第61話
夜明け頃。
分厚い雲が空全体を覆い隠し、風も冷たさと湿り気を帯びている。それを肌で感じながら、ヤマトは一人、木刀を構えて佇んでいた。
(気の扱いに習熟する、か)
先日、レレイと対峙して以来抱き続けている目標を、もう一度確認する。
これまで、『斬鉄』や『疾風』を放つ際に僅かながら存在を感じる程度であった気を、自在に操る。それが叶えば、ただ身体を動かすだけでは到底不可能な動きも可能になるはず。とは言え、その道は険しい。ヤマト自身も、目標への取っかかりすら掴めずに足踏みをしているのが現状であった。
(言うは易く行うは難しとは、正しくこのことか)
嘆息しながら、木刀を腰元に当てる。ちょうど刀を鞘に収め、居合斬りをしようかという体勢。
腰を捻り、描くべき刃の軌跡を空想する。
「――『疾風』」
木刀を振り切る。
同時に、数多の鎌鼬が空を舞い、辺りの地面や木々を斬り裂く。木刀で振るったがゆえにその傷痕は浅いが、斬れ味そのものに変わりはない。
瞬く間に無数の斬撃痕を刻み込まれた森を前にして、ヤマトは木刀の構えを解く。
(やはり、掴めない)
目の前で起こった現象――『疾風』という技は、気によって起こされている。ただ刀を振るだけでは、このように鎌鼬を生み出すことはできない。『疾風』という技を放つと意識し、故郷の師から教えられた型をなぞって初めて、刀の一振りで無数の鎌鼬を生み出すことができる。
思えば、ヤマトは『疾風』という技を、ただ型をなぞる形でしか使っていないのだ。多少の体勢の変化はあれども、型を応用することで対応している。だから、『疾風』がいかなる原理で使えている技なのかが分からない。
(だからこその技、だからこその型ではあるが)
『疾風』という技を無から作り出そうとすれば、果てしない鍛錬が必要となる。刀の扱い方に加えて気の扱い方、そして刀の斬撃に気をまとわせることを覚え、最後に気を放つことを習得しなければならない。その道のりを全員が辿ろうとすれば、人は技一つを覚えるだけで生涯を費やしてしまう。
だから、技という形に押し込める。理屈や原理を知らずとも、その型をなぞれば容易に再現できるように、技という一連の動作を作り上げている。その甲斐あって、ヤマトのように厳密には気の扱いに習熟していない戦士であっても、気を使った攻撃を繰り出すことが可能になっている。
(だが、そこで止まってはいけない)
理屈や原理などの基本を飛ばして、技という実戦的な力を身につける。それはきっと、ある程度の強さを得るためならば効率的な手段なのだろう。
しかし、それでは足りない。
幾ら多種多様な技を覚えようとも、それは先人が歩いた道をなぞっているにすぎない。武の頂を目指すのならば、そこから逸脱する必要が――自ら技を編み出す必要がある。そのために、数多の技の根源にある基礎を、身につけなければならない。
(――とは言ってみるものの)
先に述べた通り、何も得られていないのが現状だ。
闇雲に『斬鉄』や『疾風』を振り回したり、その発動寸前の状態を保ってみたりもしたが、一向に手がかりは掴めない。
端的に言えば、行き詰まっていた。
「どうしたものか」
「そこにいるのは、ヤマトか?」
頭上から声をかけられて、ヤマトは視線を上げる。
ヤマトの辺りを囲う森の上、木々の枝にぶら下がるようにして、レレイがジッとヤマトを見つめていた。
「レレイか。もう大丈夫なのか?」
「すまない、昨日は心配をかけたようだな」
そう言いながら、レレイは枝から飛び降りる。
傍目から見る限りでは、その姿に何の異変もない。そのことに少し安堵しながら、ヤマトは昨日のことを思い出していた。
(原因は、海に出たことか)
海の魔獣を探るために船を出した一行だったが、沖合いまで進んだところで、不可思議な波風によって島へ引き戻されてしまった。いるのかも分からない精霊の仕業を疑いたくなるような光景であったが、それを見たレレイは顔をひどく青ざめさせ、逃げるように自室へ帰ってしまったのだ。
何か事情があるのだろうとノアと相談したヤマトは、結局昨日からレレイに触れないようにしていたのだが。
(ひとまずは大丈夫そうか)
今のレレイの顔色は、普通そのものだ。
目の奥にどこか引っかかる色合いが滲み出ているものの、昨日のことを思えば、そのくらいは当然であろう。
「鍛錬の途中か。邪魔したか?」
辺りの木々に刻み込まれた斬撃痕を見渡しながら、レレイが尋ねる。
「いや、ちょうど行き詰まっていたところだ」
「ふむ。まあ狩りの技は容易く得られるものでもないから、気に病むこともあるまい」
「道理だな」
道理だが、ときに道理に反する動きをしてしまうのが、人の心というものだ。
モヤモヤと胸中に立ち込める焦りを払拭するように頭を振りながら、ヤマトは口を開く。
「また鍛錬につき合ってくれないか? どうにも、一人だといらないことばかりが思い浮かぶ」
「うむ。そういうことならば、喜んで引き受けよう」
表情には出していなかったものの期待していたのか、レレイの声の調子が上がっている。
零れそうになる笑みを堪えながら、ヤマトはレレイと距離を取るように足を動かす。
「条件は昨日と同じ。場所は変わっているが、何を使っても構わない」
「うむ、心得た」
レレイの返事を確認してから、ヤマトは木刀を正眼に構える。
つい先程まで鍛錬をしていたとは言え、身体にはまだまだ疲れは溜まっていない。むしろ、何かと悩みながら型をなぞる鍛錬ばかりしていたからか、早く刀を振れと身体がせっついているような気すらしてくる。コンディションは万全と言っていいだろう。
対するレレイも、動きに淀みはない。ある程度の距離を離したところで、辺りを見渡しながらすっと腰を落とす。
「開始の合図は?」
「昨日と同じだ」
懐から硬貨を取り出して、おもむろに放り投げる。
空をクルクルと硬貨が舞う。その間に、ヤマトは戦術を組み立てる。
(地の利はあちらにある)
地面に足をつけなくてはまともに剣も振るえないヤマトに対して、レレイは周囲に生えている森の木々全てを足場にできる。普通に考えれば、この状況はレレイにあまりに有利すぎて、ヤマトが試合をしても勝ちは見込めないだろう。
だが、今は違う。
(やはり、迷いがあるか)
相手として対峙して、先程よりも鮮明に理解できる。
目の前にいるレレイは、一目見ただけでは分からなかったものの、昨日の不調を引きずっているようだ。圧倒的な身体能力を活かした怒涛の攻めが持ち味だというのに、その体勢は中途半端。意識も完全にはヤマトに集中できておらず、何か別のことを考えているようだ。
普段ならば、そうした相手との試合はさっさと終わらせるに限るのだが。
(恩があるからな)
ただ突き放してしまうのでは、水臭いだろう。
ノアであれば真摯に相談に乗るのかもしれないが、ヤマトにそんな芸当はできない。できるのは、愚直なほどにただ刀を振ることのみ。――だから。
(多少は覚悟してもらおうか――?)
チリンッと音を立てて、硬貨が地面に落ちる。
それと同時に動こうとするレレイ目がけて、ヤマトは木刀を構えたまま、殺気を放った。
「―――っ!?」
「動きが止まっているぞ!」
足を踏み出すのと同時に、木刀は上段へ。
数歩で間合いを詰めて、木刀を振り下ろす。
「シャ――ッ!」
「うっ!?」
脳天をかち割るほどの威力を込めた一撃を、レレイは大きく飛び退って逃れようとする。
(まだ足りないか?)
レレイの目には動揺が浮かんでいる。すなわち、余裕があることの証左。
木刀を振り切った勢いのままに駆け続ける。下段から、刃を立てて軌跡を空想する。
「『斬鉄』!」
その速度はおよそ人の目に捉えられるものではなく、真剣ならば何物をも斬り裂くために、間合いに入ったならば絶対不可避の一撃。
その危険性を直感したのだろう。レレイは大木の裏に身を隠そうとするが。
「――斬るッ!!」
鉄で鉄を斬り裂く技なのだから、木で木を斬るのもまた道理であろう。
目にも留まらぬ速さで空を裂いた木刀の切っ先は、大木にめり込み、そのまま真っ二つに斬り捨てる。
斬られた木がずれて、視界が開ける。数歩ほど前へ歩けば届く場所で、レレイは目を見開いて立っていた。何をするつもりだったかは知らないが、この間合いから逃れられるような愚は犯さない。
木刀の柄を胸元へ。切っ先はレレイに向けて、半身になる。踏み込みと同時に、腕と合わせて一本の槍と化した木刀が、真っ直ぐに突き出される。
(まずは一つ)
胸元目がけて放たれた高速の突きに対して、レレイは半身になることで切っ先から逃れる。
木刀は空を切ったが、レレイの体勢は既に崩れている。
(次に二つ目)
突き出した木刀は既に引き戻している。反撃の隙間などは与えない。
顔面に向けて突きを放つと、レレイは顔を逸らし、紙一重でそれを避ける。――否、避けさせた。
(これで最後――)
体勢は崩れ、顔を逸らしたことで視界は塞がれている。
そんな隙だらけのレレイの中心――腹部目がけて、三段目の突きを放つ。
「―――!!」
直撃する。
そう予期した刹那、辺りの空気が一変した。
惑うことなく突き出されたヤマトの木刀を、レレイは目で捉えないまま膝で蹴り上げる。起死回生の一打で突きを逃れたことに一息つく間もなく、膝蹴りの勢いも乗せて身体を空へ。
「くっ!?」
咄嗟に後退る。
直後、凄まじい勢いで放たれたレレイの回し蹴りが、一瞬前までヤマトがいたところを薙ぎ払った。
無茶な体勢から放った大技。にも関わらず、レレイは体勢を崩すことなく、天才的な体捌きですんなりと着地してみせる。
「――ははっ、ようやく来たか」
思わず、ヤマトは笑い声を上げる。
それをまるで聞こえていないかのように無反応を貫いたレレイは、ジッとヤマトの出方を伺っていた。
(さて。仕切り直しだな)
先程までの迷いは、ひとまず彼方へ置き去りにすることができたらしい。
完全に試合へ没入した様子のレレイを見てそれを確信してから、ヤマト自身も目の前の強敵に意識を集中させた。