第60話
空には満月が輝き、大地を淡く照らしていた。
目の前に広がる砂浜に穏やかな波が打ち寄せる。一定のリズムで淡々と繰り返される波打ち音に耳を澄ませながら、銀髪の男――アオは、ただぼんやりと海を眺めていた。
(今のところは順調)
自分の髪を使って作り出した分身は、当たり障りのない言動で村の中をすごしている。他方、アオ自身は村に近寄ろうともせず、日頃は人気のないところで所用を済ませているようにしていた。その甲斐あってか、今この島でアオが何をしようとしているか、知っている者は皆無だ。
(近い内に決行できそうか?)
考えながら、アオは島の奥を眺める。
人の目であれば少し先を見通すこともできない夜闇に紛れ、ジャングルの中でも一際高い場所にその家は位置している。この島を治める水竜の巫女の家だという。
水竜の巫女がどんなことをしているのかは興味がない。ただ、一目見た瞬間に、アオはその巫女が極めて重要な存在であることに気がついていた。あいつは人という下等生物でありながら、その身に―――を宿している。
「水竜の巫女、言い得て妙だな」
クククッと忍び笑いを漏らす。
瞬間、月光に照らされたアオの影がグラリと揺らめく。それに気がついて、アオは咄嗟に笑いを引っ込めた。
「まったく。忌々しい結界だ」
人の目、魔獣の目には捉えられていないらしいが。
夜の大海原に厳かにそびえ立つ、半透明な結界をアオは睨めつける。外から来る者を阻むのみならず、内から出ようとする者をも阻む結界。加えて、内側にいるアオの力を弱める効用すら持っているらしい。完全に内と外とを遮断しているそれは、結界としては確かに一級品のものであろう。
おかげで、アオ自身もこの島から出ることができず、人に紛れなければならなくなっている。あれさえなければ、こんな島に長居するつもりはなかったと言うのに。
(だが、それももう少しの辛抱か)
結界を睨みつけながら、アオはこの島に来たときのことを思い出す。
きっかけは、大海原を進む一隻の船を見かけたことだろう。ただ怒りの赴くままに海を荒らし回っていたアオは、その船を見た瞬間、当然のように襲いかかり壊滅させた。腹の足しにもならないが、得た戦利品を喰らおうとしたときに、そいつを見つけた。
「――アオ様」
「来たか」
声をかけられて、アオはそちらの方へ意識だけを向ける。顔を向けるほどの相手ではない。
下等生物一体一体の区別などはつけないが、少し前に手を組んだ連中が利用していた男。人にしては大柄だが、その性根は下等生物らしく特筆することもない平凡な者だったが、海でアオが拾い上げてから、その利用価値は増している。
「予定通りに事は進んでいます。今日、魔獣を見つけたそうです」
「―――」
その報告に、アオは頬を釣り上げた。
ここまでは全てが計画に沿って動いている。結界の中から発揮できる絞りカスのような力だったが、どうにかアオが期待した通りに働いてくれたらしい。
「明日に報告がなされるでしょう」
「ならば、分かっているな?」
「はっ」
すぐさま返ってきた返事に、アオは海を眺めながら頷く。
今は傀儡同然に操っている男から、アオはこの島についての情報を得た。すなわち、水竜の巫女と名乗る統治者がいるという情報だ。下等生物の一人が竜に関する名を持ったところで、微塵も興味は湧かなかったが、同時に伝えられた島の伝説を聞いて、一度来てみることにしたのだった。
ほとんど期待せずにやって来たアオだったが、この島を覆い隠すように張り巡らされて巧妙な結界を目の当たりにして、俄然その興味を惹かれた。意気揚々と結界を破って入り込んだところで、この有り様。元々の力は大きく制限され、下等生物を使役しなければ計画を実行することもできない、何たる無様なことか。
本当に、ここ最近はろくな目にあっていない。大陸で“あの男”と戦ったときが、全ての原因だ。
(必ず後悔させてやる……ッ!!)
怒りのあまりに覇気が身体から漏れかけたところで、それを留める。
今は体力の消耗は極力抑えるべきだ。すぐに来る戦いのときのためにも。
「失せろ。目障りだ」
「失礼します」
男の気配が消えていく。
それだけを感じながら、アオは空に浮かぶ満月を見上げた。そのまま、“あいつら”の気配を探る。
(近いのか、遠いのか。それも分からなくなってる)
全ては、島の周囲に張り巡らされている結界のせいだ。
大陸で“あの男”に敗北を喫して以来、アオの意識には常に“あいつら”の存在がつきまとっていた。アオたち―――にとっては神に等しく、抗うことなど不可能である存在。“あいつら”に目をつけられたら最後、死を覚悟するより他の道はないとまで言われる存在だ。
そう語られるに相応しく、大陸を離れたアオにつきまとう視線は、その視線の主の力量を察してしまうほどに、尋常ではない覇気を伴っている。アオが海を移動していたときは、日に日に近づいてくる気配の存在に怯え惑ったものだ。
(だがそれも、ここまでだ)
海を渡っているときに、本能的に理解していた。自分は奴らに抗うことはできず、ただ死を待つだけの存在なのだと。
だが、それから逃れるため、一筋の光明を見出した。
それを知らせたのが先程の男――下等生物だということは気に入らないし、結局下等生物を利用して力を得ようというのだから、癪に障るものはある。だが。
(躊躇ってる時間はないな)
最後に感じていたときの記憶を探れば、直に“あいつら”の一頭が、アオの元までやって来る頃合い。いや、もしかしたら既に到着しているのかもしれない。
なのに手を出してこないのは、単なる気紛れなのか、この島の結界ゆえなのか。いずれにせよ、そう長く保つものでもあるまい。
「……早ければ明後日か」
そこまで行けば、あの女――水竜の巫女を喰らうことができる。それさえ叶えば、アオも“あいつら”と対等に渡り合えるようになるだろう。
(障害になりそうな者は、奴らか)
この計画に失敗は許されない。ゆえに、アオは何度も計画を吟味する。
村人と船員は全て、アオの手中にある。未開の地に住む下等生物の蛮族なのだから、アオが少し手を下してやれば、いとも容易く操作することができよう。だから、問題はそれ以外。アオが襲った船から逃れ、自力でこの島へたどり着いた二人組。
片方は、見たことのない剣を腰に差している男。下等生物にしてはそれなりの力を感じるが、所詮はその程度。今の状態でやり合ったとしても、容易く滅ぼすことができるだろう。
もう片方は、女の顔をしていながら、身体には男の気を宿した者。その有り様には些か興味は惹かれるが、力量は大したものではない。先の男以下であるのだから、計画の障害にもなるまい。
個々を別々に相手するのならば、特に考える必要もない程度の障害。だが、水竜の巫女とも一丸になって押し寄せてくるならば、どうなるかは分からない。
(正面から行くのは不確実)
彼らこそが、アオが即座に水竜の巫女を喰らいに行かない理由。失敗が許されない状況なのだから、少しでも不確実そうならば避けるべき。
(ゆえに、あの男を使って巫女を喰らう)
理想は、巫女が自ら身を差し出す形を作ることだ。
男から聞き出したことで、この島のことについては熟知している。結界で閉ざされた島であるがゆえに、そこに住む者の気質は変わることがなく、読みやすい。
何度も頭の中で計画を繰り返してから、アオは口元を歪めた。
「あと少し。あと少しの辛抱だ。そうすれば我は……!」
満月が直上に差しかかり、夜が更けていく。
西方の空から僅かに湿り気を帯びた風が流れてくるのを感じながら、アオは怪しげな双眸で海を眺め続けていた。