第56話
夜の名残を感じさせる朝の風が、ヤマトの頬を撫でていった。
刻限はまだ陽の出直後。起き出した獣や鳥たちのざわめきが木霊するのを耳にしながら、レレイの家の裏にある広場にヤマトはいた。
湿り気と爽やかさが同在する涼風に心を落ち着かせて、一人、木刀を正眼に構えて佇む。
(気を自在に操るか)
それは、昨日レレイの戦い振りを見て思いついたこと。
小手先の技術や戦いの駆け引きを伸ばすことに腐心してきたヤマトだったが、人の身体が持ち得る限界について、認識が誤っていたらしいことを悟った。すなわち、かつての自分が設定した身体能力の限界も、やり方次第で越えられる可能性を見出した。
そのやり方の一つが、気の操作だ。
だが、その道は早くも困難の壁にぶつかっていた。
(気とは、いったい何なのだろうな)
故郷の師の教えでは、人のみならず万物に宿る根源の力という話であったが。正直よく分からない。
それでも、ヤマトが気の存在を確信できているのは、師より習った技を放つ際に、確かに魔力とも素の体力とも違う、得体の知れない力が漏れ出ている自覚があるからだ。細かな理屈は分からないけれど、身体を動かすのみでは到底再現できない技――アルスの街でグランツやロイに放った『疾風』などは、きっと気の力によるものなのだと思える。
ノアに言えば、また「オカルトだ」と笑われてしまうかもしれないが。
(ひとまず、試してみるか)
木刀を腰元へ。あたかも真剣を鞘へ収めたような体勢に。
心を落ち着かせ、腹に力を込める。腰を捻りつつ、木刀の柄を握り込む。
「――『疾風』」
居合斬り。
刀を振り抜き、空を斬る。明らかに刀の射程を越した先の木の幹へ、風の斬撃痕が刻まれた。
「やはり、鈍っているな」
技を放った感覚に、ヤマトは顔をしかめる。
昨日の時点である程度覚悟していたことではあったが。激しい嵐の海を流されたことは、確実にヤマトの身体を痛めつけていたらしい。『疾風』を一度放っただけだというのに、身体が悲鳴を上げている。それを堪えて放った斬撃も、脳裏に描いた理想の軌跡を少しもなぞれていない。
はっきり言ってしまえば、愕然としていた。これまで積み上げてきたものが、気がつけば崩れ去っていたことに衝撃を隠せない。
それでも。
(やるしかない)
この道を歩もうと決意したのだ。ならば、立ち止まっている暇などない。
木刀を再び正眼に構える。
(何から始めるかな)
まずは、身体の調子を取り戻すところからだろうか。
それとも、一足先に気の扱いに習熟しておくべきだろうか。
僅かな逡巡。惑う意識の狭間へ滑り込むように、その声が届いた。
「ヤマト、何をしているんだ?」
「レレイか」
家から覗き込むように、レレイが顔を出していた。まだ朝早い時間ではあるが、その顔に眠気の面影はなく、意識もはっきりとしているようだ。
ひとまず、『疾風』を放った衝撃で叩き起こしたわけではないらしいことに安堵する。
構えを解き、手にしていた木刀を見せながらヤマトは口を開いた。
「鍛錬だ」
「ほう?」
その言葉に、レレイが目を輝かせた。
思えば、レレイはこの島から外へは一歩も出たことがないのだろう。ならば自然、他人の鍛錬姿を見る機会もないのかもしれない。
「見ていても構わないか?」
「あぁ、無論だ」
見られて減るようなものではない。
それに、第三者の目というやつは、それが例え素人のものであっても貴重なものだ。レレイという武に秀でた者の目であるならば尚更。
そう考えて木刀を構え直したヤマトだったが、ふと考えを改める。
「いや、せっかくだ。レレイも参加しないか?」
「ふむ? 邪魔ではないか?」
「そんなことはない。一人の鍛錬も重要だが、相方がいるならば相応の鍛錬も可能だ」
ヤマトの言葉に、遠慮がちな表情ながらも瞳の奥に期待の色を浮かべて、レレイが頷く。
それを確認して、ヤマトは再び口を開く。
「寸止め。範囲はこの広場一帯。使うものに制限なし。それで試合をしよう」
「……何でもありだが、相手を傷つけないというところか?」
レレイの言葉に首肯する。
「傷つけないか、少し難しそうだな」と小さく呟きながらも、レレイは楽しげな様子だ。他人と鍛錬をするということが、よほど楽しみらしい。
(ならば、期待を裏切らないようにしなくてはな)
昨日の様子を見た限りでは、レレイは相当な使い手――少なくとも身体能力については、ヤマトを凌駕している。だから、辺境の島で暮らしていたレレイが技の応酬にどれほど対応できるのか、ヤマトが喰らいつけるとすればそこだけだろう。
ひとまず、自分がやることを整理する。
「開始の合図はどうする?」
「こいつを投げる。地面についた瞬間に開始だ」
懐から硬貨を一枚取り出す。故郷にいた頃は開始の合図も何もなく、適当に試合を始めていたものだから、大陸に来てから覚えた方法だ。
レレイは硬貨にも物珍しそうな顔をしていたが、ひとまずそれを堪えて頷く。
「分かった」
「なら、投げよう。位置はいいか?」
首肯を確認して、ヤマトは硬貨を放り投げる。
キラキラと陽光を反射させながら空を舞う硬貨。それを視界の隅に捉えながら、木刀を構える。正眼、対応する構え。
(さて。どこまで喰らいつけるかな――?)
チリンッと音を立てて、硬貨が地面にぶつかる。
それと同時に、レレイが飛び出した。
やはり、速い。その速度と出方をある程度予測していなければ、この一撃に対応することなど不可能であっただろう。
「ふっ!」
後退り、間合いを離す。それと同時に木刀を上段へ構える。
このまま突っ込んでくれば、レレイの拳がヤマトを捉えるよりも早く、木刀の斬撃がレレイを捉える。
それを直感したのか、レレイが突進の軌道を咄嗟に変えた。斬撃をかい潜るように、ヤマトの脇を抜けるルート。
「ちっ!」
対応は間に合わない。
下手に斬撃の軌道をぶらせば、いらない隙を作ることになる。レレイのような強者を相手に、それは許されない。
結局木刀を振らないままに、ヤマトは一気に後退った。レレイとの間合いを離して、仕切り直しを図る。
「ふぅ……っ」
深呼吸。乱れそうになる呼吸を必死に整えて、レレイの姿を正面に捉える。
先程の突貫に対処してみせたからか、今のレレイは慎重な面持ちだ。どのように仕掛けるのか、策略を練っているのかもしれない。
この広場には、先日の森の中のような、上空を駆けるための足場となるものがない。だからこそ、ヤマトもレレイの動きに喰らいつくことができている。
(だが、それもいつまで保つか)
次の一手が凌げれば上々。それでも、そう遠くない内にヤマトはレレイの攻めを凌ぐことができなくなるだろう。
火を見るより明らかな結論を、わざわざ検討する必要はない。ヤマトが取れる手段は一つだけ。
「シ――ッ!」
疾駆。上体と脚の動きを別々にすることで、実際の速度以上の速さで間合いを詰める。
ぐんと間合いへ滑り込むような動きに、レレイは面食らった様子を見せる。その胸元目がけて、木刀の切っ先を突き出す。
「くっ!?」
「まだ行くぞ!」
一撃目は、レレイが咄嗟に身体を捻って避けてみせた。
続け様に放った二撃目に、レレイは無理に上体を泳がせながら、木刀の軌道を回避する。
三撃目。地面へ倒れ込みそうになるレレイに、逃れる術はない。
(捉えた!?)
勝利を確信しそうになる、一瞬の気の緩み。
それを突くように、目の色を変えたレレイは抗う。肩から、後頭部を支えるように地面へ手を突き出し、両手を支えに後転する。その勢いのまま、刀を握るヤマトの手を蹴り上げた。
「ぬッ!?」
刀を強く握っていた弊害か、咄嗟に手放すことができず、ヤマトの上体がガラ空きになる。
対して、後転を経て両足を地につけたレレイは万全の体勢だ。足に力を込めて、今にも飛び出せる構えを取っている。
(間合いが近すぎる!)
それをレレイも直感しているらしく、愚直に真っ直ぐ突貫するつもりらしい。その目に迷いはない。
胴の動きで捌けるような間合いではなく、刀を戻すには近すぎる。ゆえに。
「ふんっ!」
「なっ!?」
肘打ち。同時に膝蹴り。
突進するレレイの頭部を挟むように、肘と膝を合わせる。合わされば骨をも砕く、文字通り必殺の一撃。
近すぎる間合い。ゆえに、見てからの対処は間に合わない。
そうヤマトは踏んでいたのだが、レレイの身体能力はその予想を越えていたらしい。咄嗟に踏み留まったレレイは、仰け反るようにしてヤマトの攻撃を避けた後、間合いの外から右脚を振り上げた。全身を捻って放つ、回し蹴り。
咄嗟に木刀を盾にして、飛び退る。蹴りに捉えられた木刀はヤマトの手を離れて、クルクルと空を舞っていく。
(焦ったか?)
蹴りが直撃していれば危うかったが、外れた今、レレイはヤマトの目の前で大きな隙を晒している。
「好機!」
踏み込む。刀は手を離れているから、拳を固める。
片脚は蹴りを放った直後で空にあり、その勢いで身体が泳いでいる。レレイに、ヤマトの攻撃を対処する方法はない。――いや。
「ふっ!!」
地面で身体を辛うじて支えていた左脚もまた、空を舞う。回し蹴りを放った余力を乗せた、二段目の蹴り。
(これは、無理か――?)
予想を完全に越えていた。
対処方法を吟味する余裕もないままに、頭を守るように腕を掲げる。直後に、衝撃が腕を貫通して側頭を打つ。
「ぐぅっ!?」
視界がぐらつく。
立っていることもままならず、ヤマトは数歩よろめき、そのままの勢いで膝をついた。
「す、すまない! 大事ないか?」
「あぁ、少しふらつく程度だ」
慌てて構えを解いて近づくレレイに、手を振って応える。
頭を何度か振れば、すぐにグラグラと揺れていた視界も落ち着く。乱れていた呼吸を整えて、ヤマトは溜め息をつく。
「流石だな。もう少し喰いつけるかと思ったんだが」
「いや、私の負けだ。力を制御することができなかった」
どうやら寸止めという取り決めを破ったことを気にしているらしい。殊勝な面持ちでうなだれているレレイに、ヤマトは思わず苦笑する。
「気にすることはない。大した怪我でもない」
「そうか……?」
立ち上がり、無事であるとアピールする。
そうすることでようやく納得してくれたのか、尚も若干心配げな表情を浮かべながらも、レレイは頷いて立ち上がった。
「しかし、昨日でも分かっていたが、レレイはかなりの使い手だな」
「そうか? そなたの方こそ、凄まじいものを感じたが」
「それならば幸いだ」
互いに謙遜し合っていることに気がついて、思わず笑みが零れそうになる。
結局、気の扱いについて手がかりを得ることはできなかったが、元より急いでいるわけでもない。それよりも、自分を越える実力の持ち主と出会えたことを喜ぶべきだろう。
「――あ、終わった?」
ふと、家の中からノアの声が聞こえた。
そちらへ目をやれば、昨日と同様の服を着たノアが覗き込んでいる。気配を少しも感じられなかったが、待たせてしまっていたらしい。
「何か用か?」
「うん、お客さんだよ」
客。ここに来るとすれば、村に住んでいる者か、先日に流れ着いた船員たちか。
そんな予想をしながら、ヤマトは額に滲んだ汗を拭い取った。