第65話
嵐が近いのか。
まだ夕方頃だというのに、空は不穏な動きを見せる灰色の雲で覆われて陽光も差し込まず、既に夜になってしまったかのような暗さになっている。湿り気を帯びて生暖かい風が吹き荒れて、集落の家々をガタガタと揺らす。運が悪ければ、すぐにでも壁や天井が吹き飛んでしまいそうだ。
自然の猛威を前に怯える男たちを見渡して、アオは嘲るように鼻息を鳴らした。こんな粗末な家など、いっそのこと全て失われてしまった方がマシというものだ。
今アオがいるのは、集落の中では一番立派な家屋。普段から集会所として使われている場所でもあるらしいそこに、村中の男たちが集まっていた。先程決まった、大陸からの船員たちを帰還させる手助けについて話し合うようだ。
「――報告する」
居心地の悪い沈黙に包まれていた室内を、女の怜悧な声が響いた。
そちらへ目をやれば、アオですら思わず感心してしまうような美貌の少女がいる。このザザの島で、水竜の巫女なる役目を負わされている少女。あの忌まわしい―――に翻弄された存在なのだと思えば同情心も湧くが、だからといって何をするつもりもない。
「海には魔獣が多数。先に提示した海路を塞ぐように陣取っていた」
「む。避けることは?」
「そこまでは調べ切れていないが、安全とは言いがたいだろう」
傀儡とした男が滞りなく口を開いているのを確かめて、アオは密かに頷く。
水竜の巫女が報告している内容には、欠片も興味は湧かない。多少聞いてみたところで、アオが得られるような情報はとても見込めないからだ。
それもそのはず、彼らが現在頭を悩ませている原因の魔獣たちは、アオがけしかけたものなのだから。―――としての力を僅かながらに解放してやれば、本能でのみ動く魔獣を誘導することは、ひどく容易い。あまりに適当な仕事をしたためか、想定よりも魔獣の規模が大きいという事態こそ起こっているが、それも大した問題ではない。
そんなわけで、目の前で繰り広げられている会談は、アオにとっては聞くに値しない茶番にすぎないのだ。それでも参席しているのは、“とある目的”を果たすために他ならない。
「だから、私たちの手で海の魔獣をどうにかしなければならない」
巫女の声に、アオの意識が現実に引き戻される。
「どうにか?」
「退治するってことか?」
「俺たちに海へ出ろってのか!?」
にわかに騒がしくなる部屋に、アオは溜め息をグッと堪える。
巫女は表情を微動だにさせず、「必要とあれば」と素っ気なく応えるだけだ。
聞くに堪えない有り様で喚き散らした男たちだったが、やがて満足したのか、幾分か落ち着いた様子で顔を突き合わせる。
「巫女様も分かってるだろ、海は危険だ」
「海に出て戻ってきた奴はいない。ゴズヌだけが例外だ」
「本当にあいつらの手助けなんかする必要があるのか?」
その言葉を前に、巫女は溜め息を漏らす。
「今更だ。私たちは彼らを助けると決めた。だと言うのに、少し難しそうだから引き下がるような真似ができるのか、お前たちは」
「それは……」
なかなか威勢のいい女だ。
男たちは鼻白んで口を閉ざしてしまうが、それでも、一人が諦めずに声を上げた。
「だ、だがよ! 海の魔獣に立ち向かうなんざ無謀だ!」
その言葉に、再び勢いを取り戻す男がチラホラと。
他人に流されるようにコロコロと態度を変える有り様は、アオでなくても溜め息をつきそうなものだが。
「島の上なら、何が相手でも戦ってやる! だが、海の上じゃ俺たちは戦うなんざできねぇ!!」
「……そうか」
その指摘は正しい。幾ら歴戦の強者であったとしても、陸上と海上とを同時に上手く戦える者というのはひどく限られる。その理由は多岐に渡るが、一番大きいのは足場の不安定さだろうか。
原則として大地は揺れることなく、木々の枝も不定期に揺れるということはない。風で煽られて揺れるとしても、ほとんど無視できる程度の小さな揺れにすぎないのが大半だ。対して、海の波は荒々しく、その上に浮かぶ船などは容易に揺らしてみせる。その波の動きは読みづらい上に無視できず、海上戦の心得とはすなわち、波の揺れをどの程度制御できるかにかかっていると言っても過言ではないほどだ。
そのことは、巫女自身も認めるところではあったのだろう。特に反論することなく、顔をうつむかせる。
(頃合いだな)
ここまでは当然の流れ。
策謀を巡らすことには長けていないアオでも、容易に見通せた展開だ。
「ならば、海から誘い出す」
「ゴズヌ……」
理想的なタイミングで口を開いた傀儡の男に、思わず釣り上がりそうになる口元を押さえる。
もう少し冷静に考えさせれば、アオの想定していない手を彼らが考え出すかもしれない。だから、最近信頼を得始めた傀儡の男に、彼らの思考を誘導させる。
――すなわち、魔獣との短期決戦の方向へ。
「浅瀬まで来れば、俺たち戦える。違うか?」
「それは、そうだが……」
いつになく強気なその言葉に、男たちは躊躇いの様子を見せる。
彼らをそうさせている最たる要因は、海の魔獣について大したことを知らないから生じる恐怖であろう。島のジャングルで歴戦の戦士を気取る彼らだが、実際には島の魔獣――見知った相手としか戦ったことのない連中だけ。
ザザの島という狭い世界で全てを完結させてきた弊害だ。
「私はそれに乗ろう」
やはりと言うべきか、真っ先に賛同の声を上げたのは水竜の巫女だ。
首領らしい威風堂々とした佇まいに、男たちが圧倒されたように仰け反る。
「彼らを助ける云々は抜きにしても、島のすぐ近くにたむろする連中を見過ごすわけにはいかない。分かるな?」
「それは……」
「ならば、今は絶好の機会だ。彼らの手を借りることができれば、私たちだけで対処するよりもずっと容易い」
魔獣の群れとの遭遇など、自然災害に等しいのだ。人の手によって調整できるようなものではない。運が悪ければその猛威に飲み込まれ、崩壊を待つばかりの運命となる。
だから、人手が少しでも多い今に訪れた幸運を利用するべきだ。
そんな巫女が掲げた理屈は、考えることが苦手な男たちの間にも伝わったらしい。恐怖を横柄な態度で誤魔化そうとしていた者たちが、静まり、密かな決意を瞳の奥に固め始める。
「……反論はないな?」
駄目押しをする巫女の言葉に、男たちは一斉に頷く。
続きを促すように視線を向けられた傀儡の男が、僅かに胸を張りながら口を開く。
「もうすぐ嵐が来る。嵐が来たら、あいつら何やるか分からない」
それは確かに事実なのだろう。
獣同然の行動をする魔獣なのだから、自然災害に際して行動を変化させることは容易に想像できる。
「だから、嵐来る前にやる。じゃないと、逃げるかもしれない」
「それは、そうか……」
「奴らが逃げたら、あいつらが船を出せなくなるかもしれねぇ」
嵐で魔獣が消えてなくなるわけではない。一時的に見えなくなったとしても、それは別の場所へ移動しただけにすぎないのが大半。
船員たちを無事に送り届けたい彼らからすれば、どこに魔獣がいるかも分からない海へ船員たちを放り出すのは、流石に許容できることではないのだろう。
男の言葉一つ一つに納得したように頷く村人たち。彼らの姿を見て、あまりに想定通りに進む事態にアオは笑いを堪えるのに必死だった。
「じゃあよ、囮は誰がやる」
その言葉に、村人たちの表情は固まった。彼らの目の奥には既に固い決意が浮かんでいたが、それとこれとは話が別。海上で一人、魔獣と対峙しなければならない囮役の危険性は、誰が言うまでもなく全員が理解できることだ。
だからだろうか。村人たち一人一人の表情を眺めた巫女が、おもむろに自分を指差した。
「巫女様っ!?」
「まさか……!」
どよめく村人たちに向けて、力強く頷いてみせる。
「あぁ、私が出る」
部屋の中が再び騒がしくなる。
その喧騒を置き去りにして、アオはしばし黙考に入った。
(少し計画とはずれるが……)
逆に好都合かもしれない。
本来の計画よりも自然な形で、巫女を喰らうこともできそうだ。
そう結論づけて、傀儡の男に指示を飛ばす。一瞬だけ虚ろな瞳になった男が、コクリと小さく頷く。
「心配はいらない。軽く挑発してくるだけだからな」
「……ご意思は固いようですね」
「どうか、ご武運を……!」
仰々しい礼をする男たちには、笑みを零しそうになるが。
何はともあれ、これにて計画の大半は成立した。あとは、決行を待つばかり。
「作戦は明日行おう。雲行きは怪しいが、まだ本格的な嵐は始まらないはずだ」
それは、アオの見立てとも一致している。
今にも雨が降り出しそうな天気で、実際に多少の雨は明日にも降るだろう。だが、嵐の本番と言うべき暴風雨が訪れるのは、早くて明後日か。
巫女の言葉に、村人たちが威勢のいい声を上げる。
彼らの背中をボンヤリと眺めながら、アオはザワザワと騒ぎ始める血を自覚するのだった。