる前に決着させたいというところなのだろうか。しかし、魔獣がどれほどいるのかという正確な数も分かっていない中、魔獣の群れを島に呼び寄せるという危険な真似は、普通ならば採用しない。海の魔獣ならば陸上で思うように動けまいという思惑なのだろうが、水陸両用の魔獣も存在するのだ。数の暴力に負けて、最悪の場合には島が魔獣に占領されることすら考えられる。
行き当たりばったりだという印象は拭い切れないものの、彼らがそう決めたのならば、ヤマトたちは見守るのが筋だろう。
「成功すると思う?」
「さてな」
「いざってときに逃げる準備もしといた方がいいのかなぁ」
そんなノアの言葉は薄情なようにも聞こえるが、冒険者としては割と一般的な考え方だ。
友人たちの存在は大事ではあるが、一番に優先すべきは自身の安全。好奇心に任せて危険を顧みない職として知られる冒険者だが、その実、保身に関しては細心の注意を払っていると言っても過言ではない。
せいぜい、逃げるときにはレレイも引きずっていこうと考えるくらいだ。
「船の用意はできているのか?」
「……イカダくらいなら」
イカダの用意はしてあるのかという驚きと、イカダで海を渡るつもりなのかという呆れが同時に浮かんでくる。
もっとも、ヤマトには故郷の海で遠泳訓練をさせられた経験があるから、いざとなればイカダの護衛をしながら海を渡るという手もとれるのだろうか。嵐にさえ遭わなければ、何とかなりそうな気もしてくる。
「期待しないでおこう」
「本当の最終手段はあるってところで」
イカダを心の支えにするというのは、少し抵抗はあるが。
ひとまず、明日の魔獣との決戦を勝利に導くことを考えた方がよさそうだ。
「村の人たちがどのくらい準備をしているかとか、分かりそう?」
「柵の一つでも作っていれば上々だ」
「あぁ……」
要するに、あまり期待していないということ。
ヤマトが沈黙の内に語ったことを察して、ノアが遠い目になる。
そも、前提としてザザの島に住む者たちは長いこと外界から隔絶されてきたために、大陸の文化とはまるで異なる営みを繰り広げている。その一つが、日常茶飯事のように魔獣の狩りを行っているというもの。戦いが、いわば非日常的なものとして捉えられる大陸とは違って、この島では完全に日常の一風景となっている。だからなのか、他人と連携するという集団戦の基礎ができていないように見える。
レレイと対峙してみればよく分かるが、彼らの戦い方は獣のそれなのだ。己の力に絶対の自信を抱き、策謀を巡らせるということをしない。そんな者たちに、一致団結して魔獣の群れと戦おうと言ってみたところで、正直望みは薄いだろう。
(村の設備の一部だけでも使えるのなら、話は違うのだろうがな)
だが、それは彼らにとって、戦えない女子供を守るためのものなのだ。決して、狩りの助けをするためのものではない。
「―――」
思わず溜め息を零したくなるのをグッと堪えて、ヤマトはもう一度考え直す。
村人たちはヤマトとノアの手には負えない。あまりにも住んできた文化が違いすぎて、戦いの趨勢を変えるようにヤマトたちが干渉できる余地がない。ならば、誰に働きかければいいのか。
「船員たちか」
「あぁ、あの人たちも明日の戦いには参加するんだっけ。確かに、村の人たちにあれこれ言うよりもよさそうだね」
ノアの言葉にヤマトは頷く。
ザザの島に保護される形になっている船員たちだが、彼らも大陸では荒くれ者の一人として見なされる者ばかりだ。魔獣との戦いに、ただ守られているだけというのも我慢ならなかったのだろう。大した得物もないだろうに、魔獣との戦いに参加するらしいということをレレイから聞かされていた。
確かに、彼らは個々人の戦闘力では大したことはないと言っても、海の魔獣には詳しく、そいつらとの戦いも経験済みである可能性が高い。航海という集団行動を生業としているのだから、ぶっつけ本番の集団戦もある程度はこなせそうだ。
「じゃあ、迎撃戦の方はあの人たちに任せればよさそうかな?」
「恐らくは」
ノアの言葉に頷く。
ひとまず、それくらいしかヤマトたちにはできないだろうという思いも含まれている。いわゆる部外者であるヤマトとノアにできることなどは、高が知れている。
迎撃戦については問題なし。だとすれば、次に問題になるのは何か。
「魔獣を誘き寄せるのがレレイの役目か。危険だよね」
「間違いなくな」
説明するまでもない。
嵐の海で行うという点も相まって、その危険性は更に高まっている。はっきり言ってしまえば、無謀に近い。
「成功させる自信があるってことかな?」
「それは……」
ヤマトの脳裏に、今朝に地下室で見たレレイの横顔が蘇る。
何かの覚悟を決めたような、見ていて危なっかしさを感じてしまうような表情だ。そんな顔を浮かべた者はたいてい、余所からは想像もできなかった行動をしでかす。
(放っておくわけにはいかないか?)
ふとそう考えて、ノアが何か言いたげな目で見つめていることに気がつく。
「何だ」
「いや、ずいぶん情が移ったものだと思ってさ」
「ふむ」
ノアの言葉にからかいの色はない。純粋な疑問ばかりが浮かんでいた。
ヤマト自身でも改めて自省してみて、確かにその様子があるのを認める。思えば、たった数日だけ交流しただけにすぎない。それにしては、色々と気にかけているときが多いようだ。理由は何だろう。
「――刃を交えたから、か?」
「へぇ?」
胸中に思い浮かんだ事実を口に出す。段々と、それが事実であるかのように思えてくる。
一度戦った相手は何かと気になることが多い。と言うよりも、無視することはどうしてもできなくなる。それが好敵手であったならば、なおさらのことだ。ヤマトと相対して尋常でない力を発揮してみせたのみならず、ヤマトが無意識に諦めていたことをレレイは軽々とやってみせた。その衝撃が、ヤマトの心にレレイの姿を強烈に描き出しているのかもしれない。
その結論は、ひどくすんなりと心に落ち着く。
「異性として、みたいなのってないの?」
「は?」
突然の言葉に、思わず呆けた声を漏らす。
それだけで、ノアは何かを悟ったらしい。つまらなさそうに肩をすくめた。
「こりゃなさそうだね」
「ふむ?」
いずれは男女について考えるようになるのかもしれないが、ヤマトにはまだまだやりたいことがある。特に意識すらしてこなかった部分だ。そして恐らく、これからも当分は意識しないだろう。
ノアが突然言い出したことの真意は掴めないが、今はそれを考えるときでもあるまい。
「明日は正念場になるだろう。さっさと休むぞ」
「はいはーい」
気の抜けるようなノアの返事に、思わず眉尻を下げながら。
ヤマトとノアは家の中へと戻っていった。