第64話
それほど長い間地下室にいたわけではないのだが。玄関から外へ出て風を頬に感じたとき、ヤマトは思わず安堵の溜め息をついた。
先程まで衝撃的な事実を告白していたレレイは、妙にすっきりした様子でさっさと出て行ってしまった。どうやら、先日海へ出たときに見た魔獣について、村人たちに伝えに行っているらしい。
空は朝に見たときと同じく、灰色の分厚い雲で覆い隠されている。先日のアオの言葉が蘇るようで癪ではあるが、嵐でも来そうな雲行きの怪しさだ。
「どうしたものかな」
思わず、呟く。
レレイの口振りから察するに、レレイはヤマトに何かをしてほしいとは考えていないようだった。ただ、長らく自身の中に溜め込んできた葛藤や絶望を言葉にして吐き出し、誰かに聞いてほしかったように見える。本来であれば親兄弟や恋人に言うべきだとは思うが、この広い家に一人で暮らすレレイには、そんな間柄の者はいなかったのだろう。
ならば、ヤマト自身が何かをする必要は、実際のところはないのだろう。ただレレイの告白を聞いただけで、一応の目的は達したと言える。
だが――。
(放ってはおけないか)
迷わずにそう判断した自分に、内心で驚く。
レレイは命の恩人に等しい存在だ。だが、逆に言えばそれ以上の存在ではない。そう思っていた部分が、これまではあったのだが。
いつの間にやら、ヤマトの中でも大きな存在になっていたらしい。
(だが、具体的にどうする?)
その問いに直面して、ヤマトは思わず唸り声を漏らした。
「そんな難しい顔をしてどうしたの?」
「ノアか」
どうやら、ヤマトとレレイが地下室に行っている間に起き出していたらしい。顔に眠気や疲れの色は残っておらず、すっかり普段通りのようだ。
昨日までザザの島の風習に合わせる形で、女物の服をノアは着ていた。だが、やはり違和感が拭い切れなかったのだろう。海に流された際の汚れもすっかり落とした、大陸の服を身につけている。当然ながら男物だ。
先日までの格好も似合っていたが、やはり今の姿の方が見慣れていて安心感がある。
「少しな」
「厄介事?」
「そうかもしれない、か?」
応えながら、自分でも首を傾げてしまう。
ヤマトの胸中をざわめかせているという点では、確かに厄介事と言えるのかもしれない。だが、そもこの件はヤマトが首を突っ込んでいる事案だ。本来ならば、特別関与する必要のない事情。自ら進んで考えようとしているものを厄介事と言うのは、少しずれているように思える。
「話せること?」
「……すまない」
純粋な目つきで尋ねるノアに、ヤマトは首を横に振る。
レレイはわざわざヤマトだけに告白してきたのだ。それを勝手にノアに明かしてしまうのはまずかろう。
何かを探るように目を細めてヤマトを眺めたノアだったが、やがて諦めたように溜め息をつく。どうやらヤマトが口を割る気配がないことを悟ったのかもしれない。辺りを見渡して、口を開く。
「レレイはどこに行ったか知ってる?」
「村に下りた。用があるならばつき合うぞ」
「そっか」と興味なさげに返したノアは、念入りに辺りを見渡した後に小さく頷く。家の縁側に腰掛けるようにヤマトを促して、自分もすっと腰を下ろす。
「ここに来てからずっと、レレイが一緒にいたから。ようやく二人になったね」
「そうだな……?」
昨日の村で一瞬だけ二人にはなったが、すぐにアオと邂逅したから、その内にはカウントされないのだろう。
突然の話題についていけないヤマトに対して、ノアはそのまま言葉を重ねる。
「ヤマト。ここ最近ずっと考え事してたでしょ。ちょっと気になってたんだよ」
「ふむ」
「昨日までは、悩んでても楽しそうだったから放っておいたんだけどさ。今日のヤマトはなんか、様子が違ってたから」
「………」
「今朝何かあったんだよね。でも、それは話せないこと」
思わず口を閉ざしたヤマトに構わずに、ノアは推測を進めていく。
「ヤマトは自分のことで話せないなんて言わないからね。たぶん、レレイのことでしょ」
「さてな」
「悲壮感はあまり感じないから、そう深刻なことでもないのかな? だけど、放っておけることでもないみたい。レレイの個人的な悩みでも聞いた?」
やはり、鋭い男だ。
ノアと旅を初めてから何度目になるかは分からないが、今一度ノアという人間に感心させられる。他人を見る目が異様なほど優れている上に、そこからの推測が速く正確だ。ノアを相手に隠しごとができる気がしない。
何を答えてもドツボにはまる予感に襲われて、言葉を発することができない。そんなヤマトに苦笑しながら、ノアは肩をすくめた。
「何となく内容は分かるけど、それはいいか。ヤマトが悩んでいるのは、レレイの悩みをどう解決すればいいか、とか?」
お手上げだ。
降参を言うように肩をすくめて両手を上げると、ノアは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「流石だな」
「ヤマトが分かりやすいんだって。レレイも、ヤマトにだけは秘密の話をしちゃいけないのに」
それには頷く他ない。
散々にノアに暴かれてしまったのが今回の顛末だが、ヤマトとノアの立場が逆だったとしたら、ヤマトがレレイの秘密を看破できた自信はない。見知らぬ土地で惑うノアの姿しか見ていないからレレイは判断できなかったのかもしれないが、人間としての能力を見るならば、ノアはほとんどの面でヤマトに勝っているのだ。唯一抗える部分があるとしたら武術関連のみだが、それも果たして本当に抗えるのかどうか。
そんなヤマトの内心を知ってか知らずか。笑いながら、ノアはヤマトの顔を覗き込んだ。
「ここまで来たんだし、ちょろっと話してみたら? 一緒に考えれば活路が見えるかもよ」
「それは止めておこう」
ノアの提案には非常に心が揺れるものの、遠慮しておく。
元々、レレイがヤマトだからと明かしてくれた事情なのだ。それを本人の了承なしに語ることは、ひどくはばかられた。その大半を既に看破されてしまったとしてもだ。
「強情だねぇ」と呆れたようにノアは呟くが、そんなヤマトの返事を予想していたのかもしれない。特に思い悩む素振りも見せないまま、サバサバと言葉を発する。
「じゃあ考えの手助けでもしようか。ヤマトが悩んでるってことは、腕尽くじゃあ解決できないってことかな?」
「……そうかもな」
「ふぅむ。腕尽くでも何とかなりそうだけど、難しい? それとも、解決の糸口すら見出だせないのかな」
ヤマトの返答の微妙なニュアンスから、その答えを導いたらしい。
どちらかと言えば、今回の件は後者に当てはまるのだろう。島から出たいというレレイの願望を知り、それを阻む古の契約の存在を知った。ならば、レレイの願望を叶えるために契約破棄の可能性を探るのが自然ではあるが、そこで行き詰まる。契約を破棄させる手段に、皆目見当がつかない。
そんなヤマトの内心を知ったわけではないだろうが、ノアは口を開く。
「あまり難しく考えようとしない方がいいよ。世間で難題ってされてることって、前提とか結論とかをちゃんと並べられていないのが原因ってことがほとんどだから」
「……もう少し調べろということか」
なるほど。確かにそれは自然な流れなのだろう。
契約破棄の方法を探ったり、それに見当がつかないと嘆いてみせるよりも先にできることはある。まずは、古の契約とはどのようなものなのかを整理し直すのが肝要。
まだ何の解決策も浮かんでいないものの、目の前の景色が開けたような気がする。
(太古。この島に漂着した者と竜――恐らく青竜との間で、その契約は結ばれた)
嵐をまとう竜と言われていたのだから、きっと青竜のことなのだろう。そうでなくても、かなりの力を持った竜種であることに違いはあるまい。
「ノア。契約というものは、どのようにして守られる」
「うん? 何かを差し出さない限りは、何も得られない。そんな形が一般的だと思うよ」
いきなり何の話だと訝しむ表情になるものの、ノアは素直に答えてくれる。
きっとそれは、商人同士の間や商人と消費者の間で結ばれる契約のことだろう。確かに、誰であろうと金を差し出さない限りは、商人から商品を得ることはできない。
だが、レレイの祖先が結んだ契約とは、少し異なっているように思える。
「悪魔契約や使い魔契約については?」
「それ禁書使わないとできないんだけど……。代償行為に対して、一定期間の服従を約束するタイプがほとんどかな。もっと昔のオカルトな契約なら、不履行時に何らかのリスクを負わせる形が多かったみたいだよ」
「リスクか」
「契約者の魂を喰うとか。魂って何さって感じだけど」
水竜の巫女が鏡を守護するというお役目を果たす代わりに、竜はレレイの祖先に大いなる力を与えた。その力は、遥かな年月を経ても受け継がれて、今を生きるレレイにも宿っているらしい。その契約は永久に続いて――否。
一つ、契約を破棄する方法が浮かんだ。
(血筋が絶えたならば、あるいは……?)
しかし、それでは本末転倒だ。すぐに頭を振って、ヤマトはその考えを脳裏から追い出す。
レレイの一族に課せられた契約は、力を与える代償として鏡の守護を行うこと――正確には、島から離れずに鏡を見守り続けることが課せられている。加えて、契約を破られることがないように、レレイたちが島から離れられないように束縛している。
契約を結んだ竜は、よほどその契約が――鏡が大事だったのか。ヤマトの視点からすれば、あまり代償行為に見合っていない契約なのだが、契約締結の当時はそうでもなかったのだろうか。
ともあれ、かなり強固に縛られた契約によって、水竜の巫女は自身の力で破棄することができないでいる。
「――そうか」
ふと、とある案がヤマトの脳裏に浮かんだ。
強引なことこの上ない手段で、ノアに明かしたならば渋い表情をされてしまうかもしれない。レレイも、諸手を挙げて歓迎するとはいかないだろう。あまり最善手には思えない手段ではあるが、それでも、いざと言うときの切り札にはなるか。
ひとまず、打てる手が一つは浮かんだというところで、ヤマトの心境がずいぶんと軽くなったのは確かだった。