第54話
風通しのよかった集落を抜けて、再び空気の澱んだ森の中。
湿気と熱気が同時に充満している木々の間を、ヤマトたちは汗水垂らしながら歩いていた。
「暑い……」
「言うな。余計に暑くなる」
身体にまとわりつくような不快感のあまりに、ヤマトは思わず顔をしかめる。
心頭滅却すれば火もまた涼し、などという言葉がある。確かに、何かに集中しているときは暑さ寒さを忘れることはできるが、それを平時から続けることは到底不可能だというのがヤマトの考えだ。人の思考力や集中力には限界があり、訓練でその持続時間が多少伸びたとしても、それを永続させることは不可能。
要するに、いかに鍛錬した者であっても、この暑さには耐えられまいということだ。
男物の衣服――露出が多いために比較的涼やかな服を着たヤマトですら、こうなるのだ。女物の、大陸でも普通に着られるような衣をまとったノアは、ヤマトとは比べ物にならないほどの暑さを感じているはずだ。
目の焦点が合わず、どこか遠くを見つめる目つきになってしまったノアを心配してか、レレイが口を開く。
「もう少しすれば海に出る。そうすれば、多少はマシになるはずだ」
「海かぁ、それはよさそうだねぇ」
避暑地の典型例として挙げられるのは、高地か海辺の二つ。陽射しは厳しいかもしれないが、海で涼を取ることはできるだろう。
幾らか生気を取り戻したノアがレレイの方へ視線を転じる。
「ここはいつもこんな暑さなの?」
「そうだな。この時期はいつもこうだ」
「うんざりしない?」
率直な言葉に、レレイは苦笑しながら頷く。
「だから、私は夏場はあまりこちらに寄らないようにしている。家の反対側には、すぐ海があるからな」
「生まれたときからだから慣れる、ってわけでもないのか」
「そんな者はいまいよ」
大陸から遥かに南へ下ったこの地だからこそ、夏場の暑さは険しい。
鬱蒼と生い茂るジャングルには、危険な虫や植物が多い。素肌を露出したために致命的な傷を負ってしまう危険があるにも関わらず、男衆は布面積の少ない服を身につけているのは、この暑さ対策こそを重要視しているからかもしれない。
「ふむ」と密かに得心していたヤマトだったが、ふと辺りを見渡す。
鬱蒼と生い茂り、少し遠くすらも見通すことのできないジャングル。その空気が、ザワザワと蠢いているように感じられる。
「ほぅ。そなたらも気がついたか」
先程までの暑さに弱ったところはどこへやら、真剣な目つきで辺りを警戒し始めたヤマトとノアに、レレイは感心の声を漏らす。
レレイには応えないまま、ヤマトは腰元の刀に手を伸ばす。辺りに生い茂った木々が邪魔だが、どうとでもなる範疇だ。
隣のノアも魔導銃を抜いたのを確認して、ヤマトは口を開く。
「数が多いな」
「村の者が一斉に通り抜けたからだろう。眠っていた獣も目を覚ましたらしい」
「ちょっとここで迎撃し切るのは難しいかな?」
木々の奥から剣呑な視線が飛んでくる。
姿を直視していないから正体は分からないが、ギラギラと殺意を隠そうともしない野性的な視線から察するに、魔獣だろう。
気配を察知したのが早かったから、まだ取り囲まれてはいない。すぐに行動すれば、楽に囲いを抜け出すことができる。
そう結論づけたヤマトが口を開きかけたところで、レレイが首を横に振る。
「森の中を下手に動き回れば、余計な獣も惹きつけることになる。ここで迎撃すべきだ」
「うーん、まあそれもそうか」
森について熟知したレレイの判断だから、それに従うべきだろう。
計画を変更し、ヤマトは即座に頭の中で戦術を組み立てる。
「木を斬り倒しても構わないか?」
「余計な獣を呼ぶ可能性がある。避けた方がいいだろう」
「そも、可能なのか?」という心の声は無視して、レレイの言葉に素直に頷く。
人の手が入っていない密林というのは、基本的に魔獣の巣窟なのだ。余計な物音や騒動を起こせば、近隣の魔獣の目を覚まさせ、やがては対処し切れないほどの数を呼んでしまう。
とは言え、そうなると戦い方は限られる。
「――来るぞ」
魔獣たちの包囲は既に完成し、徐々にその輪を縮め始めている。
腹をくくるしかない。
今朝に目を覚ましたばかりで、身体はまだまだ本調子からは程遠い。そんな状態でも相手取れる程度の魔獣であればいいが。
そう願うヤマトの前に、その魔獣は姿を現した。
「猿?」
「そのようだ」
姿は獣の猿とほとんど同じ。だが、感じられる禍々しい気配は、紛れもなく魔獣のものだ。
胴の短さの割に、手足がひどく長い。人と似た造形をしているからと言って、人を相手するのと同様に戦おうとしてしまえば、痛い目を見ることになるだろう。身体は精悍の一言で表せる。鋭い爪や牙も脅威ではあるが、その拳や足から繰り出される打撃の威力もまた、侮るべきものではない。
そして何よりも厄介なのが、辺りの木々の存在だ。
(地の利は向こうにあるか)
木々を強靭な腕と鋭利な爪で掴み、猿型の魔獣はまるで空を歩くかの如く、頭上をスルスルと動き回っている。
地上に足をつけなくてはならないヤマトたちからすれば、四方のみならず頭上も警戒しなければならないのは、非常にやりづらい。
思わず歯噛みしたヤマトだったが、ふとレレイが屈伸運動をしているのに気がつく。森に入った辺りから気になっていたことだが、レレイは何の武器も持っていないようだ。
「レレイ、どうするつもりなの?」
「私のことは気にしなくていい。二人は、向かってくる獣の対処に専念してくれ」
「もっとも、一匹たりとも通すつもりはないが」と、レレイは獰猛な笑みを浮かべる。
突然に気配が豹変したことに目を見開くヤマトの前で、レレイはゆっくりと腰を落とす。ほとんど地を這うような体勢。まるで駆け出す寸前の獣のような姿。
「シ――ッ!」
気迫の声を残して、レレイが飛び出した。
「なっ!?」
「速いっ!」
残像が目に映るほどの速度に、ヤマトとノアは揃って目を剥く。およそ人が出せるスピードではない。
その驚愕は魔獣たちの方も同様だったらしい。何が起きたのか分かっていない様子の魔獣の横っ面へ、レレイは駆ける勢いそのままに拳を叩きつけた。
『―――ッ!?』
悲鳴。空を舞ってから木の幹へ魔獣が叩きつけられる。
その行く末を見届けないままに方向転換したレレイは、続けざまに二匹目三匹目へ正拳突きと回し蹴りを喰らわせる。
そこまでやられたところで、魔獣たちも何が起こったのかを理解したらしい。威嚇の声を上げながら、レレイ目がけて殺到する。
「それでは遅いな」
先頭を駆ける魔獣の顎を蹴り抜いてから、レレイは跳躍。先程魔獣たちが披露した曲芸染みた動きを再現するが如く、木々を支えにして、目にも留まらぬ速度で飛び回る。
「すご……」
「尋常ではないな」
もはや感心の溜め息をつくことしかできない。
ヤマトにとって、この場所は魔獣を相手取るには地の利に恵まれなかった。だが、レレイはあの魔獣たちを相手に、完全に地の利を得ているようだった。
目で追うことがやっとなほどの速度で飛び回るレレイの手によって、魔獣たちが次々に空から叩き落とされる。全ての個体が的確に急所を抜かれているようで、地に倒れ伏す魔獣の全てが白目を剥いている。
圧倒的だ。レレイに蹂躙される魔獣たちの方に、同情心が芽生えてしまうほどに。
刀を収めようかと悩んだヤマトの感覚が、チリチリと焼きつく。
「ほぅ?」
「あ、こっちに来るみたいだね」
レレイに勝利することを諦めたのだろうか。魔獣の一匹がギラギラと殺気をみなぎらせながら、ヤマトとノアを睨めつけていた。
先程からレレイの戦いを静観していたヤマトたちの方が、与しやすいと考えたのだろうか。そのことを心外に思いつつも、ヤマトは刀を構えてノアの前に出る。
「僕が撃ってもいいんだけど?」
「銃声が大きい。やめておけ」
「それもそうか」と納得したように頷いて、ノアが銃を下ろす。
その瞬間に、魔獣が飛び出した。速度は凄まじいものの、レレイのそれを見た後では物足りなく感じる。充分以上に迎撃可能。
刀の切っ先を魔獣の顔面に向けたところで、ヤマトは溜め息をついた。
「時間切れか」
何を言っているのか分からないという顔を魔獣が浮かべる。
刹那、頭上から影が一つ、流星の如き速さで魔獣に組みついた。落下の勢いをそのままに、魔獣の背へ蹴りを浴びせる。
「あらま」
ヤマトとノアが思わず顔をしかめるほどの勢いで、魔獣が地に叩きつけられた。そのあまりの衝撃で、辺りの地面がくぼんでいる。
五体満足であることが不思議なほどの魔獣が横たわる上に、レレイが立っている。先程までの戦い振りが嘘であったかのように、平然とした表情。
「すまない。待たせたな」
「いやいや」
苦笑するノアに、レレイは何事もなく立ち上がり、歩み寄ってくる。
結局、レレイが全ての魔獣を片づけてしまった。少しは刀の錆落としになるかと期待していたのだが。
それでも、予定よりも遥かに大きな収穫に頬を緩めながら、ヤマトは刀を鞘に収めた。